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第3章

―2― そして、物語は動き出す

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 謎の少年・ゲイブ。そして、2通目の手紙。
 アポストルからのやや具体的な次なる啓示。そこにはレイナの名前も書かれていた。
――なぜ、私なんかの名前が書かれているの? 私が英雄になれるわけがないし、そもそも最初の手紙にはルークさんたちの名前しか書かれていなかったはず……
 すでに紡がれている”全て”を知っているらしきアポストルは、レイナの名前を知っているのは勿論のこと、レイナがどういった経緯でこの世界に誘われたのかも知っているのだろう。
――でも、分からない。分からないわ。それに、今の手紙にはまた別の男の人たちの名前も書かれていた。”アダム”と”ヴィンセント”って男の人の名前よね。その人たちもやがて英雄になるってこと?

 アダム・ポール・タウンゼント
 ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョー

 そう、新たな2人の男性の名前。
 ルーク、ディラン、トレヴァーの3人も、名指しされたこの2人の男性の名前に心当たりはないらしく、唖然としてそれぞれ顔を見合わせていた。無論、レイナが2人の男性に心当たりがあるはずがない。
 だが――
 ジョセフ、カール、ダリオは、2人の男性のうち1人の名前を知っているらしかった。
「アダム・ポール・タウンゼントとは……確か、高名な魔導士であった者のことか? 確か、このタウンゼントという者はその昔、今のお前たちのように城直属の魔導士として迎え入れる話もあったが、本人が断り、地方で暮らしていると聞いた覚えがあるが……」
「ええ、ジョセフ王子。現在の魔導士の職に就いている者で、アダム・ポール・タウンゼントの名前を知らぬ者はおりません」
 ジョセフに答えたダリオも、そしてカールも驚いた。
 我がアドリアナ王国のジョセフ王子は、一度会った者の顔と名前はしっかりと覚えている。だが、一度も会ったことがないに関わらず、おそらくまだ歴史上の人物にもなっていない1人の民の名前や元職業までも正確に覚えていたことに。

「だが、もう1人のヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーという名は私も聞き覚えがないだが……」
 ダリオとカールは、同時にジョセフに頷き答えた。
「私どももそのスクリムジョーとやらの名前には覚えがありません。タウンゼントの弟子かとも思いましたが、確かタウンゼントは弟子を取らない主義であったそうですし……」
「それに、タウンゼントはもう80を超えているはずです。この者たちと同様に剣を振るうことは難しいとは思いますが、魔導士としての力は相当かと。あのサミュエル・メイナード・ヘルキャットと双璧であったと言われておりますから……」
 カールがやや目を伏せながら答えた。
「……サミュエル・メイナード・ヘルキャットか。確か今より59年前に起こった、あの忌まわしい事件を引き起こした魔導士の”1人”であり、それ以来姿を消したという……」
 ジョセフに、カールとダリオが頷いた。

 レイナ、そしてルークたちすら生まれる前に起こった話が展開されている。手紙を言付かってきたゲイブも、ただぽつんと立って話し込むジョセフたちの様子を見ていた。
 ジョセフたちはなおも続ける。
「59年前はあの事件だけでなく、あのユーフェミア国が闇に包まれて消えたという天変地異が起こった年だと記されていたな」

 闇に消えた国。ユーフェミア国。
 そのことを口にした張本人であるジョセフも、カールとダリオも、ルーク、ディラン、トレヴァー、そしてレイナですらハッとした。
 あの手紙の最終節。

 暗黒に飲まれし民たちを救わんと
 ともに船を漕ぎゆく英雄全員が集いし時、
 私はまたゲイブに手紙を託す

 ”暗黒に飲まれし民たち”とは、まさかユーフェミア国の民のことを指しているのではないのか――?
 
