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九章

思い遣り

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 尾田家へと広翔は必死に自転車を漕いだ。
 突然、広翔は急ブレーキを踏んだ。
 尾田家の近場の公園のブランコに、よく見慣れた人物が座っていた。
「先輩」
 声をかけると、澄香は虚ろな瞳に広翔を映した。
「何か用?」
 冷たく覇気のない澄香の声に、広翔は胸が痛くなった。

──なにを、しているんだ俺は……!

 あの監禁部屋での目をしている澄香を前に、怒りが湧いてくる。
 拳を握りしめて、「あの」と言った。
「すみませんでした」
 頭を下げると、澄香はキィとブランコ特有の金属音を鳴らした。
「何が?」
 広翔はゆっくりと頭を上げて、
「勝手に、留学とか……勝手に決めてしまって」
 視線の合わない二人の間に、沈黙が落ちた。
 先にその静寂を破ったのは澄香の微かな笑い声だった。
「やっぱり、全然わかってない」
 少しも楽しそうじゃないその笑みは、ひどく自嘲的だった。
「確かにそれも悲しかったけど……私、広翔君が私を試すようなことをしたのが嫌だった。何でわかってくれないの?って思った」
 静かな瞳の奥には、悲しげな感情がひっそりと潜んでいるようだった。
「試すって」
「試したよね?留学するのを止めるかどうか」
 心臓が嫌な音を立てる。心拍数がどんどん上がる。
「止めて欲しかったわけじゃないんでしょ?あれ。『自分のことをわかってくれる』って思いたかったんでしょう?思わせたかったんでしょう?納得してほしかったんでしょう?」
 涙が目に溜まっていくのが見て取れた。
 広翔は何も言わなかった。
「やっぱり無理だよ」
 澄香は小さく呟き、ブランコの鎖を握る手に力を込めた。
「私、今回のことで恋愛に向いてないことよく分かったもの。いくら広翔君が好きと思っても、あなたが何を考えてるのか全然わからない。辛いだけなの。本当に……」
 最後の方は涙で言葉が繋がらなかった。
 もう暗い公園に、嗚咽だけが響いていた。
「すみません。俺……自分勝手と分かってはいても、そうです。先輩の言う通り、分かってくれると思っていたんです。自己完結させてたんです。……でも違ったんだってことに気づかせてくれたんだ。すみません、留学はします。これは、俺のやりたいことだから。でも勘違いしないでください。先輩のことは大好きです。決して嫌いなんかじゃない。それは一生変わりません」
 広翔の主張を、澄香は鼻をすすりながら黙って聞いた。
躊躇ためらいが、なかったわけじゃないんです。当たり前です。先輩に会えないのは本当に辛い。俺が居ない間にあなたのことを好きな人が現れて、ずっと傍にいると言って……って、なんか、そういうの考えちゃうんですよ」
「ならどうして?」
 澄香は広翔の方は見ずに俯いたまま言葉を紡ぐ。
「やっぱりその程度なんでしょう?簡単に捨て置けるくらいの、離れたらいつかお互いに忘れるとでも思ってるんでしょ?」
「違います」
 澄香の手を握る。
 彼女は手を振り払わなかった。
「違います。前に、言った通りなんです。俺、先輩を束縛してしまいそうで、そんな自分が嫌なんです。あなたには、自由でいて欲しいんだ。伸びやかに生活するあなたに、強かに生きようとするあなたに惹かれたから」
 広翔はもう片方の手を重ねるように澄香の左手を包む。
「先輩が止めるなら、俺はどこへも行きません。本当です。これは、俺の本心だ。先輩を泣かしてまで行くことはしたくない。一番大切なのはあなたなんだから。……そんなことすら、見えなくなっていたんです。本当に、すみませんでした」
 澄香はそっと鎖から手を離した。
「違うの」
 震えた言葉と共に、大粒の水晶のような涙がこぼれ落ちた。
「ごめんね、私も……こんな私嫌い。広翔君の考えなんか全然わからなくて、置いていかれる気がして。……私こそ、私こそあなたの足枷になったりしたくないのに」
 しゃくりあげる澄香の背をそっとさする。
「足枷なんかじゃないです。あなたがいるから俺は頑張ろうと思えるんだ。あなたに触発されるんだ。決して足枷なんかじゃない」
 澄香はすくっと立ち上がり、涙で濡らした顔を隠すように広翔の胸板に額を押しつける。
「重いよね、私。未だに私が広翔君に好かれる理由がわからないもの。だけど他の子と一緒にいることが堪らなく嫌で……何だか、矛盾したような気分よ」
 栗色のさらりとした髪をそっと撫でる。
 相手の存在を確かめるようにお互いに抱きしめ合う。
 静まり返った公園に、カサカサと葉が擦れ合う音だけがやけに大きく響く。

