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三章

体育祭<前編>

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 練習が入ってない日の毎週金曜日のみ、澄香と会うことができた。
 体育祭の前日は雨だった。
 雨なのだが、グラウンドの乾きが早いため、翌日が雨でない限りは体育祭が行えるのだ。
「こんにちは」
 広翔がへにゃ、と笑いながら窓に近づいた。
 澄香も笑顔で会釈した。
「今日はいよいよ、種を撒こうと思いまして·····」
 と言いながら、持参した袋を掲げて見せた。
「雨だし、一緒にやりませんか?」
 と誘うと、澄香はパッと表情を明るくしたが、すぐに眉を下げて首を振った。
「体調悪いんですか?」
 と聞くと、またも首を振った。
『私』
 とボードに書き始め、思いとどまったようにピタリと動きを止め、消していった。
『やっぱりやろうかな』
 と書き直されていたのが多少気にはなったが、気にしないことにした。
「じゃあ、待ってま·····」
 待ってますね、と言おうとしたが、いつしかの誰かみたいに、ひょいと窓枠を跨いで地面に着地した。
『こっちの方が早いから』
 と、小悪魔のような笑みを浮かべた。
 靴はいいんですか、と聞こうとすると、もう履き替えられていた。
「·····保健室って、土足でいいんでしたっけ」
『あとは帰るだけだから、靴は持ってきてたんだけど、正解だったみたい』
 澄香はそう言い、手を差し出した。
『じゃあ、やろう』
 心の底から嬉しそうにしていた。
 広翔は少し安堵した。
 さっきの暗い表情は、思い過ごしだったんだ。
 そう、思っていた。
「えと、·····こっちが、さるびあ?で、こっちがいんぱちぇんす·····です」
 言い慣れない花の名前の種を澄香に渡す。
 広翔はアサガオの種を手に取る。
 右側にサルビアとインパチェンス、左側にアサガオを植えると、真ん中がちょうど余った。
「パンジーのところ、余っちゃいましたね」
 中途半端に空いた花壇を見ながら、二人は苦笑した。
『時期が来たら、また植えたらいいよ』
 穏やかに微笑みながら、彼女はそう言った。
 ふと、澄香の頭にてんとう虫が止まった。
「先輩、てんとう虫」
 着いてますよ、と言いながら髪に触ろうとした。
 ドシャっと音がして、あたりは静寂に包まれた。
──澄香が、はっきりと拒絶したのだ。
 顔は青ざめ、肩が細かく震えている。唇もわなないていた。
 戸惑いながら手を伸ばすと、ますます澄香は頬を引き攣らせた。
 首を小刻みに何回か振った。
 何かに怯えたようなその目に、しっかり広翔が捉えられている。
 ゆっくりしゃがみ、澄香と目線を合わせる。
「·····先輩」
 広翔が小さな声で言った。
「怖いですか?」
 澄香はビクリと体を震わせた。
俺が・・、怖いんですか?」
 じっと、澄香を見つめる。
 威圧しないよう気をつけながら、できるだけ微笑むように心がけて。
 澄香はしばらく震えてはいたが、やがてかすかに首を振った。
 広翔は安堵の表情になり、「よかった」と笑った。
 澄香の震えが止まった。
 広翔はゆっくり後ずさり、
「先輩」
 と、今度は恐る恐る、ゆっくりと右手を差し出した。澄香からは数歩離れており、触れられない位置だ。
 澄香は戸惑いながらも、ゆっくり立ち上がり、じりじりと距離を縮め──手を、取った。
 瞬間、グンっと体が前のめり、抱きしめられたのだと数秒後に脳が理解する。
 手を引かれた瞬間、澄香は怯えた顔をしたが、優しく抱きしめられたことへの驚きが勝ったらしい。
「·····怖がらせて、ごめん」
 耳元で、広翔が呟いた。
 つう、と澄香の頬を雫が伝った。
 優しく頭を撫でられ、
「ごめんね、先輩」
 と、あたたかい声で言われる。
 澄香は彼の肩に顔をうずめ、震える手をそっと背中に添えた。声にならない叫びを発しながら、彼女は泣いた。
 雨が、やさしく二人の間に降り注いでいた。



