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嵌らない二人(※姉弟恋愛)
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わたしは、弟がすきだ。
きっと多くの人は、「それはおかしい」「精神科にかかったほうがいい」というだろう。わたしもそう思うから、だれにも打ち明けられない。打ち明けたいと思ったこともない。「わかる」って言ってほしいわけでもない。だってその共感は、きっとわたしに当てはまらないから。
人事の仕事に就いて、気づけばもう五年が経っていた。大学を卒業して、無事職にも就いて、親が次に期待するのは生涯の伴侶だろう。直接言われたことはないけれど、それが当たり前だと思っている節はある。親のことは好きだ。だからこそ、家に居るときは罪悪感と不安に押し潰されそうだった。「ふつう」じゃなくてごめんなさいって思いでいっぱいだった。
家を出たとき、すべての重荷から開放されたような気がした。ひとりが寂しいよりも、安堵が勝った。とはいっても借りた部屋は実家から近く、一週間に一度は親が顔を見せにくる。そのくらいの頻度が一番心地良い。
「ツル」
歩みを止め顔を上げる。
まだそこまで寒くないのに、長いコートに身を包んでいるわたしの弟がビルの壁に背を預けていた。身長はすこし追い越されて、声も昔と違って低くなっている。顔立ちは大人っぽくなっているけれど、どこかあどけない雰囲気は残っている。
弟はわたしが就職してからしばらくして、近所に痴漢が出たと騒ぎになってから送り迎えをよくしてくれるようになっていた。
「えっちょっと笠井さん!いつの間に彼氏できてたんですか?あっだからこの前の合コン来なかったんですか?」
余計なことを口走ってくれているのは同期の芳田さんだ。弟だよ、と断りをいれるとき、いつも自分に枷を付けられる気分になる。
「いつもツルがお世話になってます。汲矢と申します」
紹介する前に自己紹介を済ませた汲矢に、芳田さんは「えっあっいいえぇこちらこそ」と落ち着きなく頭を下げた。
「なんていうか、笠井さんのタイプって感じですね!雰囲気似てるしお似合いー!」
「ありがとうございます」
とくに訂正するでもなく、汲矢は笑みを浮かべた。そんな顔しないでよ、と内心毒づく。無駄に期待なんてしたくない。そもそも期待なんてできないのに、意志とは無関係に心が昂ってしまう。やめてよ、と言いたいのに、言いたくない。
「それじゃ、帰ろ」
優しく手を引かれ、芳田さんから距離ができる。彼女がどんな顔をしているかはわからないけど、明日根掘り葉掘り聞かれるだろうことは容易に想像がつく。
手を握り返す勇気はなかったけれど、指先にこっそり力を込めた。
「合コン誘われてたんだ」
二人きりになって第一声がそれか、とツッコミたくなる。弟だったら、揶揄うようにニヤニヤしながら言うか、騙されてるんじゃないかって呆れたような顔をするものよ。
そんなふうにちょっと怒ったような、拗ねたような顔は、弟がする顔じゃないわ。
浮かぶ言葉がすべて、胸の中に留まる。
「数合わせ要員だよ。合コンに誘われる理由なんて、たいていそんなものでしょ。あとは同志が欲しいとか。彼氏がいない人間に声がかかるのはふつうのことなの」
「ふーん。でも断ったんだ」
「断るよ」
当たり前でしょ、と出かけた言葉だけを呑み込む。
「ねぇ」
彼氏って誤解を解かなくてよかったの?
