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裂いて、咲いた
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「ひつぎ」
母は私のことを名前で呼ぶ。優しくなどない、無感情な声だ。それでも呼ばれるだけ嬉しかった。居ないものとして扱われることのほうが多かったから。
「あなた、またお隣に行ってたの?いい加減やめなさいって言ったわよね。迷惑だからやめなさいって」
母は、口調は怒っているのに目はひたすらに憎んでいた。汚いものを見る目で私を見ていた。
「ごめんなさい」
口先だけの謝罪で、母はもう私に興味を無くす。それ以外の会話を望んでない。テストで良い点を取ってみても、通信表が良くても、母の興味は引けなかった。
それがとても悲しくて、苦しくて、憎くて、悔しくて──そう、息が詰まった。
そんな折、隼にぃと出会った。隼太ママに出会った。私は初めて優しくされた。初めて見て見ぬふりされず、初めて「ひつぎ」と呼ばれなかった。
「名前の由来をご両親から聞いてきてください」
小学校でだれもに課される課題。私は、少し期待していた。もしかしたら名前を付けるときだけは、お腹にいる間だけは愛されていたかもしれない。
そんな淡い期待はあっさり打ち砕かれた。
課題について母に聞くと、珍しく母は穏やかな声で「知りたい?」と言った。
染められた茶色の髪を一束耳にかけ、
「ひつぎは──漢字で書くと、こうなの」
と、母はペンのキャップを外し、私の手を掴んだ。握ってきた手はとても強くて、振りほどくなんてできなかった。初めて手を握られた記憶だったから、振りほどこうとも思わなかったけど。
そして、私の手にペンで直接書いた文字が──「棺」だった。
その字を見た瞬間、母は満面の笑みを浮かべた。
「できたらお腹の中で死んでくれたらいいのに。生まれてきてもすぐに居なくなってくれたらいいのに。ずっとずっとそう願って──ふふ 全然叶わないんだもの。あーもう……なんで?どうして?どうしてあんたは生まれてきたの?なんのために私の前に現れたの?」
だんだんと昂っていく母を、私は穴が空くほど見つめた。こんなにも恐ろしいのに、どうして私は「嫌いだ」と思えないんだろう、と。どうして「ようやく笑顔が見れた」とかすこしだけ嬉しくなっちゃってるんだろ、とか。
その後、珍しく早く帰ってきた義父が暴れる母を必死に抑えてて、宥めて、私に「部屋に戻っていなさい」と哀れみの目を向けてきた。
私は、ハルナちゃんと一緒の部屋ではなく隣の家に向かった。隼にぃに会いたかった。隼太ママに会いたかった。
予想通り、隼太ママは「いらっしゃい」と何も聞かずに招き入れてくれた。
出された丸型のクッキーをもそもそ食べる。口の中の水分がほとんど奪われた。涙も、もしかしたらそのクッキーに吸い取られてしまったのかもしれない。
もそもそ食べ続けていると、ドアひとつ隔てた廊下から隼にぃと隼太ママの話す声が聞こえてきた。
そっとドアノブに手を伸ばしかけたのだが、
「なんでまたアイツを入れたんだよ」
怒った隼太にぃの声が聞こえてきた。
私は混乱した。こんなに怒った隼太にぃの声なんて聞いた事なかった。
「隼太、あの子は居場所がないの。だから──」
「だからってなんでうちなんだよ!なんで母さんが相手しなきゃいけないんだよ!おかしいだろ!?ここはアイツの家じゃない!俺の家だ!母さんだって俺の母さんだ!!」
吐き出された悪意のない言葉は、ストッと私の胸を刺した。
ずっとずっと憎まれていたのだと、鈍感な私は初めて気づいた。けどその頃の私は、──聞かなかったふりをした。ただ戒めのように、手に書かれた「棺」の文字は、しばらく消えてくれなかった。
何も聞かなかったことにして、何も気づいてないふりをして、隼にぃと隼太ママのとこへ遊びに行ってたら、本当にそのことを忘れてしまっていた。
だから高校生になるまでは、何も起きなかった。私は恋に盲目な女子として隼にぃについて回っていた。けど高校生一年目、期末テストの前。
