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第5章 ~ペイン海賊団編~
―103― 襲撃(47)~巨大で禍々しい灰色の手~
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――早く……早く助けねえと……!!!
ダッと駆け出したルーク。
だが――
「!!!」
駆けだすやいなや、ルイージがバッとかけてきた、そのひょろ長い足によって、ルークの身は甲板へと強かに叩きつけられた。
剣での戦い、そして奴との盛大で強烈な殴り合いによって、もはやボロボロとなっているルークの身に打ち身の苦痛が追加され、血が流れ続ける”彼の傷口たち”はさらに呻き声をあげた。
「……て…めえ……!!」
「おい、ルーク、この俺をほっぽらかしてどこ行くってんだ?」
自身の服の袖口で、鼻血をゴシッとぬぐったルイージ。
ルイージの頬もルークと同じく紅潮し、苦し気な息を吐き続けていた。ボロボロとなっているのは、もはや奴も同じだ。
「……お前のお仲間は、”もう無理”じゃね(笑)?……あの”キモいの”がなんだか知らねえけどよ、お前らの味方じゃねえのは”確定”つうワケだよな」
「…………!!」
「それに、お前のお仲間がまだ完全にくたばってはいなくてもよぉ。鮫ってのはそりゃあ人間相手でも”仕事が早い”モンだぜ」
ルイージは、鮫の仕事が早いことを知っている。
なぜ、知っている?
いつ、どういった状況でそれを知ったのか?
まさか、奴は――いや、奴らは鮫の”仕事の早さ”を人間で試すようなことが過去にあったということなのか?
ペイン海賊団との戦い終盤まで、自分たちとともに戦い、生き残り続けていたヴィンセントと兵士隊長の死?
まさか……
出港前、首都シャノンにネイサンを連れて不法侵入してきたフランシスが残した”嫌な置き土産”のうちの1つ――自分たち「希望の光を運ぶ者たち」7人のうち3人が、5年後に生を紡いでる姿が見えないという未来――その3人のうちの1人がヴィンセントであるということか?
そして……
兵士隊長・パトリックが自分の心の奥深くに”沈め”、他人に話すことはなかったため誰も知らないことであるも、彼が出港直後より感じていた拭い去ることのできない”不吉な予感”とは、ペイン海賊団の襲撃だけでなく、彼自身の死をも意味していたのか?
ヴィンセントとパトリックは、甲板の獣である海賊どもには打ち勝つことはできたが、何の前触れもなく現れた妖しのごとき不気味な手に痛めつけられた挙句、”海中の獣である鮫”の餌になるという無惨な最期を迎えるということなのか――?!
でも、そんなことはさせない。
そんなことがあってたまるものか!
「ディラン! ”こいつ”を1人で押さえられるか!?」
「もちろんだ!!」
間髪入れず、ディランはフレディに頷いた。
彼らの下にて、うつぶせの体勢となり後ろ手で押さえつけられていたジムが「てめえらぁぁ!」とビキッと青筋を立てた。
フレディが船べりへ向かって駆け出す。
ディランはジムの背へとさらに体重をかける。
ヴィンセントと兵士隊長を助けに行きたくとも、アドリアナ王国の兵士たち全員で助けに行くことは不可能だ。
この甲板には海賊どもがいるのだ。
海賊どもを自由にするわけにはいかない。
全身の至るところに血を滲ませたトレヴァーも、悔し気に唇をギッと噛みしめたまま、なおも喘ぎ続けるエクスタシー海賊を押さえ続けていた。
今というこの時にも、ヴィンセントも兵士隊長は、海中の獣どもを強烈なまでに誘う血を流しながら、冷たく暗い海の底へと……
フレディは、思ったのだ。
