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第四章《秘められた涙と潜む影》

【十】

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 水無月。

 そう優しく私の名を呼ぶ声が好きやった。

 映像が、空気が、紅子の脳裏に鮮明に広がっていく。
 とても優しい記憶。貧しくも、心温まる水無月かのじょの記憶。
 水無月の目には、いつだって葉月の姿があった。紅子の前で見せたあの鬼気迫る顔ではなく、少年らしい、可愛らしい笑顔。
 水無月の死が、彼を変えてしまった。
 そのことに、水無月はとても悲しんだ。
 彼女はいつだって、彼が前に進むことを望んでいた。けれど葉月は、彼女を甦らせることに執着して離れなかった。

 けれど。

 ブツリと映像が途切れる。
 真っ暗な空間の中、紅子の頬に冷たい何かが触れた。

 けれどあなたたちが、彼とわたしを解放してくれた。

 わたしは、彼と同じところにはいけん。さっきの光が、わたしのを消してしまったから。せやけど、彼の泣く姿をもう見れんくなるのは救いかもしれん。

──わたしの声が聞こえるんやったら……。


「……さん…………紅子さん」
 呼ばれるままに、紅子はうっすらと目を開いた。
「大丈夫ですか」
 頬に土ぼこりをつけた弥生が、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「だい、じょぶです」
──名前、初めて呼ばれたかも。
 と、関係ないことが頭にぼんやりと浮かぶ。
 軽く呻きながら、紅子はゆっくりと上体を起こし、視線をさまよわせ、周囲の状況を確認する。
「洞窟は、少女は、どうなったのです」
 紅子の問いに、弥生は気まずそうに視線を逸らし眉を曇らせた。
「先程の得体の知れない発光が原因かはまだ何とも言えませんが……洞窟は、崩れました」
 弥生の報告に紅子は息を呑む。そう簡単に倒壊するほど、あの洞窟は小さくも脆くもないように思えたのだが。それほどまでに激しい衝撃を与えられたということだろうか。
 弥生の苦い顔からして、少女はおそらく助からなかったのだろう。元が死人とはいえ、良い気はしない。
「あの、レン……さっきの女性は?」
「わかりません。洞窟に残されているのだとすれば、おそらく潰れていると思いますが……あの人が、そう簡単に潰されるほど弱くも思えません。きっと、生きています」
 その言葉に紅子は胸を撫で下ろす。敵とはいえ、一度言葉を交わした。それに紅子からしたら、死んでほしいと願うほど悪いことをする人間とは思えなかった。
──実際は、躊躇なく子どもを……人を、殺したのだけど。
 その時のことを思い出すと、恐怖と拒否感で気持ちが悪くなる。
「貴方はまだ病み上がりです。連れてきて巻き込んだのは私の落ち度です。まさかここまでの事態に至るとは……いえ、予測できなかった私の責任です。本当に申し訳ありませんでした。休息を充分とる必要があります。宿に向かいましょう」
 弥生の促しに、紅子は大人しくうなずく。
 立ち上がろうとした紅子は動きをとめ、
「……なにか聞こえる」
 と呟いた。
 もつれる足を前に踏み出した。
 声のする方へと歩いて行った紅子だったが、崩れた洞窟の前で声を失った。
 すぐ後ろで、弥生も口元に手を当てて唸った。
「これは……どういう、ことでしょう」
 洞窟の入口には、死んだはずの、胴と首が切り離されたはずの葉月が、浅い呼吸を繰り返していたのだ。
「……まさか」
 まさか水無月にも能力があったのか。
 死してなお、その力は使えてしまうのだろうか。そうだとしたら、水無月のように生き返ったものたちの中に能力者がいたら。そしてそれが、敵となったら。
 恐ろしい想像に、紅子はその場に足を縫われたように足が動かなくなる。
「とりあえず、少年を運びましょう。生き返った……というのなら、情報提供に事欠きません」
 弥生は眉間のシワを深くしながらも、葉月の首下に手を伸ばす。
「紅子さんは前から少年を支えてください」
「え、私たち二人を運ぶのですか?」
 声を高くする紅子に、弥生は「はい」と何がおかしいのかわからない、というようにうなずいた。
 たしかに彼は鍛えているのやもしれない。しかし、負担でないわけがない。紅子は首を振り、一歩退き言明した。
「歩けます。大丈夫です。秋桐様はこの子を運んでください」