隼にぃとハルナちゃんが二人図書館から出てくるのを目撃した。
それだけならまだ、「たまたま」だと自分に言い聞かせることができた。
けど、二人はおもむろに手を繋いで、幸せそうに笑いあっていた。
その瞬間、何かがプツリと音を立てた。
たぶんそれは、理性の糸だった。
唐突に破壊衝動に襲われた。鞄の紐を握るだけでは足りなかった。ハサミでズタズタに裂いても足りなかった。だから、──、
自分を裂いてしまえば、すこしは気が晴れるだろうか。
そう思った。
けれど。
「えっ ひーちゃん、何してるの?」
動揺するハルナちゃんが、こちらを見ていた。
純粋に心配する目で、私を見ていた。
私は耐えられなくなって、鞄を置いて走って逃げた。下校時刻が近いから、校内は人の影が薄かった。
全速力で階段を駆け上がる。息が切れるのも構わずに走った。だがなぜだかハルナちゃんは先回りしていた。
「ひーちゃん待って!お願い止まって……っ私でよければ話して。力になるから」
酷く優しい言葉を投げられた。
その言葉を受ける度、私がどれだけ惨めになるかも知らないで。
「なら消えてよ。私の前から消えて。それで私に頂戴よ。お母さんもお父さんも、隼にぃも……っなんでハルナちゃんだけ……っ!!」
私は叫んだ。悲鳴のような叫びだった。
ハルナちゃんは酷く傷ついた顔をしていた。だけど、
「ごめんね、ひーちゃん。ひーちゃんが苦しいの知ってたのに、私知らないふりしてた。ひーちゃんは、ずっとずっと……私のせいで、苦しんでたのに。ひーちゃんが望むなら、……そうしてあげる」
そう告げたハルナちゃんは、悲しそうに微笑んだ。うっすら涙の膜が張られ、陽に照らされてきらりと光る。
「だって、私はひーちゃんのお姉ちゃんだから」
ハルナちゃんは、すぐ横をすり抜けるように階段の下めがけて体を投げ出した。
私は咄嗟に手を伸ばした。善意からじゃない。「姉」と名乗ったハルナちゃんとの日々がそうさせた。
ハルナちゃんは私を「妹」として扱った。家で無視なんかしなかった。食卓に私の分の箸と茶碗を用意してくれてた。
ハルナちゃんが、私のお姉ちゃんだったから。
手を伸ばした。でも届かなくて、身体がハルナちゃんのほうに引き寄せられた。手すりとハルナちゃんとを同時に掴み、なんとか助かった。
──はず、だ。
あれ、と疑問が浮かぶ。助かったはずだった。だってそのまま引き上げればよかったんだから。けどさっきは「私はハルナちゃんと揉み合って落ちた」と思った。実際落ちてるんだろう。私は意識を失っているのだから。
「……隼にぃが手を伸ばしたのは、私を突き落とすためだった……?」
言葉にした瞬間に頭が割れそうなほど痛くなる。気持ちが悪い、視界がぐにゃりと歪む。立っていられなくなって、その場に私は四つん這いになる。
視界の端でアケボシが寄ってくるのがわかったけど声をかける余裕なんてとてもない。
揉み合ったのはハルナちゃんとじゃなくて、隼にぃとだった。ハルナちゃんを引き上げた後、隼にぃは私を責めたてた。激昂する彼に襟元を捕まれ、苦しかったから抵抗した。そしたら、私は階段から落ちてしまったんだ。
その私を助けようと、ハルナちゃんは手を伸ばしてくれた。けど落ちかけたハルナちゃんを、隼太にぃが止めたんだ。
──それで、私だけが落ちたんだ。私、好きな人に殺されかけたんだ。
ないはずの心臓が一際大きく跳ねて、息すらできなくなる。そうだ、これは階段から落ちた時と同じ感覚だ。
死ぬのかな、と落ちる瞼の下でぼんやり思う。けどそれも悲しくない。もうどうでもいい。私は生きるより死んだ方が喜ばれる。
「先輩!ひつぎ先輩!」
アケボシの必死に呼びかける声にうっすら目を開いた。
必死な顔。
あのときの、隼にぃがハルナちゃんを見ていたときの顔とそっくりだった。
──なんだ、私にも居たんだ。
周りを見なかったのは私だ。気づこうとしなかったのも私だ。助けを求めなかったのも、報われるのをずっと待ち続けるだけだったのも、全部私。
なら、今度はそれを拾いにいこう。自分から動いていこう。それで今度こそ、自分で自分の居場所を創るんだ。
