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2章

37.訪問

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「お、遅くなりました……っ!」

 焦りのあまり弾んだ息を無理やりに押さえつけながら、私は有用な時にしか着ないいくらか豪奢なドレスを整えて挨拶をする。

 メイドに整えてもらった編み込みを取り入れた気合いの入ったアレンジ髪が、サラリと肩から滑り落ちた。

「やっと来たか、バカ妹」

「……急がずとも良かったんだが……」

 ルーウェン家の庭先と言う名に違わない距離ほどの湖のほとりで、淑女然とした装いとは裏腹の私の慌しさに、振り返ったライト兄様は相変わらずの表情を浮かべ、ヴァーレン様は少し困ったような声音を溢した。

「ラ、ライトお兄様が教えて下さらないからでしょう……っ!?」

 ヴァーレン様の前では言いたいことの十分の一も言えないながら、私は今朝のことを思い出しながらライト兄様を恨めしげに見遣る。

 今日は休日だと貴を括り、私はヴァーレン家について調べたり、アラン兄様から借りた孫子の本を眺めたりと絶賛夜ふかしをしていた。

 そして案の定、眠い目を擦りつつ身繕いも満足にしないままに食卓の席についた私に、ライト兄様は意地悪そうに私の姿を上から順に見下ろしてふんと鼻先で笑い、朝食のウィンナーを口へと放り込む。

「世の中にはモノ好きがいるもんだな」

「……何で朝からそんな嫌味を言われないといけないんですか」

「自分の姿を鏡に映して見てから言えよ」

 フォークの先でこちらを指しながらニヤリと笑うライト兄様は、横から行儀が悪いとお母様の指摘が入ると肩をすくめる。

「今日、ルドがお前に会いに来るってよ。父さんにも、少し話しがあるらしい。さっさと食べて、綺麗にしとかねーと、そんな有様で鉢合わせたらいくら心の広いルドでもドン引きされるぞ」

「えっ!? ヴァーレン様が来るんですか!? 何で昨日言ってくれなかったんですか!? いつ見えるんですか!? それよりお父様に話しって何ですか……っ!?」

「……ハンナ、はしたないですよ。静かに致しなさい」

 ギョッとして腰を浮かせた私は、口元を隠したお母様にギロリと睨まれ、二の句を継げずに口を閉じて席に座り直す。

 そこからは大変だった。朝食をお母様に睨まれながら急いで口に突っ込み、大急ぎで入浴し、メイドに香水を身体中に吹き掛けられながらこの窮屈なドレスに着替え、髪に花を巻き込みながら整えられて今に至る。

 せっかく整えてもらった髪からは慌ただしい勢いで花がいくらか吹き飛んだのではなかろうか。メイドに申し訳ない限りである。

「ま、いいや。ガキじゃねぇんだから、こんなちんちくりんのバカ妹の1人や2人くらいちゃんとエスコートしろよ」

「ルーウェン……」

 いくらか咎めるようなヴァーレン様の声音に、ライト兄様はやべっと舌を出すと手短に言葉を切って、じゃあなと屋敷の方角へと去っていく。

 そんなライト兄様の背中をしばし2人で見送る。

「……いつもの学生服も可愛らしいが、今日はまた一段と大人びて美しいから、少し緊張する……」

「えっ!? あっ! はいっ! いや、はい? あ、えっと、あ、ありがとうございます……っ!」

 気まずいっ! と思っていた所に降ってきたヴァーレン様の言葉に私は慌てる。

「先日の学生服もお似合いでしたが、本日のお洋服もヴァーレン様の雰囲気に合っていてとても素敵ですね」

 以前に見たことのある学生服ではなく、落ち着いた濃紺を基調とした衣服は、けれどよく見れば一目で手の込んだものとわかる刺繍が入れられることで品の良さを醸し出していた。

「……ありがとう」

 本心からの感想を少し照れ臭く思いながら口にすると、少し照れたようにヴァーレン様が微笑んだのがわかった。

 ヴァーレン様の顔の半分を覆う仮面は相変わらずで、風になびく黒髪の隙間から覗く黒い瞳が、こちらを見つめているのがわかる。

「……少し、歩こうか」

 そう言って控えめに差し出された手に、私は静かに触れた。

 サクサクと青葉が茂る湖のほとりを岸に沿って歩く。繋がれた手は、引っ張るでもなくこちらを気遣うように遠慮がちだった。

「……懐かしいな、昔、よくルーウェンと遊んでいた場所だ」

「え、本当ですかっ!?」

 湖に目を向けて独り言のように呟くヴァーレン様に、私は目を丸くする。

「……ルーウェンは人がいいから、私が母を亡くしてひどく落ち込んでいた時期に、彼なりに色々と気を回してここまで引っ張って来てくれていたりしたものだったよ」

「ーーそう、なんですね……」

 昨夜調べていたヴァーレン家についての記事が、脳内を過ぎる。

「あぁ、すまない、その時期に、ハンナ令嬢とも、会ったことがある。と言いたかっただけなんだ」

「え……っ!?」

 神妙な面持ちの私に慌てたように、ヴァーレン様が声音を和らげて続けた言葉に、私は再び目を丸くする。

 しばしヴァーレン様の姿を必死で脳内検索するも、ピンとくる記憶がない私は目を泳がせた。そんな私に苦笑するように、ヴァーレン様は少し笑う。

「思い出せなくても無理はない。直接に会ったのは一回切りだし、ルーウェンは顔も広いから、出入りしていたのは私だけではないだろうしね」

「いえ、そんなことは……」

 と、必死に脳内検索を続けながらヴァーレン様の言葉を否定するも、現実は確かにその通りで、今に輪を掛けて社交的と言う名のガキ大将だったライト兄様の交友関係は多かった。

 日替わりで顔ぶれや組み合わせの違う、主に年上の少年たちに絡まれたり絡まれなかったりと騒がしかった記憶は確かにある。

 私はチラリとヴァーレン様を伺い見た。その視線に気づいたヴァーレン様が、目元を緩めるのが仮面越しでもわかる。

 もう少し歩こうかと誘われたその黒髪を後ろから眺め、私は思案した。

 仮面をつけたライト兄様の友人の記憶があれば、さすがに覚えていそうなものである。で、あれば仮面をしていなかったと仮定した場合、素顔を見ずにヴァーレン様を思い出すことは果たして可能であろうか。

「……あの、もし、不都合がありませんでしたら、その、いつかお顔を見せて頂くことは……できますか……? お顔を拝見しましたら、何か思い出せるかも……と思ったのですが……」

 相対する優しさだけを頼りに高台から飛び降りる心境で話しかけると、ヴァーレン様は静かに迷うような声を漏らして、繋いだ手をわずかに動かした。

「あっ! もちろんプライベートなことですし! おイヤでしたらホントに! 大丈夫ではあるのですけれども……!」

 予想していたよりも思案している空気に耐えかね、私は即座に根を上げる。

「あ、いや、イヤという訳ではなくて、ひとまず、あそこで話そうか」

 私の慌てように苦笑したヴァーレン様は、繋いでいない方の手で湖のほとりに置かれた屋外用の長椅子を指差す。

 私の屋敷からも近く、家族が訪れることも多い場所であるため、お父様がかつて置いたものである。

 屋外におかれた長椅子に落ちた枯れ葉を手で払うと、ヴァーレン様はスッと取り出したハンカチーフを椅子の上に引いてその身をズラしてニコリと笑んだ。

 見惚れるほどに優雅な動きに視線を捉われたままに、私はお礼を述べて椅子に置かれたハンカチーフの上に腰掛ける。
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