その一言が今まで口にされることはなかった。今までも何度か、彼氏だと勘違いされていることを否定しないことがあった。ただ面倒だから、という理由なのかもしれない。きっとそうだろうけど、自分に都合のいい理由かもしれないと、まだ自惚れていたい部分が溶けきらない。
「……ちょっとだけ寒いから、繋いだままでいい?」
「よくなかったらもう離してる」
そっか、といった相槌が弟に聞こえたかはわからない。聞こえてないといいな。だって照れくさくて、嬉しくて、どう繕っても「好きだ」って伝わってしまいそうな声だったから。
「ツル、おれさ」
ふと立ち止まった彼を見上げる。見慣れた顔が月明かりに照らされる。
「家を出ようと思うんだ」
「そっか。もう社会人になるもんね」
早いなぁ、と目が細まる。
「もう場所は決まってるの?」
「いや、だから交渉しようと思って」
「交渉?」
嫌な予感に弟から目を逸らす。胸が目に見えて上下するほどに動悸が逸っている。
「うん ツルの家に置いてよ。そっちのほうが母さんたちも安心だって」
「そんなこと言われても……一人暮らしのほうが気楽なの。友だちだって気軽に呼べなくなるじゃん」
一番強い思いだけは滑らせないように、慎重にそれっぽい理由をつらつらと並べ立てる。
「そこをなんとか。会社もツルの家からだとアクセスいいんだよ」
なんでそんなとこ選んだの、と怒りが込み上げる。家から通える距離で会社探すとか言ってたのはどこのだれよ。
「そもそもわたし持ち家じゃなくてマンションだし、そこまで広いわけじゃないし」
「一緒に暮らしたくないならそう言ってくれればいい」
弟の言葉に「そんなのズルい!」と振り返る。わたしより長いまつ毛に縁取られた、暗闇の中で光る茶色の瞳に射抜かれ声が萎む。
「そんな聞き方、ズルいよ。一緒に暮らしたくないわけじゃなくて、……とにかく困るの」
どう取り繕えば、彼の納得する理由になるのだろう。どういったって彼を傷つける言葉になってしまうから、どの「本当」も告げられないのに。
「好きなヤツがいるから?」
弟の指摘に耳がカッと熱くなる。
「そうだったとして、クミに言う筋合いはないよ」
こんな言い方では「そうだ」と言ってるようなものだ。でも、彼と一緒に住むなんてもうできないのだから、彼が引き下がるような理由を付けなければならない。
「……ツルは、なんで呼び捨てにされても怒らなかったの?」
「え?」
突拍子のない弟からの質問にうろたえる。汲矢は昔から「ツル」呼びだったわけではない。小学校くらいまで、ずっと「姉ちゃん」呼びだった。いつから呼び出したのか、年数なんて忘れてしまったけど、呼ばれたときに怒らなかった理由は今も覚えている。
リビングで、二人並んでテレビを見ていたとき。なにかの特集で、「好きな人にどうすれば振り向いてもらえるのか」と題したコーナーがあった。司会者のお笑い芸人がゲストの人に「どうなの」って話を振って、ゲストは「えぇー」なんて言いながら、
「私、夫と友人期間長かったんてすけど、あるとき急に好き!ってなっちゃって、どうしたら意識してくれるかなあっていろいろやったんです。ボディータッチとか。で、付き合えて結婚までいけたんですけど、夫が私を好きだって自覚したのが、呼び捨てしたときだったんですって!これ結婚式の馴れ初めコーナーで発覚して。ほかにいろいろアプローチしたのにそこかよ!って思って──」
呼び捨てなんてもうとっくにしてるんだよなあ、とぼんやり思った。思って、「いや弟だし」と我に返った。
テレビに向かってうるさく喋ったりはしないけれど、このコーナーのときに雑談もなくしんとしている空気がひどく居心地悪く、
「だってさ。クミも試してみたら?」と茶化すように話しかけた。
汲矢はすこし考えるように視線を落として、
「そうだね」と受けた。
だれか、実践したい子がいるのだろうか。もう年頃だし、そうだよね。なんてザワつく胸に蓋をして、わたしはその場から離れるための口実で「飲みものとってくる」と腰を浮かせた。
すると離れかけた手を弟に掴まれた。わたしと同じくらいの大きさの手で、どこが特徴的ともいえないのにドキッとする。