 生じた疑問に対しての解答を望む、この部屋にいる者全ての視線を一瞬にして浴びせられたゲイブはビクッと飛びあがった。そして、子供らしい怯えを見せながら後ずさった。

 ジョセフは手紙を持ったまま、腰を再度ゲイブと同じ目線に落とし手招きをした。
「おいで、ゲイブ。誰もお前に危害を加えたりはしない。1つだけ聞きたいことがあるんだ……お前にこの手紙を託したお兄さんとやらは、この”暗黒に飲まれし民たち”とは一体、どこの国の民のことだと言っていたのだ?」
 優しく手招きをするジョセフであったが、ゲイブは首をブンブンと振る。
「僕は知らない。僕は何も知らないよ。でも、ユーフェミア国って僕が暮らしている国だもん! 僕の国は何もおかしいことになんかなっちゃいないよ! お父さんとお母さん、そして優しいお姉ちゃんたちと暮らしているんだもん!」

 ゲイブはユーフェミア国の民であった。
 だが、そのユーフェミア国は暗黒に飲まれてなどいないと。
 ゲイブが嘘をついているようには見えなかった。いや、そもそも嘘をつくような悪知恵を働かせるほどの精神にまだ彼は到達していないだろう。
 これは一体、どういうことなのか?

 その時――
 ジョセフが手に持っていたアポストルからの手紙――前回と同じ、わずかにザラザラとした手触りの手紙は色あせ始めた。そして、ボロボロと形を崩し……
「ジョセフ王子! 失礼します!」
 カールとダリオが慌てて、ジョセフの手にある消えゆく手紙へと手を伸ばした。何か1つでもこの後の手掛かりとなるものを残しておきたいという思いからであろう。
 けれども、カールとダリオがその手紙のわずかな欠片に触れたかと思うと、やはり手紙はこの薄暗い部屋の宙へと舞い散るように消えた。

 またしても消えた手紙。
 だが、誰もが前回と違うことに気づいていた。目の前で起こった摩訶不思議すぎる光景に、分厚いドレスのなかでしなやかな白い両脚を震わせていたレイナですらも。
 前回は、ジョセフが読み上げるとすぐに手紙は消失した。
 今回は消失までの時間が伸びていた。それにゲイブがこの場に滞在している時間も。
 ゲイブを遣わした者のただの気まぐれか、それとも何か意味があってのことなのか?
 手紙の欠片に触れることができた魔導士であるカールとダリオが互いに目くばせしあっていた。彼らは何か他のことに気づいたのかもしれない。


「……すまなかったな。ゲイブ。他に何か知っていることがあれば、私たちに教えてくれないか?」
 怯えて、今にも瞳から涙を溢れさせんばかりのゲイブに、ジョセフは優しく声をかけた。
 ゲイブはコクンと涙を飲み込むような動作をした後、ジョセフに少しだけ歩み寄った。
「……僕に手紙を託したお兄さんがポソッと言っていたんだ。”マリア王女があんな××××じゃなかったら、ジョセフ王子はレツジョウ? を抱いたんだろうか?”って……」

 レイナが知っている四文字の放送禁止用語が愛らしいゲイブの口から発せられた。
 ゲイブのその言葉と話の内容に、ジョセフだけでなく誰もがギョッとした。近親相姦という禁断。マリアはその禁断の果実を楽しむ気満々であったが、ジョセフはそのマリアの性質を矯正しようとしていた。けれども、最後の最後までマリアのその生まれ持った性質を矯正することはできず、ついにマリアはジョセフが愛していた者を殺害するに至った。
 そのマリアが、もしごく普通に優しさや思いやり、そして正義の心を持って生まれていたら……と、なぜかゲイブに手紙を託した者が呟いていたというのだ。

 やや、困惑しながらもジョセフはゲイブに答えた。
「……子供にこんなことを正直に答えていいものかは分からんが、私は血のつながった肉親にそのような思いを抱くことは絶対にない。どれほど美しくても、妹は妹だ。例え、マリアが真っ当な人間の心を持って生まれていたとしてもそれは変わりない」
 ジョセフの実直な視線と真実の思いを受けたゲイブはコクンと頷いた。
 途端、ゲイブにこれ以上喋らせまいとするように、あのまばゆい光が彼の周りのパアッと戻ってきた。
 驚いたように目を見開いている少年・ゲイブをその内へと包み込み、そして瞬く間にゲイブは消えた。