***


 事のあらましを聞いた村長と役人は、信じられない、と頭を抱えた。
「死んだ人間が蘇るだって?そんなことあるなら、世の中死者だらけだよ」
 役人はそう言い捨て宅を出た。残された弥生、紅子とその供の前で、村長は頭を垂れた。
「御無礼、どうかお許しください。あやつはまだ若かったうちに嫁を亡くしてる。この村で唯一の薬師だった嫁を。あやつは今でも、その傷が癒えないでいるんです」
 村長は目に力を込め、堪えるように俯いた。
「いえ、別に信じて下さらなくて構わないのですけど」
 と弥生はあっさり言い放つ。身も蓋もない弥生の言葉に村長は戸惑ったようで、数回瞬きを繰り返した。
「この少年と殺された少女に、どこか不思議な力があったかどうかを知りたいのです」
 弥生の問に、村長は静かに首を振った。
「そんな素振りはなかった。なんの力もない、ただの子どもたちだったよ。……今は、わからんが」
 真剣な瞳の奥に、焦燥と苦渋の色が見え隠れする。彼の行く末を、案じているのだろう。村長は優しく葉月の頭を撫でた。
──だとすれば、あの能力は後天的なもの?
 紅子は自身の疑問にモヤがかかるのを感じた。後天的なものかどうかは証明のしようがない。だがもし、自然と現れた力でなかったとしたら。それはに行われたことになる。
「……みな、づ……っ」
 床に横たわったまま呻いたかと思うと、少年は目をカッと見開いた。
「水無月ッ」
 今はもう居ない少女の名を、彼は寝起きざまに呼んだ。しかし当然、彼女からの返事はない。
「水無月……どうして」
 青い顔を隠すように、葉月は両の手を額にあてた。
「どうして連れて行ってくれないんだ……君と一緒にいれるのなら、たとえ……たとえそれが地獄だろうとなんだろうと構わないのに」
 と葉月は声を押し殺して涙を流す。
「……能力を使ったのは少女の方だったようですね」
 弥生の冷静な声色が、冷たい空気に満ちた室内に静かに響く。だがそんな声は届いていない様子で、少年は独り言をぼやき続ける。
「僕も……死にたいよ……」
 少年の口から発せられた言葉に、紅子は拳を握りしめた。
「甘えるんじゃない!」
 突然の怒号に、そこにいた誰もが息を呑んだ。
 燃えるような紅い髪が逆立ち、目が獅子の如く獰猛な光を放っている。
「死にたい?水無月さんがどんな思いであなたに命を与えたかも知らないで、よくそんなこと口にできますね」
 紅子の怒気に触発されたように、葉月の顔が歪んでいく。震える手を畳に振り下ろし、
「うるさいっ!一人残された僕の気持ちなんてわかないくせに!勝手なこというなよ!お前にはいるだろう!?大切な人がまだ残ってるんだろう!?僕には……僕にはもう……!」
「……ざけるな」
 紅子ではない別の声が、葉月の声にかぶさった。
 声の主は大股で葉月の前に姿を表し、思い切り胸ぐらを掴んだ。
「……っ陽時厘!」
 止めようと手を伸ばした紅子の腕を、ノアに掴まれる。ノアは無言で首を振った。
「お紅さんがどんな人生歩んできてるかなんて、お前だって知らないくせに!自分だけ被害者か!?言っとくがお前、被害者の前に加害者だからな!お前が関係なかったお紅さんを危険に晒したこと、忘れてんじゃないよ……!」
 陽時厘の剣幕に、葉月は声を詰まらせた。美少年の怒りというのは、誰の心にも毒なようだ。
「陽時厘、その辺にしておきなさい」
 紅子が諌めると、陽時厘は眉を吊り上げたまま、葉月を突き飛ばすようにして手を離した。
 解放された葉月は、喉をおさえながらむせている。
「水無月さんは、あなたから優しく名を呼ばれるのが好きだと言っていた。あなたの笑顔が一番好きなんだと。そしてあなたが水無月さんに執着してるのを悲しんでもいた。自分のせいで前を向けないのだと。彼女は自分でよく分かってた。一度死んだ人間に、はないのだということを。あなたよりよくわかってた。だからあなたの魂が体を出てしまう前に、あなたをこの世に繋ぎとめた」
 葉月は耳を塞いで縮こまった。拒絶の姿勢に、紅子は歩み寄り葉月の手に触れる。
「水無月さんは、ただあなたに生き残ってほしかったんじゃない。あなたが再び前を向いて歩くことを、また以前のように笑って生きていくことを望んだの」
 と紅子は悟す。
 しかし葉月は、そんな彼女の手を払い除け睨みつけた。
「お前がいつ水無月に会ったんだよ!知りもしないくせに、そんなお涙頂戴の御託並べたって腹立つだけなんだよ!」
 と怒鳴り散らす。
 目を真っ赤にする葉月から目を逸らさず、紅子は「たしかにそうね」と静かに言葉を紡ぐ。
「別に信じなくて結構よ。あなたが水無月さんの言葉じゃないと言うのなら、きっとそうなんでしょうから。私の妄想だったのかもしれない。だって私は生身の彼女に会ったことがないのですから」
 一切揺るがない姿勢に、葉月は何か言いたげに口を開くも、唇を噛み締めてうなだれた。
 両目から小さな粒が溢れては畳を濡らしていく。
 そんな少年の嗚咽が、静かな村の空気に溶けては消えていった。しかしその場に居なかったものたちは、だれもその声を聞いてはいないという。
 後日その話を聞いた近隣住民が、まるで誰かがその声を隠したようだと呟いた。
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