「ツル」
まだ低くなりきってない声で、今まで呼ばれたことのない呼び方をされた。弟に呼び捨てにされるなんて、ふつう舐められているとか、年が近いとかあるだろうけど。この流れでどうして、と困惑してしまう。
ああ違う。困惑したのはそこじゃなくて、「名前で呼ばれたこと」に──、
「……ドキッてした?」
胸中を言い当てられ声が出なくなる。自分が真っ赤だとわかるくらい、体が熱くなっていた。優しい声で呼ばれたその瞬間、わたしは自覚してしまったのだ。一生気づきたくなかった、この恋心を。
結局「わたしで遊ばないでよ」なんて笑い飛ばして、その場から逃げた。どうしてそんな子どもの頃の出来事を今さら蒸し返すのか。
答えは明白だろう。きっと彼はうっすらと気づいている。だから白状させようとしているのだ。
「びっくりして、訂正する機会を逃したからだよ」
「それだけ?」
「それ以外理由があると思うの?」
汲矢は不機嫌そうな顔をしている。いや、不機嫌というより、喉元まで出かかっている言葉を必死に飲み込んでいるような顔だ。けれど、そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「汲矢」
まだ繋いでいる手に、もう片方の手を添える。
繋いでいたほうと違って、汲矢の手が熱く感じるほど冷たくなってしまっている。
「汲矢、ごめん。一緒に暮らせないのは、わたしが……わたしが、緊張しちゃうから。弟だけど男の子で、どうしたって意識しちゃうから距離をとった。大事な弟を傷つけたくなかったし、わたしも傷つきたくなかった。だから、もう一緒には暮らせない。ごめん」
言ってしまった、とすぐに後悔した。言うつもりなどなかったのに、衝動に突き動かされるままに口を開いてしまった。十年以上燻り続けていたものは、消えてなどくれずに溢れ出てしまった。
添えた手で汲矢の手を押し、
「方向違うのにいつも送ってくれて、ありがとね。バイバイ」
と言い捨てて逃げようとした。けれど彼の手から抜け出せずに戸惑う。別段力を入れてないわけではない。そこまでか弱い人間でもない。汲矢が、痛いほどにわたしの手を掴んだままなのだ。
「……お願い離して。これ以上困らせたくない」
声が篭もる。泣きそうになるのを必死に堪える。泣きたいわけじゃないのに、勝手に目の奥からせり上がってくる。きっと、彼の言葉が怖いのだ。拒絶されたら生きていけないほどに今は弱ってしまっている。だから今は、今だけはとりあえず逃げさせてほしい。
「困るのはそっちだろ」
汲矢の声にびくりと震える。いつもより低くて知らない人の声のように聞こえて、すこし怖い。
目に涙を溜めたわたしの手が引かれ、弟の肩に鼻をぶつけた。
痛い、と文句の出かけた口が半開きになる。後頭部に弟の手が添えられ、身動きが取れないよう力が込められていた。ただそれだけ。それだけなのだが、こんなにもドキドキする。
「わかった上で言ったんだ。おれはこれからずっと、一生、ツルと居たい。ツル以上に好きになる人なんて居ない」
「そんなのわからない。社会人になったらもっといろんな人に出会うから、もしかしたら居るかもしれない」
「ツルはどうだったの」
痛いところを突くな、と顔が歪む。現にずっと他を見向きもしなかったのだから、汲矢のほうの説得力が増してしまう。
「ならもういい加減観念してよ。……一緒に、暮らそうよ」
まだ居候しか無理だけど、と小声で付け加えられ思わず笑みがこぼれた。
「もうこれ買っちゃったし」
と、一旦開放された。体温が上がりすぎて、冷たい風をより感じる。顔を手で仰ぐわたしの視界の端で、なにかが煌めいた。
夜道、街灯に照らされていたのは小さな宝石だった。リング状に整形された銀に、控えめに飾られている。
「付けていい?」
まだ良いと言ってないのに、左手をとられて薬指に嵌められ──、
「……ん?嵌んない。ツル太った?」
「失礼極まりないな」
「っかしいなぁ。リングポテトで確認したのに」
「リングポテトにサイズをお任せしたのが悪い」
二人目を合わせふっと笑い合うと張り詰めた空気が解けた。