他の者たちに比べると、自分の肉体なら血の匂いをこれ以上、強めることはないだろうと――
この甲板にいる者たちは皆、敵も味方も含めてほぼ100%の確率で、全身の至るところに剣傷だったり殴打跡だったりと、血を滲ませてはいる。
現にフレディも、海賊どもに斬りつけられた傷口より血を流しはした。だが、フレディの血はもうすでに止まっている。
完全には治癒はしていないし、治癒までのスピードも”覚醒時”直後より比べると格段に遅くはなっている。けれども、”普通の人間のように”これ以上の血を流し、これ以上に傷口が広がっていくことはまずないだろう。
「早く、飛び込むんだ!」「俺が行く!」と甲板の至るところで、フレディだけでなくルーク、ディラン、トレヴァーと同じ思いのアドリアナ王国の兵士たちの声があがっていた。現在、動くことのできる数人が、痛む脚で船べりへと駆けていく。
その反対に、押さえつけられた海賊たちからは「ざまぁ」と笑い声が――奴ら自身もあの不気味な手の操り主を知らないであろうに、残酷な海賊たちからは下卑た笑い声が束となってあがっていた。
当のあの不気味な手と言えば、指先を下にしたまま、黄金の瞳をギョロギョロとさせ、次にその手でしばく相手を探しているようであった。
だが、今、アドリアナ王国兵士とペイン海賊団団員は、押さえつける者と押さえ込まれた者というほぼ1セットで、甲板にいる。
ペイン海賊団側に立っている”らしい”あの化物は、自分が次に手を振り上げることで、ペイン海賊団団員をも飛ばしてしまうことを躊躇しているように見えた。
「――行くぞ!」
自分と同じく船べりへと手をかけたアドリアナ王国兵士――イライジャ・ダリル・フィッシュバーンの声に、フレディと彼の隣にいる兵士は頷いた。
この3人で、ヴィンセントと兵士隊長を助けに海へと飛び込む。
「”マーマン(男性人魚)”と呼ばれたこともある、俺を舐めんなよ!」
自分自身を鼓舞するかのように、泳ぎは相当に得意であるらしい兵士・フィッシュバーンが呟く。
船べりへと足をかけたフレディたちの眼下には、青く美しい海が宝石のごとく煌めいていた。
だが――
今まさに、フレディたちがその海へと身を投じようとした時であった。
――待ちなさい!
と、彼らの脳裏に直接、声が響いてきたのだ。
「ヴィンセント!?」
ハッとするフレディ。
フレディには、この不思議な声の主がすぐに分かった。
艶のある濃厚なテノール。
これは間違いなく、今、海の中にいるはずのヴィンセントの声であった。
ヴィンセントに、”実は双子の片割れがいたというわけでもない限り”これほどまでに彼と声が似ている者などは他にいないであろう。
「な、なんだ?」
フィッシュバーンともう1人の兵士は――鼓膜を通してではなく、脳裏に……彼らの魂に直接、声が聞こえてくるという初体験に混乱しているようであった。
その”ヴィンセントの声”は、なおも続いた。
――あなたたちが海に飛び込み、自らの身を危険にさらす必要はありません! 私が”彼ら”を……
「どうしたってんだ?! 早く――」
海へと飛び込む寸前で、その動きを止めた3人の背に他の兵士たちの急いた声が幾つもかかる。
間髪入れず「怖気づいたんじゃね?」「カッコつけてたってのに、笑えんなあ! 弱虫野郎ども!」と、海賊たちがけたたましい笑い声をあげる。
バッとフィッシュバーンが振り返った。
「……あっ、頭に声が響いてくンだよ。あいつの――スクリムジョーの声が、ハッキリと!」
「!?!」
フィッシュバーンは、嘘を言っているようには見えない。彼と同じく、振り返ったフレディももう1人の兵士の表情も、フィッシュバーンと同様であった。
一体、どういうことなのだ?