そう決意した刹那、意識がぷつりと途切れた。
母は私のことを名前で呼ぶ。優しくなどない、無感情な声だ。それでも呼ばれるだけ嬉しかった。居ないものとして扱われることのほうが多かったから。
「あなた、またお隣に行ってたの?いい加減やめなさいって言ったわよね。迷惑だからやめなさいって」
母は、口調は怒っているのに目はひたすらに憎んでいた。汚いものを見る目で私を見ていた。
「ごめんなさい」
口先だけの謝罪で、母はもう私に興味を無くす。それ以外の会話を望んでない。テストで良い点を取ってみても、通信表が良くても、母の興味は引けなかった。
それがとても悲しくて、苦しくて、憎くて、悔しくて──そう、息が詰まった。
そんな折、隼にぃと出会った。隼太ママに出会った。私は初めて優しくされた。初めて見て見ぬふりされず、初めて「ひつぎ」と呼ばれなかった。
「名前の由来をご両親から聞いてきてください」
小学校でだれもに課される課題。私は、少し期待していた。もしかしたら名前を付けるときだけは、お腹にいる間だけは愛されていたかもしれない。
そんな淡い期待はあっさり打ち砕かれた。
課題について母に聞くと、珍しく母は穏やかな声で「知りたい?」と言った。
染められた茶色の髪を一束耳にかけ、
「ひつぎは──漢字で書くと、こうなの」
と、母はペンのキャップを外し、私の手を掴んだ。握ってきた手はとても強くて、振りほどくなんてできなかった。初めて手を握られた記憶だったから、振りほどこうとも思わなかったけど。
そして、私の手にペンで直接書いた文字が──「棺」だった。
その字を見た瞬間、母は満面の笑みを浮かべた。
「できたらお腹の中で死んでくれたらいいのに。生まれてきてもすぐに居なくなってくれたらいいのに。ずっとずっとそう願って──ふふ 全然叶わないんだもの。あーもう……なんで?どうして?どうしてあんたは生まれてきたの?なんのために私の前に現れたの?」
だんだんと昂っていく母を、私は穴が空くほど見つめた。こんなにも恐ろしいのに、どうして私は「嫌いだ」と思えないんだろう、と。どうして「ようやく笑顔が見れた」とかすこしだけ嬉しくなっちゃってるんだろ、とか。
その後、珍しく早く帰ってきた義父が暴れる母を必死に抑えてて、宥めて、私に「部屋に戻っていなさい」と哀れみの目を向けてきた。
私は、ハルナちゃんと一緒の部屋ではなく隣の家に向かった。隼にぃに会いたかった。隼太ママに会いたかった。
予想通り、隼太ママは「いらっしゃい」と何も聞かずに招き入れてくれた。
出された丸型のクッキーをもそもそ食べる。口の中の水分がほとんど奪われた。涙も、もしかしたらそのクッキーに吸い取られてしまったのかもしれない。
もそもそ食べ続けていると、ドアひとつ隔てた廊下から隼にぃと隼太ママの話す声が聞こえてきた。
そっとドアノブに手を伸ばしかけたのだが、
「なんでまたアイツを入れたんだよ」
怒った隼太にぃの声が聞こえてきた。
私は混乱した。こんなに怒った隼太にぃの声なんて聞いた事なかった。
「隼太、あの子は居場所がないの。だから──」
「だからってなんでうちなんだよ!なんで母さんが相手しなきゃいけないんだよ!おかしいだろ!?ここはアイツの家じゃない!俺の家だ!母さんだって俺の母さんだ!!」
吐き出された悪意のない言葉は、ストッと私の胸を刺した。
ずっとずっと憎まれていたのだと、鈍感な私は初めて気づいた。けどその頃の私は、──聞かなかったふりをした。ただ戒めのように、手に書かれた「棺」の文字は、しばらく消えてくれなかった。
何も聞かなかったことにして、何も気づいてないふりをして、隼にぃと隼太ママのとこへ遊びに行ってたら、本当にそのことを忘れてしまっていた。
だから高校生になるまでは、何も起きなかった。私は恋に盲目な女子として隼にぃについて回っていた。けど高校生一年目、期末テストの前。
隼にぃとハルナちゃんが二人図書館から出てくるのを目撃した。
それだけならまだ、「たまたま」だと自分に言い聞かせることができた。