「私は、止めない」

 ザァ、と風がもうほとんど残っていない木の葉に容赦なく吹き付けて落としていく。
「止めないよ」
 保健室で見せた表情とは打って変わって、スッキリとした笑みが浮かんでいた。
「帰ってきてくれるんでしょ?私のところに」
 目は赤く充血していた。
 それが宝石のように輝いて見える。
「当たり前じゃないですか」
 澄香を抱く手に力が篭もる。
 目にかかった彼女の前髪をそっと横に寄せ、まだ目に溜まっている涙を拭う。
 彼女の頬に掌を添わせて、二人は唇を重ね合わせた。
 少し離してはまた口づける。
「先輩」
 少し顔を離して、広翔は微笑を浮かべた。
「大好きです」


***


 空港は多くの人たちでザワついていた。
 卒業旅行らしき人たちや、帰省する予定らしき外国人に、仕事の電話がひっきりなしにかかっていているサラリーマンが目に映る。
「広翔君、まだ時間あるからお土産屋さん巡ってくるわね」
 結芽はそう言って腰を上げた。
 おそらくそれも目的なのだろうが、二人きりの時間を作ってくれたようだ。
「俺たちも、何か見に行きますか?」
「そうだね……あ、『たこせん』食べてみたい」
 すぐそこに売ってあった煎餅を指して明るく笑う。
「じゃあ俺は『いかせん』にしようかな」
 二人で一種類ずつ煎餅を買う。
 澄香は無事に第一志望に受かり、あと一週間後には私服で学校に通う予定だ。
「あ、美味しい」
 パリッとした音を響かせながら澄香は目を細める。
「一口ください」
 と理ってからたこせんを頬張る。
「あ、美味いっすね。こっちもどうぞ」
 といかせんを差し出す。
「うーん、美味しい。空港のお菓子って高いけど美味しいものが揃ってるよね」
 味わいながらひとりでに頷き納得している。
「毎年、日本に帰ります」
 すぐ隣の澄香の手を握りながら、広翔は呟いた。
「私も毎年会いに行くよ。そうだ!夏は私が会いに行って、冬は広翔君が会いに来てよ。まぁ、お金がなかったら仕方ないけどね」
 と足をブラブラ浮かせた。
「バイトしますよ。こうなったらイタリア語完璧にして、先輩にカッコイイと言わせます」
「あははっ何それー」
 澄香は腹を抱えてヒィヒィ笑った。
「ほんと面白い……向こうで、浮気しないでよ?」
 そう言いながら、そっと頭を彼の肩にのせた。
「するわけないです。先輩以上に好きになれる人なんか、世界中探してもいないですって。たとえ若者が何言ってるんだと鼻で笑われても、俺はその人を見返す自信がありますから」
 広翔の言葉に澄香は頬を赤く染めた。
「…………ほんと、恥ずかしいことサラッと言うんだもんなぁ」
 澄香は聞こえないくらいの小さい声で呟き、そっと顔を上げて広翔を盗み見る。
 いつからこんなに大切だと思うようになったんだろう、とふと思う。
 あの時いつもみたいにカーテンを閉め切っていたら、広翔君が保健委員にならなかったら。
 考えれば考えるほど、偶然に偶然が重なったような出会いと日々。ドラマの中の人たちが「前世からの因縁」なんて言葉を使うのが頷けるような一年間だった。
「お待たせー」
 結芽は手に袋を沢山掲げて帰ってきた。すぐ隣には璃玖もいる。
「じゃあ、そろそろ行こうかしらね」
 時計を見ながら結芽は広翔に目配せした。
「それじゃ璃玖君。また会いましょうね」
「はい。結芽さんもお元気で」
 一足先に結芽が荷物検査へと向かっていく。
 広翔は璃玖と向かい合って、手を差し出した。
「璃玖──お前はずっと、俺にとって親友だよ」
 璃玖は「はいはい」と言いながらも差し伸べられた手を握って握手した。
「またな」
 璃玖は清々しい笑みを浮かべながら手を離した。
 ついで澄香を見ると、澄香は目をかすかに潤ませていた。だが、
「待ってるから」
 いつか見た、一瞬にして心を奪われた笑みとは違ったが、儚い表情の中に芯があるような、美しく可愛らしい表情。
 広翔の目から、涙が一筋こぼれた。
「──え」
 澄香だけでなく、本人でさえ狼狽えた。
「すみませ……っ泣くつもりなんて」
 そう言いながら慌てて涙を拭う。
「うん。なんか……不謹慎だとは思うけど、嬉しいって思っちゃったよ」
 悪戯っぽく笑う澄香は、小さな体で広翔を包み込むように優しく抱いた。
「待ってる。ずーっと、待ってるから」
 明るい声で言いつつ、肩が小刻みに震えていた。
「はい」
 小さな背を抱きしめ、ゆっくりと手を離していく。
「行ってらっしゃい」
 ふわりと澄香は微笑む。
 つられて、広翔も微笑をうかべた。
「行ってきます」
 しっかりとした足取りで、広翔はゲートへと向かった。
 まだ寒い気候が続いていたものの、その日は、桜の開花が一番多かった。
                




                               Fin.
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