その時――
さらに、この不思議であり、なお緊迫もしている状況に追い打ちをかける事態が起こり始めた。
光だ。
光が甲板の中央にパアッと現れたのだ。
「……なんだ!?」
「……一体、次々に何なんだ?」
その光は、とてもあたたかな光であった。
それはここにいる全ての者――人の命すら何とも思わないペイン海賊団の奴らにすら懐かしく、切なく、そして荘厳な思いを抱かせる光であった。
懐かしき光。あたたかな光。
フレディは、この光に見覚えがあった。
アポストルからの使いの少年・ゲイブが現れる時に、まるで光の波のごとく、部屋を満たしていった光だ。
ルーク、ディラン、トレヴァーも、この光に幾度となく見覚えがあった。
これは、ゲイブが現れる時の光であるとともに、アポストルとなった女性魔導士アンバー・ミーガン・オスティーンが風の棺へと運ばれし時、彼女の肉体より発せられし光でもあるのだ。
「――ゲイブか!?」
ルークが呟く。
彼の傍らでは、超悪党のルイージですら、ポカンと口をあけたまま、美しい光に見惚れていた。
奴は仲間を助けに行こうとしているルークを邪魔していた最中であることも、忘れているらしかった。
この光は”間違いなく”アポストルが放つ光だ。
ゲイブが現れるのだ。
数か月前、涙に濡れた顔で現れ、全ての謎を明かさないまま、光とともに消えてしまったゲイブが……
正直、ルークたちは、あの愛くるしいばかりの少年には今後のことも含め、いろいろと聞きたいことがある。
しかし、だ。
今、ゲイブが現れるのは非常にまずい。
あまりにも、タイミングが悪すぎる。
今は、4回目となる啓示など聞いている余裕などない。
(なぜかヴィンセントの声が聞こえてきたらしいが)一刻も早く海の中にいるはずのヴィンセントと兵士隊長を救出しなければならない。
何より、ここには海賊どもがいる。
こいつらペイン海賊団は、非力で無力な子供であっても危害を加えようとするだろう。
もし、奴らに隙をつかれてゲイブが人質に取られでもしたら……
けれども、光から目が離せなくなっている全ての者の前で――その荘厳な光は、さらに大きく、そしてさらに眩く輝きゆく……
光の中にいる輪郭も、次第にはっきりと見え始めてきた。
――?!
アポストルの光を知っているルーク、ディラン、トレヴァー、フレディに即座に走った違和感。
あの光の中にいるのは、ゲイブではない。ゲイブであるはずがない。
中にいるのは、”男たち”だ。
揃いも揃って、二次成長期は終了し、完全に成熟しきった直線的で硬い輪郭を持ち、なおかつ長身でありほぼ同じぐらいの背丈の男が”3人”だ。
――?!?
そう、その光の中には、”確かに”3人の男がいたはずであった。
だが、そのうちの1人は突然にフッと掻き消え、その光から姿を現したのは、2人だけであった。
ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーとパトリック・イアン・ヒンドリー。
フレディやフィッシュバーンたちが、海中へと助けに向かわんとしていた”2人”が、荘厳な光の中より姿を見せたのだ。
ヴィンセントとパトリックは無事であった。
彼ら2人は命ある者として、生者の天秤へと乗り続けている者として、互いに体を支え合いながらしっかりと両脚で立ち、その姿を自分たちの元に現したのだ。
ともにずぶ濡れである彼らの衣服からは、海水がボトボトと滴り続けていた。
そして、新鮮な空気が急激に体内へと流れ込んできたためか、揃ってあばらを押さえ、息を整えようともしていた。
ヴィンセントの濡れた赤毛は乱れ、口の中を切っていたらしく、彼の形の良い蠱惑的な唇の端からは、真っ赤な血がつたった。
そして、ヴィンセントよりわずかに前に立っていた(つまりは、あの不気味な手の攻撃をより強く受けることになった)パトリックのダークブロンドの長髪も乱れ、彼は口からも、そして鼻からも真っ赤な血がつたった。
だが、パトリックの瞳は、責任と実力ある兵士隊長としての輝きを――戦士としての光を失ってなどはいなかった。
自分たちを海へとはたき落とした、不気味な化物の黄金の瞳へと変わることのない闘志をギッと見せたのだから……