***



 その後、抱き合ってる二人を季実が発見し、嬉しそうに微笑んで車に戻ろうとしたのを広翔が引き止めた。
 季実は、目を真っ赤に充血させ鼻を啜る澄香に驚いて、広翔に詰め寄った。
 澄香が酷く広翔を怯えたことを伝えると、季実は表情を曇らせた。
 とりあえず、と二人を車に乗るよう促した。
 広翔は断ったが、澄香の足が震えて一人で立てなかったため、止むを得ず再び尾田家に足を踏み入れた。
 尾田家は、シャワールームが二つあるという変わった家だった。
 風邪ひくから、と季実に説得され、ありがたくシャワーを浴びた。
 誰のかわからないが着替えが用意されており、広翔の制服が吊るされていた。
 シャワールームから出ると、澄香の姿はなかった。代わりに、季実が紅茶を入れていた。
「よかったらどうぞ」
 と、苺ジャムをはさんだクッキーと紅茶を広翔の前に置いた。
「·····さっきの、驚いたでしょう」
 季実は静かな口調で話しかけた。
 コーヒーを口に含み、
「気にしないでっていうのは、無理な話よね」
 広翔は遠慮がちに頷く。
 季実は、俯きながら「··········実は」と言った。
「でも」
 と、それを遮る。
 季実が顔を上げた。
「·····聞きません。聞くのは、聞くとするなら、澄香先輩から、直接聞きたいんです」
 季実は目を見張った。
「無理に聞きたいわけじゃないです。先輩が嫌なことはしたくないですし、誰にだって·····。誰にだって、聞かれたくないことや知られたくないことはあります。」
 眉を下げて笑う広翔に、季実は微笑みかけて、
「·····ええ」
 その通りね、とコーヒーをまた一口飲んだ。
「·····色々、あるのはもうわかったと思う。だけど、·····できれば、広翔君さえ良ければ、あの子の傍に、居てあげて欲しいな」
 そう言った季実の目から、涙が一筋零れた。
 その表情は、母親そのものであった。



***



「しゃあ!赤組ーッファイッ」
「オオーーッ」
 円陣を組み、赤組の代表リレーのメンバーが怒号にも聞こえる掛け声をかけあう。
「·····葛西君」
 振り返ると、胡桃が立っていた。
「雨水さん」
 久々だね、と言おうとした口を閉じる。
 璃久に「今はそっとしとけ」と暗に言われたこともあり、ほとんど話をしていなかった。まして、胡桃から話しかけてきたのは、中庭での一件以来だ。
 胡桃は目線を逸らしながらも、「リレー、頑張ってね」と言い、赤いハチマキを渡した。
「·····じゃあ」
 立ち去ろうとする胡桃に、「雨水さん」と声をかける。戸惑いながら振り返る胡桃に、
「ありがとう」
 と笑顔で言う。
 胡桃は、嬉しそうに手を大きく振った。
「·····まだ好きなの?」
 璃久が胡桃に話しかける。
「·····関係ないでしょ。」
 冷たくあしらう胡桃に、「つれないなぁ」と璃久は笑う。
「関係ないことも無いけど、まぁいいや。雨水」
 ポンっと何かを胡桃に投げる。
「無くすなよ」
 そう言い残し、璃久は広翔のもとへ走っていった。
「胡桃何もらったの?」
 真理が胡桃に抱きついてきた。
 胡桃は戸惑いながら、手の中のものを見せた。
「·····ハチマキ」
「うわ、良かったねー」
 真理はにやにやしながら胡桃の頬を指でつつく。
「多分、深い意味なんてないよ」
 胡桃がため息混じりに言うと、
「そう思いたいんでしょ」
 真理がムニッと頬をつねる。
「胡桃が葛西に渡したのと同じよ」
 ペシッと肩を軽く叩き、「ま、葛西の方は多分ガチで気づいてないけどね」と苦笑した。
「いいの」
 胡桃は寂しげに笑った。
「いいの。渡すだけで。·····これが、最後」
 真理は同情の目を向け、頭を撫でた。
「じゃ、折角だし一番前で応援しよ」
 真理は胡桃の手を取り、応援席の最前列へと向かった。
「あれ、それ雨水のじゃん」
 わざとらしく璃久が絡んでくる。
「おう。絶対優勝する」
 広翔はハチマキを頭に結び、決意を口に出す。
 璃久は「ハチマキの意味、お前知ってんの?」と呆れ顔で言った。
「え、誰か他の人のをつけると勝てるんだろ?」
「馬鹿」
 璃久は頭に手を当て、重苦しいため息をついた。
「ハチマキを相手に渡すってことは、告白と同じなんだよ」
 広翔はぽかんとした。
「いい加減、返事してやれ」
 トン、と拳で胸板を叩かれる。
「鈍感も大概にしとけ」
 璃久の言葉の意味に、ようやく気づいた。
「·····お前、雨水さんが好きだったのか」
 広翔の言葉に、璃久は何も言わなかった。
 その代わりに、
「行くぞ」
 とグラウンドのコースを指した。
「勝つぞ」
 いつになく、強い口調で璃久が言った。
 広翔も顔を引き締め、
「おう!」
 と意気込んだ。
 アナウンスが鳴り響き、選手達が入場し、整列する。
 代表リレーは、男子は一人二百メートル、女子は百メートル走る。それを学年関係なしにチームから十三人選出する。
 そのメンバーに二人は選ばれ、広翔は最後から二番目、璃久に至ってはアンカーを任されていた。
 コースは一周が二百メートルとなっている。つまりは一人一周ということだ。
 最初に走る選手達がコースに足を踏み入れ、それぞれクラウチングスタートの姿勢をとる。
 数秒、沈黙が会場を包んだ。
 パーン
 と、第一レースの始まりを告げるピストルの音が、グラウンド全体に響き渡った。
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