小指ではぶかぶかすぎたため、やむなく指輪は箱に仕舞われる。
「おれは、姉として以上にツルのことが好きだよ。ツルもなんでしょ?」
「……うん」
ずっと言う気などなかった。想いを知ってほしくもあったけれど、それ以上に気持ち悪いと思われたくなかったし拒絶されて傷つきたくなかった。
けれど言葉に出てしまってから、想いを受け入れられて、返してくれた。
瞬きをしたら涙が押し出され頬を伝った。嬉しくてなのだろうけど、すこし違うような気もする。言語にできない感情を胸に抱くわたしの頭に手が置かれ、ぎこちなく髪を撫でた。
帰り道、まばらな街灯に照らされながら二人歩く。その距離はいつもより近く、口数も少ない。
姉弟の型に嵌らなかったわたしたちが祝福される関係ではないことはよくわかっている。それでも今だけは、想いが通じあったこの瞬間だけは──。
***
カシャカシャとキーボードを打ち鳴らし、いつもよりすこしだけペースを早めて自分の仕事を終わらせる。
「お疲れ様です。お先失礼します」
定時きっかりにパソコンの前から離れるなんていつぶりだろう、と思いながら白い皮の鞄を肩にかける。
「あっ笠井さん!もし用事ないならちょっと終わりそうになくて手伝ってほしいんだけど」
と芳田さんに呼び止められた。
「すみません、今日は無理です」
いつも手伝っているし今日くらいは帰ります、と顔に出ていたのか、芳田さんは「あっ了解」とあっさり引いてくれた。
「例の旦那さん?」
と左手の薬指に視線を遣りながらニマニマ顔で囁かれた。なんて答えようか一瞬だけ目を泳がせ、
「内緒です」と残して職場を出た。
見慣れた家路を早歩きで通り過ぎ、アパートの階段を軽やかに駆け上がる。明かりのついた部屋の前で軽く息を整え、
「ただいま」と扉を開けると、
「おかえり」
と部屋の奥の方から返事がある。生活がわたし一人だけのものでなくなってから、今日でちょうど二年。結局、親にわたしたちの関係は言っていない。結婚はそもそも「家族」になる契約であり、わたしたちは既に家族なのだからその必要も無い、という結論に落ち着いた。
そもそも籍は入れられないし、結婚一時金のようなお祝い金を受け取れないのはなかなか痛いが、それでも二人の生活を平穏に送れるのなら無くても構わない。
子どものことはまだ考えられていないけれど、きっとわたしは宿さない。
これから二人で生活を築いていくのだと誓った指輪は、今日もわたしの指の上で光を反射して煌めいている。
きっと多くの人は、「それはおかしい」「精神科にかかったほうがいい」というだろう。わたしもそう思うから、だれにも打ち明けられない。打ち明けたいと思ったこともない。「わかる」って言ってほしいわけでもない。だってその共感は、きっとわたしに当てはまらないから。
人事の仕事に就いて、気づけばもう五年が経っていた。大学を卒業して、無事職にも就いて、親が次に期待するのは生涯の伴侶だろう。直接言われたことはないけれど、それが当たり前だと思っている節はある。親のことは好きだ。だからこそ、家に居るときは罪悪感と不安に押し潰されそうだった。「ふつう」じゃなくてごめんなさいって思いでいっぱいだった。
家を出たとき、すべての重荷から開放されたような気がした。ひとりが寂しいよりも、安堵が勝った。とはいっても借りた部屋は実家から近く、一週間に一度は親が顔を見せにくる。そのくらいの頻度が一番心地良い。
「ツル」
歩みを止め顔を上げる。
まだそこまで寒くないのに、長いコートに身を包んでいるわたしの弟がビルの壁に背を預けていた。身長はすこし追い越されて、声も昔と違って低くなっている。顔立ちは大人っぽくなっているけれど、どこかあどけない雰囲気は残っている。
弟はわたしが就職してからしばらくして、近所に痴漢が出たと騒ぎになってから送り迎えをよくしてくれるようになっていた。
「えっちょっと笠井さん!いつの間に彼氏できてたんですか?あっだからこの前の合コン来なかったんですか?」
余計なことを口走ってくれているのは同期の芳田さんだ。弟だよ、と断りをいれるとき、いつも自分に枷を付けられる気分になる。