「……ヴィンセント! 隊長!」
うつ伏せのジムにまたがり、奴を押さえつけていたディランから、安堵の息が漏れた。
「……ンだよ。何で生きてやがんだよ! 普通は死んでンだろ!」
屈辱の真っただ中にいるジムが喚いた。
確かにジムの言う通りである。
あの巨大で禍々しい灰色の手が、ヴィンセントとパトリックをほぼ同時にはたいた時の嫌な音は、ディランやジムだけでなく、甲板にいる誰もが聞いていた。
あの音にしては、あまりにも軽傷すぎる。意識を失うのは、ほぼ当然であり、全身の至るところの骨が折れていてもおかしくはない。
ヴィンセントとパトリックが死亡することもなく、再起不能となるほどの重傷を負っていない事は、まるで奇跡のごとき幸運ではある。
仲間と兵士隊長を、永久に失うことにはならなかった。
でも、普通では考えられない。普通ではない。
それに――
「なあ……さっき、確かに”3人”いたよな……」
「3人目はどこに、行っちまったんだよ。そもそも、3人目は誰なんだよ?!」
「……なんなんだよ、あいつら? 気味悪ィ……」
と、敵味方問わず、困惑と恐怖が入り混じった声がそこかしこであがり、広がっていたのだから。
受けたダメージがあまりにも軽すぎる2人と、消えてしまった3人目。
ヴィンセントとパトリックに、強烈な張り手を喰らわせた手の甲にある瞳も、予期せぬことにビックリしたらしく――その脂肪に包まれ睫毛が埋もれている黄金色の瞳をパチクリとさせていた。
いや、奴はパチクリさせているだけじゃない。
生粋の戦士であるパトリックにメンチを切られ、明らかにビビり、たじろいでいるらしかった。
まるで脚を震わせるように、5本の指を震わせ、体格差も力の差も自分の方が優位である相手から後ずさっていたのだから。
あの手の操り主は、自分たちの想像以上にチキンハートであるのか?
思い付きでこの場に現れ、誰かに言われて攻撃の一手を発したものの、次々と起こる不測の事態にたじろいでしまったとしか思えなかった。
そして――
この光景を見ていたのは、甲板にいる者たちだけではなかった。
”明らかに人為的な灰色の雲”の遥か上空にて、その帆を進めている神人の船の者たちも、覗き見のさざ波にてしっかり見ていた。
特にフランシスとサミュエルは、普通の人間が引き起こせるはずがない事象の理由、というよりも”原因となっている者”についても正確に推測し、また、巨大で禍々しい灰色の手の操り主についても”しっかりと”心当たりがあったのだ。
ダッと駆け出したルーク。
だが――
「!!!」
駆けだすやいなや、ルイージがバッとかけてきた、そのひょろ長い足によって、ルークの身は甲板へと強かに叩きつけられた。
剣での戦い、そして奴との盛大で強烈な殴り合いによって、もはやボロボロとなっているルークの身に打ち身の苦痛が追加され、血が流れ続ける”彼の傷口たち”はさらに呻き声をあげた。
「……て…めえ……!!」
「おい、ルーク、この俺をほっぽらかしてどこ行くってんだ?」
自身の服の袖口で、鼻血をゴシッとぬぐったルイージ。
ルイージの頬もルークと同じく紅潮し、苦し気な息を吐き続けていた。ボロボロとなっているのは、もはや奴も同じだ。
「……お前のお仲間は、”もう無理”じゃね(笑)?……あの”キモいの”がなんだか知らねえけどよ、お前らの味方じゃねえのは”確定”つうワケだよな」
「…………!!」
「それに、お前のお仲間がまだ完全にくたばってはいなくてもよぉ。鮫ってのはそりゃあ人間相手でも”仕事が早い”モンだぜ」
ルイージは、鮫の仕事が早いことを知っている。
なぜ、知っている?
いつ、どういった状況でそれを知ったのか?
まさか、奴は――いや、奴らは鮫の”仕事の早さ”を人間で試すようなことが過去にあったということなのか?
ペイン海賊団との戦い終盤まで、自分たちとともに戦い、生き残り続けていたヴィンセントと兵士隊長の死?
まさか……
出港前、首都シャノンにネイサンを連れて不法侵入してきたフランシスが残した”嫌な置き土産”のうちの1つ――自分たち「希望の光を運ぶ者たち」7人のうち3人が、5年後に生を紡いでる姿が見えないという未来――その3人のうちの1人がヴィンセントであるということか?