 戻ってきた静寂。
 示された具体的な道標。そして、ゲイブと彼の後ろにいる者について得ることができた情報と新たな謎。
 陽が完全に落ち、さらに薄暗くなった部屋で考え込むように額に手をやるジョセフ、そして顔を見合わせているカールとダリオ。
 また、呆気にとられるとともに、新たな何かに巻き込まれ始めていることにやや苦い顔のルーク、ディラン、トレヴァー。黙って彼らの様子を見ているレイナの両脚はさらに震え出していた。
 物語はまだ続く。そして、物語は動き出している。時という何人にも止めることができない流れに乗って――
 その船には、自分も乗ることになるのだと。



「何なのでしょうね。あの訳の分からない子供は? 現在のユーフェミア国が闇に包まれていないはずはないのに。けれども……なかなか、面白い展開になってきましたねえ」
 アドリアナ王国の遥か上空に浮かぶ神人の船にて、エメラルドグリーンの瞳をキラリと光らせた魔導士・フランシスの前で四角形の空間が波打った。
 そこに映し出されていたのは、まさにこれから動き出す物語のワンシーンであった。
「……だが、いさかかキャストが地味といいますが、多少生きがよくて、そこそこの見てくれの3人の平民の青年に、なんとも頼りなげな異世界からの少女とはね……もし、手にペンを握る職業の方でしたら、きっとこの英雄という役を与える青年たちは貴族もしくは元から力を持って生まれた者か、あの少女ももう少し灰汁の強い性格にするでしょうね」
 クククと笑ったフランシスは振り向いた。銀色の長い髪がサラリと宙に泳いだ。
 フランシスはただ長々と独り言を言っていたわけではない。
 他人に聞かせるための独り言。
 綺麗に整頓された部屋。紫色のビロードのような手触りで背もたれのある椅子。この神人の船の応接間とも言える部屋にあるその椅子に背をもたせ掛け、膝の上に置いた本の頁をパラリパラリと静かにめくっていた1人の女性に向けてであった。
「ね、あなたは彼らについて、どう思われますか? ヘレン・ベアトリス・ダーリング」
 フランシスのその問いかけに、女性――ヘレンは、その”小さくて”華奢な手をピタリと止めた。
「……のぞき見なんて悪趣味な……」
 か細く愛らしいその声。
「おやおや、私は最低限のプライバシーは守ってのぞき見をしておりますよ。でも、あなたが嫌がるのなら辞めるといたします。必要な女性をもうこれ以上失いたくはないからですね」
 パチンとフランシスは指を鳴らした。レイナたちの様子を映し出していたさざ波は消えた。そして、再び物語の頁をめくり始めたヘレンへに言う。
「しかし、サミュエルだけでなく、この私もあの59年前の事件に影で関わっていると知られたら……絶対にジョセフ王子にしばかれますね。いや、しばかれるだけじゃすまないでしょうね」
 散々なほどジョセフにちょっかいをかけたにも関わらず、また悪い虫が動き出したらしいフランシスはおかしそうに笑う。
「いやはや、私がマリア王女と”契約”を結ばなければ、もしかしたらここ10年ぐらいのうちに、様々な困難を乗り越えて、ジョセフ王子は最愛のアンバーと結ばれていたかもしれないですねえ。けれども、史上初の平民出身の王妃であり、なおかつ嫁(アンバー)と小姑(マリア)の関係は最悪なものでありましたから、アンバーも気苦労が絶えなかったでしょう。まあ……アンバーはもうすでにアポストルとなってしまったわけですし、もう描くこともできない儚い物語ですけどね」

