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七章

黒い靄

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 約束の日がやって来た。
 初めて見た秀一はいかにも金持ちといった風格があった。唇が引き結ばれた厳つい表情に、いくらするか想像もできないゴツイ腕時計。
 佳奈の話からは想像できない人物像だ。
「ようこそ。佳奈さんも旦那さんも来てくださってありがとうございます」
 智美は人懐っこい笑みを浮かべる。
「いえ、こちらこそ」
 秀一は無愛想に答える。
 瑠璃は表情の無い目で二人から距離をとるように突っ立っている。
「あ、瑠璃ちゃん!」
 そんな空気を破るかのように春海が瑠璃に駆け寄る。
「来てくれたの?良かったー心配してたんだよー」
 と瑠璃を抱きしめる。
 瑠璃は狼狽えていたものの、春海の温もりにほうっと息を吐いた。
「さぁ庭へどうぞ」
 春海は瑠璃の手を引きながら先に家の敷地に足を踏み入れる。
 秀一はいささか面食らっていたが、佳奈と共に庭へと移動した。
 庭では既に肉や野菜が焼かれて香ばしい匂いが漂い、ジュワジュワと小気味良い音を響かせていた。
「あ、いらっしゃい。秀一さんと佳奈さんですね?妻から話を聞いております」
 達海が朗らかに笑い、焼き上がった肉と野菜を皿に乗せて二人に手渡した。
「熱いうちにどうぞ」
 勧められるままに佳奈は口をつける。
 秀一は抵抗があるのかなかなか食べようとはしなかった。
「美味しいです」
 佳奈がふわりと微笑むと、秀一は目を丸くした。
 恐る恐るといった様子で牛タンを口に運ぶ。
「……美味い」
 スルリと抵抗なく出てきた言葉に佳奈は目を見開き、発した秀一本人も驚いていた。
「秀一さんと来れて、良かったです」
 曇りない笑顔を秀一に向けた。
 秀一はそんな佳奈に少し口角を上げた。
「秀一さんて、休日は何をなさってるんです?」
 雅也と達海が秀一に話しかける。
「え、ああ、特には……」
 と言う秀一に、「キャンプとかに興味あります?」とアウトドア派の二人は誘う。
「実はここの製品、安めなのに物凄く物持ちが良くて」
 と言う達海に、秀一は「それうちの製品ですね」と言った。
 二人は目を丸くして、
「話を伺っても!?」
 と食いつく。秀一は二人に気圧されるようにして談笑し始めた。
「信じられない。秀一さんが初対面の人の前で笑ってるわ」
 少し離れた位置で佳奈が声を漏らす。
 佳奈、智美、結芽の三人で肉と野菜を頬張りながら円を作るように座る。
「あの、気になってたのですが」
 結芽が佳奈に話しかける。
「本当に秀一さんが暴力を振るのですか?」
 佳奈の許可を得、智美は妹に彼女の家事情を軽く話していた。
 佳奈は少し視線を落として小さく頷く。
「でも」
 と佳奈は付け加える。
「原因は、あの人の母親です」
 智美と結芽は困惑したように互いに目を合わせる。
「以前、お義母さんが私をよく思ってないことはお話しましたよね?それは今も変わってないんです。今も別れさせようと策を練っています。息子への執着……というより、会社の存続の方で、私は令嬢でもありませんから気に入らないようで。仕方ないといえばその通りなのですけど」
 苦笑を浮かべてはいたが、彼女の悲しさは隠しきれていなかった。
「それで、ある日……お義母さんが訪ねてきた日から、夫は変わりました。目は血走り、瑠璃に手を挙げました。訳が分からずに、私は瑠璃を庇うことしかできませんでした。ただ、お義母さんが何かを言ったのは確かだと思います。秀一さんはお義母さんに厳しく育てられたと聞いてます。友達など作る暇もないほどに習い事をこなし、勉強をして、百点は当たり前で、取れないと出来損ないとして扱われていたそうです」
 苦しそうに話す佳奈の顔色は青かった。
「そのお義母さんが瑠璃ちゃんと接する機会は?」
「ええ、その……私はその場に居あわせることを禁じられていて、でも……しばしば『牢獄』からお義母さんの奇声と鞭を打つような音が……なので、大体は想像ができてしまいます。ただ、それは瑠璃が幼い頃に二度ほどだったので、今の瑠璃の記憶には残っていないかもしれません。…………残っていないことを、願うばかりです」
 カタカタと震えていた。結芽と智美はそっと両側から佳奈の肩を抱く。
「確か、以前私が会いに行った時も来ていたんじゃ?」
 智美が尋ねると、佳奈は苦笑しながら言った。
「隠しました。塾の合宿と嘘をつきました。塾に行かせてはいないのですが、ちょうど貰ったチラシにそれが書かれていたので利用しました」
「佳奈さんは被害が無いの?」
「ええ、なぜか」
 佳奈は二の腕を摩りながら頷く。
 結芽は眉をひそめて「逆に怖いわ」と呟いた。
 一抹の不安を残したまま、その日はお開きとなった。


