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第六章《三つ目の伝説とサクラ》

【六】

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 黒く重い雲が空を飛び、今にも泣き出しそうな外では、女中が慌てて干していた布を中へと運んでいる。
「……どうしたものかしら」
 紅子は重いため息を吐いた。
 弥生と春の宮がお互い紅子に干渉しないことをルールとしたため、彼女は滋宇とノアとを連れ、自室に篭もっていた。
 一種のゲームのような催しに巻き込まれた側の紅子には、どんよりと重い気分がのしかかっていた。
「しかも、滞在期間が結構長いですものね」
 紅子の髪をかしていた滋宇も苦笑する。
二ヶ月ふたつきだなんて、どうして秋桐様が首を縦にすると思えるのか……不思議でなりません」
 そう言う滋宇に、ノアは「不思議ではありませんよ」とどこか遠い目で主の髪にかんざしを挿す。その泡の入った透明な珠に、彼女の紅い髪が映る。
「太陽家の書庫だなんて、入れる機会も人も限られています。太陽家の者しか自由閲覧ができませんからね」
「詳しいのね」
 と言う紅子に、
「ご主人様からお話を伺ったことがあるのです」
 そう告げたノアは、どこか嬉しそうな、懐かしさを噛み締めているかのような表情で鏡に映っている。
「そう。ではやはり行った方が収穫はありそうと考えて良さそうね」
「ですが、囲われたら終わりです。死んだら収穫もなにもありません」
 滋宇はツンとそっぽ向く。
「滋宇。私は別に弱くない。そう簡単に死にはしないよ。それに……春の宮様は、きっと信頼して大丈夫だと思うよ」
「たとえ春の宮様にその気がなくても、春の宮様のご両親方がどう思っているかはわかりません。事故と装いあなたを殺すことなんて容易たやすいことだと思いますよ」
 胸の前できつく拳を握る滋宇は、
「ノアからも言ってやってよ。危険だって、反対だって」
 とノアの背に向かって言う。
 眉を中央に寄せる彼女の目はかすかに潤んでいる。それほどまでに紅子のことを思っているのだと、誰の目にも明らかだ。
 ノアは「そうですね」と呟き、視線を床に落とす。
 ややあった顔を上げた彼女は、鏡の中で紅子と目を合わせる。

「──私は、お行きになられた方が若奥様らしいかと」

 予想だにしなかったノアの言葉に、二人は目を丸くする。
「ちょっとちょっと!そこは止める流れじゃないの?ていうか、いつもはあなたが制止する役じゃない!」
 困惑をあらわにする滋宇に、ノアは静かな瞳を返す。そんな彼女に対し、滋宇は言いかけた言葉を渋々喉の奥に仕舞った。
「……この機会を蹴れば確実に太陽家との折り合いは悪くなり、この先様々な圧力がかかることでしょう。そうなると若奥様はご自分を責めてしまわれるように思えました。たとえご主人様がどう言おうと、きっと後悔なさると私は思います」
 普段彼女の無鉄砲な行動に対して口を挟んでいた仕人。そんな彼女に押されたものだからか、不思議と背筋が伸びて心が決まるというものだ。
「決まりね。……でもノア、押したからには貴方にも付いてきてもらいますよ」
 立ち上がった彼女の凛とした佇まいに、二人は腰を同時に折った。

「「若奥様の御心のままに」」

 二人の背を見つめながら、紅子は独り寂しげに口角を上げる。
 だがすぐさま頬を軽く叩き、鋭利な光を灯した目を顔を上げた二人に向けた。
「さて、そうと決まれば報告に行かなければなりませんね。滋宇、付いてきてくれる?」
「はい」
「行ってらっしゃいませ」
 と礼をしたノアを部屋に残し、扉は閉められた。

 館に差し込む暮れ時の陽は、不吉なことを思わせるほどに赤い。

──何事も起こらなければ良いのだけど。

 そう願う紅子は、主人の部屋へと繋がる長い廊下を渡っていった。


***


 星がすっかり雲に覆われ、深い闇が広がる外の景色。そんな闇を窓から眺めていた弥生は、酒の注がれたグラスを傾ける。
「……結局、許可されたんですね」
 と苦笑するクロに、主は「ええ」と何度目かの溜息を吐く。
「決意を固めた人に対して何かを言うのは野暮というものです。彼女なりに一日、ずっと考えていたようですしね」
 グラスの中で揺れる澄んだ茶色の液体を見つめながら、弥生は「クロ」と名を呼んだ。
 従者は「はい」と応える。
「彼女の護衛に回ってください」
「それは命令でしょうか」
 間髪入れずに問うたクロに、弥生はわずかに目を見張る。
 灯りがジジ、と音を立てる。その火を瞳に灯した弥生は、まっすぐ従者と向き合った。
「命令でなくては動いてくれませんか」
 主の冗談一つ感じさせない真剣な面持ちに、クロは無言で片膝をつく。そして胸の前に利き手を置き、うやうやしくこうべを垂れ「いいえ。拝命します」と一言だけ述べるなり部屋を去った。

 彼の居なくなった場所をしばし見つめていた弥生は、おもむろに透明なグラスを灯りにかざす。

「……動きたいと思える人材になれと仰ったのは、貴方ですよ」

 誰にも聞こえないその呟きは、深い夜に溶けて消えていった。
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