 ふうっと溜息をついたフランシスは、依然として膝の上の本に目を落としたままのヘレンに問う。
「で、ヘレン。話は元に戻るのですが、59年前の事件はあなたの人生をも一変させる出来事でございましたね。まさか、あなたの保護者が私やサミュエルたちより、ちょろまかした”あれ”を”一番の愛娘”であったあなたに与えるとは思いませんでした」
 ヘレンの手がピタッと止まった。
 彼女は膝の上の物語を読んでいるふりをしながら、しっかりと自分の話を聞いている。いや、聞かずにはいられないとフランシスは分かっていた。
「盗人には罰を……と私とサミュエルがあの者の元へと駆け付けましたところ、既に彼はあなたの手によって……それ以来あなたは私たちの仲間となった。魔導士の力という種を持って生まれていながらも、育つ土俵が最低最悪であったことがあなたの人生最大の不運でございましたね」

 ヘレンは膝の上の本をパタンと勢いをつけて閉じた。
 今日はやけに自分に絡んでくるフランシス。苛立ちを押さえるため、ヘレンは大きく息を吸い込んだ。
「……フランシス、あなたに保護のようなかたちではありましたがこうして読み書きや魔術を教えてくれたことは感謝しています。けれども、私はここにしか居場所がないのです。普通の人間の女として生きようとしても、それはもう私にはできないのですから」
 フランシスはコツリと足音を響かせ、ヘレンへと一歩だけ歩み寄った。
 適度な距離を保ったまま、フランシスは続ける。
「まあ、あなたのような姿になってしまったら、人間のコミュニティで暮らすよりも、選びぬかれた魔導士だけのコミュニティで暮らしたほうがいいでしょう。あなたにとって、”ここは安全地帯”なのですから。けれども、魔導士の力を持たずに生まれたため、愛する女を守れなかった者もいるというのに、何がより良いことなのかなんて分からないものですね」

 フランシスはまだまだ話を続けるらしい。
 ヘレンは椅子に背を持たせかけたまま、フランシスの長話を聞く覚悟を決めた。彼女の瑞々しい頬にしっかりとして分厚いともいえる睫毛が影を落としていた。
「さてと、アンバーがいなくなった今は、サミュエルの昔なじみの例の人を棺へと迎え入れる第一候補としております。けれども、比喩ではなく本当に棺桶に片足を突っ込みはじめているような例の人よりも、妙齢の美しい女性の方が絵的に映えるのですがねえ。ちょっと不満はありますが、致し方ないことです。ですが、万が一のこともありますので、予備の道具も見つけておかなければね……アンバーや例の人に比べたら、生まれ持った魔導士としての力はやや劣りますが、他人なのに双子みたいなあの失敬な魔導士コンビでもいいですね」
 フランシスが言っているのは、カールとダリオのことである。
 だが、彼ら2人に面識がないヘレンはフランシスに問う。
「……あなたはあの棺の中へと誘う者の候補として、私たちも入れているのでしょう?」
「おやおや、あなたは本当に私のことをよく分かっていてくださっている」
 フランシスの嬉しそうな声に、ヘレンが肩を少しだけビクリと動かした。
「ふふ……まあ、冗談でございますよ。なんだか、アンバーもマリア王女も”失って”しまった今は、心の隙間を埋めるためかやけに饒舌になっていますね」
「いつもじゃないですか」
 ”それにアンバーはともかく、マリア王女を消滅へと追いやったのはあなた自身じゃないですか”という突っ込みはヘレンはしなかったが……

 ヘレンは思い出す。
 感情を表に出すことなど滅多にないヘレンであるが、あの残虐で淫蕩でなお高慢でもあるマリア王女の美しさには「なんて美しい人なの……!」と心の中で感嘆するしかなかった。そして、その絶世の美姫・マリアからたまに与えられる微笑みと肉体を史上の歓びとし子犬のように付き従っていた1人の青年を。

 その時、船の甲板からこの部屋へと続く廊下をバタバタを走る音がした。
 フランシスが顔をしかめた。自分たちの仲間で一番最年少で、なおかつやや落ち着きがなく、思春期の衝動を持て余しているような魔導士の少年・ネイサンがこの部屋に向かって駆けてくるに違いない。
 バァン! と扉は開いた。
「全く騒がしいですよ。ネイサン、廊下は走らないようにと再三、言っているでしょう」
 教師のような物言いをしたフランシスと、椅子に座ったままのヘレンの予想は外れた。
「あなたはオーガスト……!」
 扉の向こうに立っていたのは線の細い印象を与えるあの人形職人の青年・オーガストであった。
 引き攣った面持ちのまま、両手に大切そうに1つの鞄を抱えているオーガストは、唇をグッと強く結んだ。そして、床の上に鞄をそおっと置き、黙ってフランシスに向かって――

