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第5章 ~ペイン海賊団編~

―31― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(13)~レイナ、そしてルーク~

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 目を閉じたレイナ。
 ふさいだ両耳の隙間から流れ込んでくるのは、母の囁きのごとき穏やかな波の音だけである。
 今、この船室内は波の音以外は静寂の中にあると言ってもいいだろう。
 深い深呼吸したレイナは、”彼に”問いかけた。

――なぜ、私に? 私に何ができるというのですか?

 だが――
 先ほどのような”ヴィンセントの声”は、自分の魂に何も響いてこなかった。
 レイナはそれでも、数十秒は彼からの答えを待とうとはした。元の世界にいた頃は、超常現象などは全く信じてはおらず、むしろ心霊だとか超能力だとかに興味よりも恐怖を感じる性質であったのに。

 だだ、いくら待っても彼からの答えなどない。
 鼓膜を微かに震わせる穏やかな波の音と、目を閉じて視覚をシャットダウンしているためか、嗅覚が急激に研ぎ澄まされ窓から流れ込んでくる潮の匂いだけが……


 答えられないことなのか?
 答えが”ない”ことなのか?
 それとも、自分自身で考えろ……道を見つけろということなのか?


 3つの考えがグルグルとレイナの脳裏で蜷局を巻き始めていた。
 そもそも、先ほど聞こえた”ヴィンセントの声”が幻聴ではなかったという証拠は何もない。以前のレイナからすれば、「頭、大丈夫?」と聞きたくなるようなことを今の自分は行っているのだ。

 だが――
「熱……っ!!」
 右手が急に熱く、ドクンと脈打ったのだ。熱く脈打ち続ける自分の右手。だが、その右手は熱湯をかぶったり、はたまた炎でじんわりとあぶられたかのような熱さ(そもそもそのような目に遭ったことないので想像でしかないが)ではなかった。
 まるで、今の自分の体温が急激に右手一か所に集められたような……

 今、感じているこの不快でない右手の熱さは、絶対に錯覚などではない。
 この身に起こっていることは、まぎれもない現実だ。


――これが”ヴィンセントさん”からの答えなの?
 熱く脈打つ右手の熱さと、ほんとうに少しばかりの痛みはみるみるうちにスウッと引いていこうとしていた……
 でも、この事象こそが、レイナの問いに対する彼からの答えだろう。

――右手? 右手が一体、どうしたというの? 右手で何かをしろってことなの?
 熱が引きゆく右手を、豊かな胸の前でギュッと握りしめ、レイナは考える。
 この右手はレイナの利き手でもあり、マリア王女の利き手でもあっただろう。
 この右手で今までしてきたこと。そして、できること。

 レイナは、まだまだ慣れてはいないが、繕い物をしたり、包丁で肉や野菜を切ったり、お鍋をかき回したりといったことを、この船内の調理室にて行っていた。いずれもジェニーや、この船に同船している侍女たちのようなクオリティとスピードでは行えなかったが。
 そして、レイナがこの船に乗る前から行っていたのは、アンバーの形見のノートに”日々の記録と学びを筆記する”ことであった。

 次に、マリア王女が行っていたこととして、想像できるのは……彼女は水仕事などはしなくてもいい身分であった。アドリアナ王国の第一王女としての教養を身に着けるため、ペンを手に取って学ぶことは日常的に行っていたであろう。
 いや、何よりもあの淫乱なマリア王女が、この右手でほぼ日常的に”行っていたであろう”ことを想像すると、レイナは気持ち悪くなってきた。
 この右手は男性の排泄器官を掴んでいたことだってあるに違いなかった。
 レイナの魂はまごうことなき生娘であり、”そのような行為”にはどうしても嫌悪してしまう潔癖な面があった。


 その時――
「レイナさん……!」
 背後からかけられたミザリーの声に、レイナは飛びあがらんばかりに驚いて、振り返った。

「お顔が赤いですよ……何かあったのですか?」
 そう言って、ベッドからむくりと起き上ったミザリー自身の顔もまだまだ続いているに違いない熱で、赤く火照っていた。ミザリーの広い額から、彼女の熱をたっぷり吸っている白い布が、パサリとシーツの上に落ちた。

「ミザリーさん、今は寝ていてください……っ!」
 レイナは慌てて、ミザリーに駆け寄った。
 彼女を元通りベッドに横たわらせたレイナは、ぬるくなってしまった白い布を再び冷たい水に浸し、ミザリーの額にそっと乗せた。

「ごめんなさい……ありがとう」
 ミザリーが囁くようなかすかな声で、レイナに言う。
 この生真面目なミザリーの性分上、一刻も早く、薬も効かない厄介なこの症状を治したいと歯痒く思っているに違いなかった。
 それに――
 彼女は悔やみ続けているのだろう。
 あの港町の宿で、”マリア王女”への殺意を燃え上がらせていた男・ティモシーの侵入を自らが許し、レイナをもう少しで殺される寸前の恐ろしい目に遭わせてしまったこと。そして、他の者たちとともに、サミュエルの妖しい薬に倒れてしまった。その後、魔導士の力を持っていない他の者たちは、ほぼ全快の状態にあるというのに、今も自分はこうしてベッドから碌に起き上がることもできない状態にある。


「レイナさん……何かあったのですね?」
 再び、ベッドに横たわったミザリーが問う。
 やはり、観察眼が非常に優れているこの女性には、隠し事などできない。
 それに、ミザリーと顔をあわせてから、まだ1か月にも満たないが、レイナにとって彼女は信頼できる人物であった。
 この”信頼”などといった、数値や明確な証拠で突きつけられることのできない感情をうまく説明することをレイナはできない。
 だが、長い時間を共有していていても心の底から信頼することはできない者はいるし、このミザリーやアンバーのように共有した時間は非常に短くても信頼することができる者はいるのだ。

 これが魂の波長が合うということなのかしら……と、魔導士としての力などひとかけらも持っていないレイナは思った。
 ミザリーよりアンバーの方が年下ではあるが、レイナにってアンバーはこの世界における”母”を思わせ、ミザリーはこの世界における”姉”を思わせる存在であった。兄しかいなかったレイナであるし、ミザリーとは互いに敬語を崩すことなく話をしているが……


「……良ければ、話していただけませんか?」
 ミザリーがまっすぐ、レイナの青き瞳を見つめた。
 ミザリーもまた思っていた。
 ほんの数か月前まで、目の前のこの美しい”王女”は、身分と絶世の美貌を鼻にかけ、自分のような醜い女の容姿を目の前で中傷し、淫蕩な行為を城内で何度も行っていた。
 だが、心配そうに今の自分と視線を交わらせている、この美しい”少女”は、15才と聞いていた年齢から考えてるとすれてはおらずやや幼い感じがしないでもないが、本当に善良であり、慣れぬ異世界にて恐怖や戸惑いの中にありながらも、必死で生きていこうとしているのだと――


「もし、話していただけるというなら、あなたのお話は私の心の中だけに留めるつもりです」
 ミザリーのその言葉に、コクリと頷いたレイナ。
 ミザリーなら今の自分の身に起こっていることを笑い飛ばしたりはせず、真剣に聞いてくれるだろう。それに、自分が今から話すことはただでさえ謎めいた存在である”ヴィンセント”を、今以上に謎めいた妖しい存在であるとミザリーに伝えてしまうことである。
 でも、ミザリーなら自分の口が今言った通り、自分たち以外の他人に話していいことといけないことの区別は、きちんとつけるであろうと……
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