「いつもツルがお世話になってます。汲矢と申します」
紹介する前に自己紹介を済ませた汲矢に、芳田さんは「えっあっいいえぇこちらこそ」と落ち着きなく頭を下げた。
「なんていうか、笠井さんのタイプって感じですね!雰囲気似てるしお似合いー!」
「ありがとうございます」
とくに訂正するでもなく、汲矢は笑みを浮かべた。そんな顔しないでよ、と内心毒づく。無駄に期待なんてしたくない。そもそも期待なんてできないのに、意志とは無関係に心が昂ってしまう。やめてよ、と言いたいのに、言いたくない。
「それじゃ、帰ろ」
優しく手を引かれ、芳田さんから距離ができる。彼女がどんな顔をしているかはわからないけど、明日根掘り葉掘り聞かれるだろうことは容易に想像がつく。
手を握り返す勇気はなかったけれど、指先にこっそり力を込めた。
「合コン誘われてたんだ」
二人きりになって第一声がそれか、とツッコミたくなる。弟だったら、揶揄うようにニヤニヤしながら言うか、騙されてるんじゃないかって呆れたような顔をするものよ。
そんなふうにちょっと怒ったような、拗ねたような顔は、弟がする顔じゃないわ。
浮かぶ言葉がすべて、胸の中に留まる。
「数合わせ要員だよ。合コンに誘われる理由なんて、たいていそんなものでしょ。あとは同志が欲しいとか。彼氏がいない人間に声がかかるのはふつうのことなの」
「ふーん。でも断ったんだ」
「断るよ」
当たり前でしょ、と出かけた言葉だけを呑み込む。
「ねぇ」
彼氏って誤解を解かなくてよかったの?
その一言が今まで口にされることはなかった。今までも何度か、彼氏だと勘違いされていることを否定しないことがあった。ただ面倒だから、という理由なのかもしれない。きっとそうだろうけど、自分に都合のいい理由かもしれないと、まだ自惚れていたい部分が溶けきらない。
「……ちょっとだけ寒いから、繋いだままでいい?」
「よくなかったらもう離してる」
そっか、といった相槌が弟に聞こえたかはわからない。聞こえてないといいな。だって照れくさくて、嬉しくて、どう繕っても「好きだ」って伝わってしまいそうな声だったから。
「ツル、おれさ」
ふと立ち止まった彼を見上げる。見慣れた顔が月明かりに照らされる。
「家を出ようと思うんだ」
「そっか。もう社会人になるもんね」
早いなぁ、と目が細まる。
「もう場所は決まってるの?」
「いや、だから交渉しようと思って」
「交渉?」
嫌な予感に弟から目を逸らす。胸が目に見えて上下するほどに動悸が逸っている。
「うん ツルの家に置いてよ。そっちのほうが母さんたちも安心だって」
「そんなこと言われても……一人暮らしのほうが気楽なの。友だちだって気軽に呼べなくなるじゃん」
一番強い思いだけは滑らせないように、慎重にそれっぽい理由をつらつらと並べ立てる。
「そこをなんとか。会社もツルの家からだとアクセスいいんだよ」
なんでそんなとこ選んだの、と怒りが込み上げる。家から通える距離で会社探すとか言ってたのはどこのだれよ。
「そもそもわたし持ち家じゃなくてマンションだし、そこまで広いわけじゃないし」
「一緒に暮らしたくないならそう言ってくれればいい」
弟の言葉に「そんなのズルい!」と振り返る。わたしより長いまつ毛に縁取られた、暗闇の中で光る茶色の瞳に射抜かれ声が萎む。
「そんな聞き方、ズルいよ。一緒に暮らしたくないわけじゃなくて、……とにかく困るの」
どう取り繕えば、彼の納得する理由になるのだろう。どういったって彼を傷つける言葉になってしまうから、どの「本当」も告げられないのに。
「好きなヤツがいるから?」
弟の指摘に耳がカッと熱くなる。
「そうだったとして、クミに言う筋合いはないよ」
こんな言い方では「そうだ」と言ってるようなものだ。でも、彼と一緒に住むなんてもうできないのだから、彼が引き下がるような理由を付けなければならない。
「……ツルは、なんで呼び捨てにされても怒らなかったの?」
「え?」
突拍子のない弟からの質問にうろたえる。汲矢は昔から「ツル」呼びだったわけではない。小学校くらいまで、ずっと「姉ちゃん」呼びだった。いつから呼び出したのか、年数なんて忘れてしまったけど、呼ばれたときに怒らなかった理由は今も覚えている。