「……一体、何の真似ですか?」
 フランシスは、自分に向かって土下座という行為を行っているオーガストを見下ろし問う。
「頼む! お前しか……いや、あんたしかいないんだ! どうかマリア王女を許してやってくれ!」
「オーガスト、あなたはもともと私を好いてはいなかったでしょう? そのうえ、私はマリア王女の魂を消滅させた張本人でございますよ。その相手に土下座をして、許しを乞うなど一体どういった了見ですか? そもそも、許すも何もあなたの愛するマリア王女の魂はもうどこにもないのですよ」
 はあ、と溜息を吐いたフランシスは、潤んだ瞳と震える唇で土下座したまま自分を見上げるオーガストを諭した。
「……あの方は消滅などしていない。まだ、生きているんだよ!」
「なんと……!」
 フランシスはオーガストが大切に抱えていた鞄にチラリと目をやった。

 フフッと鼻を鳴らしたフランシスは、口元に笑みを浮かべた。
「おやおや、本当でございますね。微力ではありますが、あの我儘王女の魂の輝きをその鞄より感じますねえ……あれから24時間以内には彼女の魂も蝋燭の炎が消えるように弱まり、消滅するものだと思っていましたのに……」
「……毎日、話しかけ、頬ずりし、口づけをしていたら、あの方の意識は次第にはっきりとしてきたんだ」
「いやはや、これはこれは……あなたの愛がマリア王女の魂の命綱となったのですね」

 フランシスがオーガストに歩み寄った。
「オーガスト、今から伝えるのはあなたの8.8倍ほど長く生きている私からあなたへのアドバイスでございます。あなたはマリア王女に出会う前の生活に戻るべきですよ。確かにあなたはジョセフ王子たちに危害を加える一味として私たちの側へと立っておりました。それ相応の刑罰を受ける可能性もございますが、死刑とまではならないでしょう。人生をやり直せる可能性は充分にあります。元の人形職人に戻って、マリア王女より容姿は数段……いや、数十段劣ったとしても日だまりのような魂の真っ当な娘と添い遂げることができるかもしれませんよ。そのマリア王女はいなくなったほうが世のため人のためとなる女なのですから……」
 オーガストは唇をさらに強く噛み、”それをお前が言うなよ”という言葉を飲み込んだ。
 このフランシスは自分と同様、マリア王女の歪んだ性質を充分に理解していながら、肉体的に交わった。一度、自分の手に抱いた女であるのに、切り捨てる時は慈悲も見せることなく、躊躇なく切り捨てた。だが、マリア王女の魂を何らかの魔術で復活させることができるであろう力を持っているのは、この不気味な魔導士・フランシスしかいないだと。

「どれ、私もマリア王女と少しお話させてください」
 マリアの魂のひとかけら――人形の頭部が大切に入っているオーガストの傍らの鞄へとフランシスが手を伸ばした。
 オーガストは慌てて、自分の背にマリアをかばった。
「……マリア王女は今は眠っているんだ」
 嘘も方便といった感じでついたオーガストの嘘をフランシスはすぐに見破り、クククっと笑った。
「おやおや、起きているくせに。私が怖いのでございましょう? 自分の手の内にいると思い込んでいた男に反旗を翻され、挙句の果てに消滅させられそうになったのですからねぇ」