そして……
兵士隊長・パトリックが自分の心の奥深くに”沈め”、他人に話すことはなかったため誰も知らないことであるも、彼が出港直後より感じていた拭い去ることのできない”不吉な予感”とは、ペイン海賊団の襲撃だけでなく、彼自身の死をも意味していたのか?
ヴィンセントとパトリックは、甲板の獣である海賊どもには打ち勝つことはできたが、何の前触れもなく現れた妖しのごとき不気味な手に痛めつけられた挙句、”海中の獣である鮫”の餌になるという無惨な最期を迎えるということなのか――?!
でも、そんなことはさせない。
そんなことがあってたまるものか!
「ディラン! ”こいつ”を1人で押さえられるか!?」
「もちろんだ!!」
間髪入れず、ディランはフレディに頷いた。
彼らの下にて、うつぶせの体勢となり後ろ手で押さえつけられていたジムが「てめえらぁぁ!」とビキッと青筋を立てた。
フレディが船べりへ向かって駆け出す。
ディランはジムの背へとさらに体重をかける。
ヴィンセントと兵士隊長を助けに行きたくとも、アドリアナ王国の兵士たち全員で助けに行くことは不可能だ。
この甲板には海賊どもがいるのだ。
海賊どもを自由にするわけにはいかない。
全身の至るところに血を滲ませたトレヴァーも、悔し気に唇をギッと噛みしめたまま、なおも喘ぎ続けるエクスタシー海賊を押さえ続けていた。
今というこの時にも、ヴィンセントも兵士隊長は、海中の獣どもを強烈なまでに誘う血を流しながら、冷たく暗い海の底へと……
フレディは、思ったのだ。
他の者たちに比べると、自分の肉体なら血の匂いをこれ以上、強めることはないだろうと――
この甲板にいる者たちは皆、敵も味方も含めてほぼ100%の確率で、全身の至るところに剣傷だったり殴打跡だったりと、血を滲ませてはいる。
現にフレディも、海賊どもに斬りつけられた傷口より血を流しはした。だが、フレディの血はもうすでに止まっている。
完全には治癒はしていないし、治癒までのスピードも”覚醒時”直後より比べると格段に遅くはなっている。けれども、”普通の人間のように”これ以上の血を流し、これ以上に傷口が広がっていくことはまずないだろう。
「早く、飛び込むんだ!」「俺が行く!」と甲板の至るところで、フレディだけでなくルーク、ディラン、トレヴァーと同じ思いのアドリアナ王国の兵士たちの声があがっていた。現在、動くことのできる数人が、痛む脚で船べりへと駆けていく。
その反対に、押さえつけられた海賊たちからは「ざまぁ」と笑い声が――奴ら自身もあの不気味な手の操り主を知らないであろうに、残酷な海賊たちからは下卑た笑い声が束となってあがっていた。
当のあの不気味な手と言えば、指先を下にしたまま、黄金の瞳をギョロギョロとさせ、次にその手でしばく相手を探しているようであった。
だが、今、アドリアナ王国兵士とペイン海賊団団員は、押さえつける者と押さえ込まれた者というほぼ1セットで、甲板にいる。
ペイン海賊団側に立っている”らしい”あの化物は、自分が次に手を振り上げることで、ペイン海賊団団員をも飛ばしてしまうことを躊躇しているように見えた。
「――行くぞ!」
自分と同じく船べりへと手をかけたアドリアナ王国兵士――イライジャ・ダリル・フィッシュバーンの声に、フレディと彼の隣にいる兵士は頷いた。
この3人で、ヴィンセントと兵士隊長を助けに海へと飛び込む。
「”マーマン(男性人魚)”と呼ばれたこともある、俺を舐めんなよ!」
自分自身を鼓舞するかのように、泳ぎは相当に得意であるらしい兵士・フィッシュバーンが呟く。
船べりへと足をかけたフレディたちの眼下には、青く美しい海が宝石のごとく煌めいていた。
だが――
今まさに、フレディたちがその海へと身を投じようとした時であった。
――待ちなさい!