リビングで、二人並んでテレビを見ていたとき。なにかの特集で、「好きな人にどうすれば振り向いてもらえるのか」と題したコーナーがあった。司会者のお笑い芸人がゲストの人に「どうなの」って話を振って、ゲストは「えぇー」なんて言いながら、
「私、夫と友人期間長かったんてすけど、あるとき急に好き!ってなっちゃって、どうしたら意識してくれるかなあっていろいろやったんです。ボディータッチとか。で、付き合えて結婚までいけたんですけど、夫が私を好きだって自覚したのが、呼び捨てしたときだったんですって!これ結婚式の馴れ初めコーナーで発覚して。ほかにいろいろアプローチしたのにそこかよ!って思って──」
呼び捨てなんてもうとっくにしてるんだよなあ、とぼんやり思った。思って、「いや弟だし」と我に返った。
テレビに向かってうるさく喋ったりはしないけれど、このコーナーのときに雑談もなくしんとしている空気がひどく居心地悪く、
「だってさ。クミも試してみたら?」と茶化すように話しかけた。
汲矢はすこし考えるように視線を落として、
「そうだね」と受けた。
だれか、実践したい子がいるのだろうか。もう年頃だし、そうだよね。なんてザワつく胸に蓋をして、わたしはその場から離れるための口実で「飲みものとってくる」と腰を浮かせた。
すると離れかけた手を弟に掴まれた。わたしと同じくらいの大きさの手で、どこが特徴的ともいえないのにドキッとする。
「ツル」
まだ低くなりきってない声で、今まで呼ばれたことのない呼び方をされた。弟に呼び捨てにされるなんて、ふつう舐められているとか、年が近いとかあるだろうけど。この流れでどうして、と困惑してしまう。
ああ違う。困惑したのはそこじゃなくて、「名前で呼ばれたこと」に──、
「……ドキッてした?」
胸中を言い当てられ声が出なくなる。自分が真っ赤だとわかるくらい、体が熱くなっていた。優しい声で呼ばれたその瞬間、わたしは自覚してしまったのだ。一生気づきたくなかった、この恋心を。
結局「わたしで遊ばないでよ」なんて笑い飛ばして、その場から逃げた。どうしてそんな子どもの頃の出来事を今さら蒸し返すのか。
答えは明白だろう。きっと彼はうっすらと気づいている。だから白状させようとしているのだ。
「びっくりして、訂正する機会を逃したからだよ」
「それだけ?」
「それ以外理由があると思うの?」
汲矢は不機嫌そうな顔をしている。いや、不機嫌というより、喉元まで出かかっている言葉を必死に飲み込んでいるような顔だ。けれど、そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「汲矢」
まだ繋いでいる手に、もう片方の手を添える。
繋いでいたほうと違って、汲矢の手が熱く感じるほど冷たくなってしまっている。
「汲矢、ごめん。一緒に暮らせないのは、わたしが……わたしが、緊張しちゃうから。弟だけど男の子で、どうしたって意識しちゃうから距離をとった。大事な弟を傷つけたくなかったし、わたしも傷つきたくなかった。だから、もう一緒には暮らせない。ごめん」
言ってしまった、とすぐに後悔した。言うつもりなどなかったのに、衝動に突き動かされるままに口を開いてしまった。十年以上燻り続けていたものは、消えてなどくれずに溢れ出てしまった。
添えた手で汲矢の手を押し、
「方向違うのにいつも送ってくれて、ありがとね。バイバイ」
と言い捨てて逃げようとした。けれど彼の手から抜け出せずに戸惑う。別段力を入れてないわけではない。そこまでか弱い人間でもない。汲矢が、痛いほどにわたしの手を掴んだままなのだ。
「……お願い離して。これ以上困らせたくない」
声が篭もる。泣きそうになるのを必死に堪える。泣きたいわけじゃないのに、勝手に目の奥からせり上がってくる。きっと、彼の言葉が怖いのだ。拒絶されたら生きていけないほどに今は弱ってしまっている。だから今は、今だけはとりあえず逃げさせてほしい。
「困るのはそっちだろ」