――やはり、駄目か……!
 オーガストは唇をさらに血が滲むほどに噛み、俯いた。一縷の望みをかけて、このフランシスの手下の1人の力を借り、この呪われた神人の船に再び足を踏み入れ、決して好いてはいない男にプライドも何もかも捨て、マリアのためだけにフランシスに頭を下げたにも関わらず……
「顔をあげなさい、オーガスト」
 フランシスは顔を上げたオーガストの金髪と栗色の中間のような色をした彼の瞳をじっと見つめた。彼のその心にある愛の深さを測るように。
「分かりました……マリア王女ではなく、あなたのその献身的な愛の願いを聞き入れることといたしましょう」
 思いもよらないフランシスのその言葉に、オーガストの顔は困惑しつつも輝き始めた。
「けれども、2つ条件があります。私がマリア王女を許すのは、私の計画が完了してからとなるということ。そして、その計画の完了までにあなたのその類まれな人形職人の腕を役立たせていただきます。取りあえず、今はマリア王女の意識を明確にさせておく応急措置をとるとして……それに、もうマリア王女の魂の大部分はすでに消滅してしまっているわけですから、修復というよりも別の形をとることなりますけどね」
 含ませた物言いをするフランシスの話を、オーガストは完全に理解することはできなかった。
 けれども、マリアが助かる方向へと流れている。自分がこの命に変えても愛している女の魂がこれから先の時間を紡ぐための糸はより強くなったのだ。
「……ありがとう……本当にありがとう」
 オーガストは土下座の体勢のまま、フランシスにまたしても深々と頭を下げた。
「おや、あなたが私にそう素直に礼を言うとはね。あなたのその人生を全て捧げる恋の物語もまだ続いていくのですね……」

 と、その時、この部屋へと向かってくる別の足音がした。
 飄々とした軽快なその足音の持ち主が部屋に入ってくると、フランシスの表情はみるみるうちに険しくなっていった。
 一瞬にして、空気がピリピリと張りつめるほどに。
「オーガスト、マリア王女とともにどこか別の部屋に行っていなさい。ヘレン、あなたはここにいてください」
 フランシスの静かな憤怒を感じ取り、面倒はごめんだわ、と本を手に椅子から立ち上がろうとしていたヘレンであったが、椅子に腰を下ろすしかなかった。
 オーガストはマリアを入れた鞄を両手に抱え、心配そうにフランシスたちの様子をうかがいながらも、この部屋を出ていった。

「何をそんなに怒っているんですか? フランシスさん」
 フランシスが問いただそうとするより先に、彼が口を開いた。
「……ネイサン、あなたは私と少しお話をしなければいけませんね」
 古びたボロボロの長方形の板を手に持ち、金髪と赤毛が混じったような色の長髪を後ろでまとめ、原色を使った個性的なデザインの服に身を包んだ少年・ネイサン・マイケル・スライに、フランシスはギロリと視線を向けた。

 だが、ネイサンはフランシスの厳しい視線を受けながらも平然と薄笑いを浮かべていた。

「ネイサン、あなたでしょう。今日だけでなく、あのアリスの城の麓の戦いにおいて、オーガストを瞬間移動させたのは……」
「あれ、やっぱりばれてましたか? いや、あのイカレた王女に首ったけのあいつが行った方が面白くなると思いまして……俺は確かに見学だけと言われていましたけど、あいつを移動させるなとは言われてなかったものですから」
「ふっ……屁理屈を……」
 敬語こそ使ってはいるものの、ネイサンはフランシスに飄々とした感じで答えた。

 張りつめた空気はさらに重く冷たくなっていく……
 だが――
「……まあ、子供が余計なことをしたということで今回は許しますか。後から思い出して、自分の愚かさに赤面してしまうことは、子供時代にはありがちですからね……」
 重々しい溜息をフランシスはふーっと吐いた。
「やだなあ……フランシスさん。俺が自分の行動に後悔することなんて、あるわけじゃないですか?」
「お黙りなさい。あなたはここにいられる理由、そして、私が今あなたをこうして許した理由について、胸に手を当てて良く考えることです」
 フランシスの言葉に、ヘレンの背筋がゾッとした。
 ネイサンがここにいる理由、そしてフランシスが彼を許した理由は、彼の生まれ持った力に他ならないだろう。死したアンバーの代わりに棺へと誘う者として、仲間であるネイサンや自分すら”本当に”その候補として入れているのではないかと……
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