けど、二人はおもむろに手を繋いで、幸せそうに笑いあっていた。
その瞬間、何かがプツリと音を立てた。
たぶんそれは、理性の糸だった。
唐突に破壊衝動に襲われた。鞄の紐を握るだけでは足りなかった。ハサミでズタズタに裂いても足りなかった。だから、──、
自分を裂いてしまえば、すこしは気が晴れるだろうか。
そう思った。
けれど。
「えっ ひーちゃん、何してるの?」
動揺するハルナちゃんが、こちらを見ていた。
純粋に心配する目で、私を見ていた。
私は耐えられなくなって、鞄を置いて走って逃げた。下校時刻が近いから、校内は人の影が薄かった。
全速力で階段を駆け上がる。息が切れるのも構わずに走った。だがなぜだかハルナちゃんは先回りしていた。
「ひーちゃん待って!お願い止まって……っ私でよければ話して。力になるから」
酷く優しい言葉を投げられた。
その言葉を受ける度、私がどれだけ惨めになるかも知らないで。
「なら消えてよ。私の前から消えて。それで私に頂戴よ。お母さんもお父さんも、隼にぃも……っなんでハルナちゃんだけ……っ!!」
私は叫んだ。悲鳴のような叫びだった。
ハルナちゃんは酷く傷ついた顔をしていた。だけど、
「ごめんね、ひーちゃん。ひーちゃんが苦しいの知ってたのに、私知らないふりしてた。ひーちゃんは、ずっとずっと……私のせいで、苦しんでたのに。ひーちゃんが望むなら、……そうしてあげる」
そう告げたハルナちゃんは、悲しそうに微笑んだ。うっすら涙の膜が張られ、陽に照らされてきらりと光る。
「だって、私はひーちゃんのお姉ちゃんだから」
ハルナちゃんは、すぐ横をすり抜けるように階段の下めがけて体を投げ出した。
私は咄嗟に手を伸ばした。善意からじゃない。「姉」と名乗ったハルナちゃんとの日々がそうさせた。
ハルナちゃんは私を「妹」として扱った。家で無視なんかしなかった。食卓に私の分の箸と茶碗を用意してくれてた。
ハルナちゃんが、私のお姉ちゃんだったから。
手を伸ばした。でも届かなくて、身体がハルナちゃんのほうに引き寄せられた。手すりとハルナちゃんとを同時に掴み、なんとか助かった。
──はず、だ。
あれ、と疑問が浮かぶ。助かったはずだった。だってそのまま引き上げればよかったんだから。けどさっきは「私はハルナちゃんと揉み合って落ちた」と思った。実際落ちてるんだろう。私は意識を失っているのだから。
「……隼にぃが手を伸ばしたのは、私を突き落とすためだった……?」
言葉にした瞬間に頭が割れそうなほど痛くなる。気持ちが悪い、視界がぐにゃりと歪む。立っていられなくなって、その場に私は四つん這いになる。
視界の端でアケボシが寄ってくるのがわかったけど声をかける余裕なんてとてもない。
揉み合ったのはハルナちゃんとじゃなくて、隼にぃとだった。ハルナちゃんを引き上げた後、隼にぃは私を責めたてた。激昂する彼に襟元を捕まれ、苦しかったから抵抗した。そしたら、私は階段から落ちてしまったんだ。
その私を助けようと、ハルナちゃんは手を伸ばしてくれた。けど落ちかけたハルナちゃんを、隼太にぃが止めたんだ。
──それで、私だけが落ちたんだ。私、好きな人に殺されかけたんだ。
ないはずの心臓が一際大きく跳ねて、息すらできなくなる。そうだ、これは階段から落ちた時と同じ感覚だ。
死ぬのかな、と落ちる瞼の下でぼんやり思う。けどそれも悲しくない。もうどうでもいい。私は生きるより死んだ方が喜ばれる。
「先輩!ひつぎ先輩!」
アケボシの必死に呼びかける声にうっすら目を開いた。
必死な顔。
あのときの、隼にぃがハルナちゃんを見ていたときの顔とそっくりだった。
──なんだ、私にも居たんだ。
周りを見なかったのは私だ。気づこうとしなかったのも私だ。助けを求めなかったのも、報われるのをずっと待ち続けるだけだったのも、全部私。
なら、今度はそれを拾いにいこう。自分から動いていこう。それで今度こそ、自分で自分の居場所を創るんだ。
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