***


 その日、佳奈たちが家に帰ると義母の遠子とおこがソファに座り紅茶を啜っていた。
 佳奈は体を強ばらせた。
 じろりと睨めつけるように佳奈に視線を向ける。
「どこへ行っていたのかしら」
 佳奈はカタカタと震えるばかりで言葉が出てこなかった。
「友人のお宅に行っていました」
 秀一が佳奈を背に庇うように一歩進み出た。
 佳奈の目にうっすらと膜が張られて視界がぼやける。
「ご友人ねぇ。あなた、ちょっといらっしゃい」
 すっと立ち上がり、佳奈をある部屋・・・・へと導いた。
 部屋に入った佳奈の肩に遠子は手をかけた。
「ご友人は、どんな方たちなの?」
 甘い声だった。恐ろしい存在だと思ってはいるのに、わかってはいるのに、自然と筋肉の緊張が解ける。
「や、優しい方たちです」
 佳奈の声は震えていた。遠子は「そう」と相槌を打ち、
「ならさぞかし、円満な家族だったのではないかしら」
 佳奈の肩がぴくりと跳ねる。
「だけど、なぜあなたの家庭はこんなにも荒廃しているの?どうして笑顔が少ないのかしら。どうしてあなたたちだけが貧乏くじを引くのかしら」
「そ、れは」
 佳奈が言葉を詰まらせる。
 あなたがかき乱したんでしょ?騙されない。
 佳奈は唇を噛み締める。
「私のせいじゃないでしょう?あなたが高貴に生まれてこなかったのはなぜ?卑しい身で生まれてきたのは私のせい?違うでしょ?誰かのせいにしたいだけでしょう?あなたはこんなに恵まれていない環境に居るのに、ご友人は恵まれた環境にいる。本当にご友人なのかしら」
「何が言いたいんです」
 佳奈は震える声を抑えきれない。
あわれまずにいられないでしょう?かわいそうと思われているだけなのよ。あなた本当にかわいそう。ご友人はあなたの子を奪う気よ」
「何言って……っ」
 そんなわけない。会ってもいないあなたに何がわかるの。
 言いたい言葉は全て吐息になって消えていく。
「あなたの周りの環境を知ったご友人は、子供が可哀想と勝手に判断してあなたから奪うつもりよ。だって、あそこ・・・の旦那さんは児童相談所の職員よ」
 肺機能が止まったように上手く呼吸ができない。
「聞いてみたら?明日にでも、あなたの子供を言葉巧みに捕るつもりよ。私はあなたを心配していたの。あなたが可哀想な道を歩まないように、私が助けてあげていたのよ。あなたの心情を思うと、何度胸が張り裂けそうになったことか。でもそれも、全てあなたのためと心を鬼にしてあなたを遠ざけた。子供を無事守れたら、あなたをようやく檜木の皆に認めさせることができる。あと少しよ。あと少しであなたの苦労が全て報われる。そのためには……ご友人と言ってあなたを騙そうとする人たちは、天罰が必要よね。あなたが、自分で、子供を守るの」
 耳元で囁きながら、遠子は鋭利な刃物を握らせた。
 佳奈は呆然とその刃物を眺めた。
「騙してた?あの人たちが……?」
「そうよ。今までの私たちの苦労を知りもしないくせに、子供の人生を不幸と決めつけて奪いに来るの。許せないでしょう?あなたの勇気・・次第で、あなたとあなたの子供は救われるの」

 奪いに来る。私から、私の瑠璃を……?

──させない。させない、させない。

「そんなこと、させないわ」
 佳奈の呟きに、遠子は得たりとばかりに唇を引いただけの笑みを浮かべた。
 その日は夕立が酷く、雷がしばらく鳴り続けた。
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