汲矢の声にびくりと震える。いつもより低くて知らない人の声のように聞こえて、すこし怖い。
目に涙を溜めたわたしの手が引かれ、弟の肩に鼻をぶつけた。
痛い、と文句の出かけた口が半開きになる。後頭部に弟の手が添えられ、身動きが取れないよう力が込められていた。ただそれだけ。それだけなのだが、こんなにもドキドキする。
「わかった上で言ったんだ。おれはこれからずっと、一生、ツルと居たい。ツル以上に好きになる人なんて居ない」
「そんなのわからない。社会人になったらもっといろんな人に出会うから、もしかしたら居るかもしれない」
「ツルはどうだったの」
痛いところを突くな、と顔が歪む。現にずっと他を見向きもしなかったのだから、汲矢のほうの説得力が増してしまう。
「ならもういい加減観念してよ。……一緒に、暮らそうよ」
まだ居候しか無理だけど、と小声で付け加えられ思わず笑みがこぼれた。
「もうこれ買っちゃったし」
と、一旦開放された。体温が上がりすぎて、冷たい風をより感じる。顔を手で仰ぐわたしの視界の端で、なにかが煌めいた。
夜道、街灯に照らされていたのは小さな宝石だった。リング状に整形された銀に、控えめに飾られている。
「付けていい?」
まだ良いと言ってないのに、左手をとられて薬指に嵌められ──、
「……ん?嵌んない。ツル太った?」
「失礼極まりないな」
「っかしいなぁ。リングポテトで確認したのに」
「リングポテトにサイズをお任せしたのが悪い」
二人目を合わせふっと笑い合うと張り詰めた空気が解けた。
小指ではぶかぶかすぎたため、やむなく指輪は箱に仕舞われる。
「おれは、姉として以上にツルのことが好きだよ。ツルもなんでしょ?」
「……うん」
ずっと言う気などなかった。想いを知ってほしくもあったけれど、それ以上に気持ち悪いと思われたくなかったし拒絶されて傷つきたくなかった。
けれど言葉に出てしまってから、想いを受け入れられて、返してくれた。
瞬きをしたら涙が押し出され頬を伝った。嬉しくてなのだろうけど、すこし違うような気もする。言語にできない感情を胸に抱くわたしの頭に手が置かれ、ぎこちなく髪を撫でた。
帰り道、まばらな街灯に照らされながら二人歩く。その距離はいつもより近く、口数も少ない。
姉弟の型に嵌らなかったわたしたちが祝福される関係ではないことはよくわかっている。それでも今だけは、想いが通じあったこの瞬間だけは──。
***
カシャカシャとキーボードを打ち鳴らし、いつもよりすこしだけペースを早めて自分の仕事を終わらせる。
「お疲れ様です。お先失礼します」
定時きっかりにパソコンの前から離れるなんていつぶりだろう、と思いながら白い皮の鞄を肩にかける。
「あっ笠井さん!もし用事ないならちょっと終わりそうになくて手伝ってほしいんだけど」
と芳田さんに呼び止められた。
「すみません、今日は無理です」
いつも手伝っているし今日くらいは帰ります、と顔に出ていたのか、芳田さんは「あっ了解」とあっさり引いてくれた。
「例の旦那さん?」
と左手の薬指に視線を遣りながらニマニマ顔で囁かれた。なんて答えようか一瞬だけ目を泳がせ、
「内緒です」と残して職場を出た。
見慣れた家路を早歩きで通り過ぎ、アパートの階段を軽やかに駆け上がる。明かりのついた部屋の前で軽く息を整え、
「ただいま」と扉を開けると、
「おかえり」
と部屋の奥の方から返事がある。生活がわたし一人だけのものでなくなってから、今日でちょうど二年。結局、親にわたしたちの関係は言っていない。結婚はそもそも「家族」になる契約であり、わたしたちは既に家族なのだからその必要も無い、という結論に落ち着いた。
そもそも籍は入れられないし、結婚一時金のようなお祝い金を受け取れないのはなかなか痛いが、それでも二人の生活を平穏に送れるのなら無くても構わない。
子どものことはまだ考えられていないけれど、きっとわたしは宿さない。
これから二人で生活を築いていくのだと誓った指輪は、今日もわたしの指の上で光を反射して煌めいている。
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