と、彼らの脳裏に直接、声が響いてきたのだ。
「ヴィンセント!?」
ハッとするフレディ。
フレディには、この不思議な声の主がすぐに分かった。
艶のある濃厚なテノール。
これは間違いなく、今、海の中にいるはずのヴィンセントの声であった。
ヴィンセントに、”実は双子の片割れがいたというわけでもない限り”これほどまでに彼と声が似ている者などは他にいないであろう。
「な、なんだ?」
フィッシュバーンともう1人の兵士は――鼓膜を通してではなく、脳裏に……彼らの魂に直接、声が聞こえてくるという初体験に混乱しているようであった。
その”ヴィンセントの声”は、なおも続いた。
――あなたたちが海に飛び込み、自らの身を危険にさらす必要はありません! 私が”彼ら”を……
「どうしたってんだ?! 早く――」
海へと飛び込む寸前で、その動きを止めた3人の背に他の兵士たちの急いた声が幾つもかかる。
間髪入れず「怖気づいたんじゃね?」「カッコつけてたってのに、笑えんなあ! 弱虫野郎ども!」と、海賊たちがけたたましい笑い声をあげる。
バッとフィッシュバーンが振り返った。
「……あっ、頭に声が響いてくンだよ。あいつの――スクリムジョーの声が、ハッキリと!」
「!?!」
フィッシュバーンは、嘘を言っているようには見えない。彼と同じく、振り返ったフレディももう1人の兵士の表情も、フィッシュバーンと同様であった。
一体、どういうことなのだ?
その時――
さらに、この不思議であり、なお緊迫もしている状況に追い打ちをかける事態が起こり始めた。
光だ。
光が甲板の中央にパアッと現れたのだ。
「……なんだ!?」
「……一体、次々に何なんだ?」
その光は、とてもあたたかな光であった。
それはここにいる全ての者――人の命すら何とも思わないペイン海賊団の奴らにすら懐かしく、切なく、そして荘厳な思いを抱かせる光であった。
懐かしき光。あたたかな光。
フレディは、この光に見覚えがあった。
アポストルからの使いの少年・ゲイブが現れる時に、まるで光の波のごとく、部屋を満たしていった光だ。
ルーク、ディラン、トレヴァーも、この光に幾度となく見覚えがあった。
これは、ゲイブが現れる時の光であるとともに、アポストルとなった女性魔導士アンバー・ミーガン・オスティーンが風の棺へと運ばれし時、彼女の肉体より発せられし光でもあるのだ。
「――ゲイブか!?」
ルークが呟く。
彼の傍らでは、超悪党のルイージですら、ポカンと口をあけたまま、美しい光に見惚れていた。
奴は仲間を助けに行こうとしているルークを邪魔していた最中であることも、忘れているらしかった。
この光は”間違いなく”アポストルが放つ光だ。
ゲイブが現れるのだ。
数か月前、涙に濡れた顔で現れ、全ての謎を明かさないまま、光とともに消えてしまったゲイブが……
正直、ルークたちは、あの愛くるしいばかりの少年には今後のことも含め、いろいろと聞きたいことがある。
しかし、だ。
今、ゲイブが現れるのは非常にまずい。
あまりにも、タイミングが悪すぎる。
今は、4回目となる啓示など聞いている余裕などない。
(なぜかヴィンセントの声が聞こえてきたらしいが)一刻も早く海の中にいるはずのヴィンセントと兵士隊長を救出しなければならない。
何より、ここには海賊どもがいる。
こいつらペイン海賊団は、非力で無力な子供であっても危害を加えようとするだろう。
もし、奴らに隙をつかれてゲイブが人質に取られでもしたら……
けれども、光から目が離せなくなっている全ての者の前で――その荘厳な光は、さらに大きく、そしてさらに眩く輝きゆく……
光の中にいる輪郭も、次第にはっきりと見え始めてきた。
――?!
アポストルの光を知っているルーク、ディラン、トレヴァー、フレディに即座に走った違和感。
あの光の中にいるのは、ゲイブではない。ゲイブであるはずがない。
中にいるのは、”男たち”だ。
揃いも揃って、二次成長期は終了し、完全に成熟しきった直線的で硬い輪郭を持ち、なおかつ長身でありほぼ同じぐらいの背丈の男が”3人”だ。
――?!?
