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 二人が足を止めたのは、見た目築四十年ほどの木造建築の前だった。正面の青い暖簾のれんには「食堂 つじ」の文字。
 明かりが目に痛くない程度──どころか、薄暗い。お化け屋敷に入れと言われている心地になる。
 もしや店の売上のために連れてこられたのかと疑う兎に、
「見た目は結構アレですけど、中は綺麗にしていますから」
 と男は引き戸式の扉に手をかけた。
 男の朗らかな笑みに、「そもそもこんな深夜に店開けないか」と疑いはすぐに消えてなくなった。
 店内も同様に薄暗いが、月明かりが差し込み幻想的な空間となっている。食堂というよりはバーに近い雰囲気だ。
 二人席と、畳に座るタイプの四人席が二つずつ。それとカウンターに椅子が六つ並んでいる。かなりこじんまりとした店内を前に、生活が成り立っているのかが気になってしまう。
「畳に座っててください」
 と促され、兎はひょこひょこと足を引きずりながら畳に腰を下ろす。
 ちら、と踵へ目を向けるも、じわりと滲んだ赤い血に思わず顔をしかめる。
「お待たせしました」
 手に救急箱を抱えた戻ってきた青年は、膝をついて兎の足に触れた。
「ちょっ!触んなくていいです!」
 慌てて足を引っこめる兎の足首を捕らえ、
「ストッキング、伝線してますね。破いても大丈夫ですか?」
「え」
 了承を得る前に、青年は兎のストッキングの解けた部分を広げていく。
「ちょま……っ!まってまって!いきなり何するの」
 と真っ赤になった顔を逸らしながら反論を口にした兎だったが、数秒後には青い顔で悲鳴を上げていた。
「いたいいたいいたいっ!やるならもっと優しくしてくださいよ!」
 涙目になる兎に、青年は眉を下げる。
「そう言われましても、悪化しているのはあなたのせいですし」
「そうだけど!確かにそうなんだけど!」
 消毒が終わる頃には、兎は肩で息をしていた。
「はい。よく頑張りました」
 子どもをあやすような口調に、キッとまなじりを吊り上げる。
「子ども扱いしないでください!」
 青年はきょとんと目を瞬き、くすりと微笑んだ。
「子ども扱いではなく、女の子扱いです」
「いやどっちにしろ子ども扱い……!!」
 クッと眉間にしわを刻む兎に、青年は潤いを含んだ唇を半月状に曲げた。
「まあまあそう仰らず……それより、何か食べますか?ここ、一応食堂なので」
「今はちょっと……胃がもたれてるので」
 折角の申し出に断りを入れるのが心苦しい。というか食べたい。本当は食べたいのだ。だが胃がそれを拒否している。胃と心の事情が噛み合っていないから、またストレスとなっていく。
 始発の電車は何時だろうか、と腕時計を見る。

 もういっそのこと仕事を放り出してしまおうか。そしたら困るのはあの小悪魔な後輩と、同期の元カレ。……加えてお世話になった先輩と、慕ってくれる可愛い後輩たちがいるんだよな。
 前者だけならまだしも、後者が巻き込まれるのはとても心苦しい。ちょっとした復讐心でその人たちを巻き込みたくない。

 終電なだけあって、まだ夜明けまでは時間がある。
 今日は徹夜だな、とぼんやり思う。
 昨日と同じ服で会社に行ったら、変な噂が立つだろうか。もう、それすらどうでもいいな。

 投げやりな思考になり始めた時、ふわりと漂ってきた潮の香りに鼻が反応した。

 振り返ると、青年が盆に器をのせているところだった。
 何も要らないって言わなかったっけ、と兎は怪訝な顔をする。だが「ん?」と口元に手を当て、ほんの数分前の記憶を手繰る。
 「胃がもたれてる」とは言ったが何も要らないとは言ってない。でも「今はちょっと」って、普通「何も要らない」って意味になるのでは。

 悶々とする兎に、青年の笑いを含んだ声がかけられる。
「味噌汁だけなら飲めるかなって。シジミ入りなので、二日酔いにもいいですよ」
 イケメンの微笑はそれだけで薬だ、と兎は心の中で両の手を合わせて拝む。
 受け取った椀から湯気が上り、目元をじんわり温める。

 誰かの手作りなんて、いつぶりだろう。

 兎は椀を口にそっとつけ、こくりと汁を飲む。
 かすかな塩気がいい。シジミの旨みも出てて、じんわりほっこり心に染みる。シジミの味噌汁を生み出した人にこんなにも感謝したことはない。

 そんな優しい味にうっかり泣きそうになった兎は、隠すように笑顔を作って青年を振り返った。
「すごく美味しい。ありがとう」
 青年は兎を見つめ返すもすぐに視線を外し、
「……俺はすこし、席を外しますね」と立ち上がった。
 すぐに戻ってきた彼の手には、白いタオルが握られていた。タオルを兎に手渡すと、
「泣いていいんだよ」と微笑んだ。
 再び扉の奥の暗い闇へと消えていった背中が歪む。元々涙腺が弱い兎ではあったが、人前では泣かないよう己を律していた。たとえ彼氏が連絡もなく待ち合わせに来なかろうが、家族の介護と仕事の往復で疲れ果てようが、人前で弱さをさらけ出すことはなかった。
 それなのに。
「なんで、我慢できないかなぁ……っ」
 掠れた声が嗚咽に変わり、悲しい涙が月に照らされる。
 濡れたタオルに顔を埋めた兎は、暗い店内でひとり泣き続けた。
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