そう、その光の中には、”確かに”3人の男がいたはずであった。
だが、そのうちの1人は突然にフッと掻き消え、その光から姿を現したのは、2人だけであった。
ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーとパトリック・イアン・ヒンドリー。
フレディやフィッシュバーンたちが、海中へと助けに向かわんとしていた”2人”が、荘厳な光の中より姿を見せたのだ。
ヴィンセントとパトリックは無事であった。
彼ら2人は命ある者として、生者の天秤へと乗り続けている者として、互いに体を支え合いながらしっかりと両脚で立ち、その姿を自分たちの元に現したのだ。
ともにずぶ濡れである彼らの衣服からは、海水がボトボトと滴り続けていた。
そして、新鮮な空気が急激に体内へと流れ込んできたためか、揃ってあばらを押さえ、息を整えようともしていた。
ヴィンセントの濡れた赤毛は乱れ、口の中を切っていたらしく、彼の形の良い蠱惑的な唇の端からは、真っ赤な血がつたった。
そして、ヴィンセントよりわずかに前に立っていた(つまりは、あの不気味な手の攻撃をより強く受けることになった)パトリックのダークブロンドの長髪も乱れ、彼は口からも、そして鼻からも真っ赤な血がつたった。
だが、パトリックの瞳は、責任と実力ある兵士隊長としての輝きを――戦士としての光を失ってなどはいなかった。
自分たちを海へとはたき落とした、不気味な化物の黄金の瞳へと変わることのない闘志をギッと見せたのだから……
「……ヴィンセント! 隊長!」
うつ伏せのジムにまたがり、奴を押さえつけていたディランから、安堵の息が漏れた。
「……ンだよ。何で生きてやがんだよ! 普通は死んでンだろ!」
屈辱の真っただ中にいるジムが喚いた。
確かにジムの言う通りである。
あの巨大で禍々しい灰色の手が、ヴィンセントとパトリックをほぼ同時にはたいた時の嫌な音は、ディランやジムだけでなく、甲板にいる誰もが聞いていた。
あの音にしては、あまりにも軽傷すぎる。意識を失うのは、ほぼ当然であり、全身の至るところの骨が折れていてもおかしくはない。
ヴィンセントとパトリックが死亡することもなく、再起不能となるほどの重傷を負っていない事は、まるで奇跡のごとき幸運ではある。
仲間と兵士隊長を、永久に失うことにはならなかった。
でも、普通では考えられない。普通ではない。
それに――
「なあ……さっき、確かに”3人”いたよな……」
「3人目はどこに、行っちまったんだよ。そもそも、3人目は誰なんだよ?!」
「……なんなんだよ、あいつら? 気味悪ィ……」
と、敵味方問わず、困惑と恐怖が入り混じった声がそこかしこであがり、広がっていたのだから。
受けたダメージがあまりにも軽すぎる2人と、消えてしまった3人目。
ヴィンセントとパトリックに、強烈な張り手を喰らわせた手の甲にある瞳も、予期せぬことにビックリしたらしく――その脂肪に包まれ睫毛が埋もれている黄金色の瞳をパチクリとさせていた。
いや、奴はパチクリさせているだけじゃない。
生粋の戦士であるパトリックにメンチを切られ、明らかにビビり、たじろいでいるらしかった。
まるで脚を震わせるように、5本の指を震わせ、体格差も力の差も自分の方が優位である相手から後ずさっていたのだから。
あの手の操り主は、自分たちの想像以上にチキンハートであるのか?
思い付きでこの場に現れ、誰かに言われて攻撃の一手を発したものの、次々と起こる不測の事態にたじろいでしまったとしか思えなかった。
そして――
この光景を見ていたのは、甲板にいる者たちだけではなかった。
”明らかに人為的な灰色の雲”の遥か上空にて、その帆を進めている神人の船の者たちも、覗き見のさざ波にてしっかり見ていた。
特にフランシスとサミュエルは、普通の人間が引き起こせるはずがない事象の理由、というよりも”原因となっている者”についても正確に推測し、また、巨大で禍々しい灰色の手の操り主についても”しっかりと”心当たりがあったのだ。
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私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
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