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第四章《秘められた涙と潜む影》

【三】

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 翌日、紅子は重い体を起こして赤い着物に袖を通す。以前着た明るい赤ではなく、品の良い暗い赤が基調となっている。
「こちらはかつて『海老色』、現在は『深紅』と呼ばれるお色です。平安期ではお姫様方のような高貴なお方しか着ることが許されないお色だったのですよ。若奥様の艶やかな髪に良くお似合いの色かと」
 と、例の女従業員が薦めてきたものだった。
 実際その渋くも品のある色は、紅子のあかい髪にしっくりと馴染む。
 その生地に、鳥や芍薬しゃくやくが豪華絢爛に刺繍されたものが弥生から贈られた。
「染め上げからお作りします方は、半年ほどお時間頂きますわ」
 と彼女は言った。
 半年、という期間に、紅子は気が遠くなったのだが、弥生は聞き慣れているのか「ええ、頼みます」と微笑んだだけだった。


 結局、昨夜は弥生がなかなか部屋から出て行かなかったため紅子はあまり気を休めることができなかった。しかし、それを不満には思わなかった。むしろ居心地の良さを感じた。
 そんな感情に、紅子はひとり苦笑する。
──仮面夫婦なのに。
 惹かれていってる。彼の不思議な空気と、優しさに。
 単純な心にため息をつく。
「どうか、なさいました?」
 浮かない顔の紅子に、着付けを手伝っていたノアが眉をひそめる。
「ああ、いえ……私には勿体ないな、と」
 目を伏せながら紅子は言う。
「まだそんな事を……良くお似合いです。勿体ないなんてことはございません。秋桐家の若奥様なのですから、当然ですわ」
 帯をぐっと締めながら、ノアはゆっくり立ち上がる。
 自身の着物も軽く直し、ドアを開いて紅子を促す。
「さ、参りましょう。今日はご主人様とお出かけになられるのでしょう?朝食をしっかり召し上がって体力を少しでも取り戻さないとですよ」


 朝餉あさげは前日と同じようなメニューだった。胃に優しい粥と、今日は人参と茄子が入った味噌汁が用意されていた。少し歯ごたえのある人参は甘く、味噌とよく合う。
「やはりその着物はあなたによくお似合いですね。とてもお綺麗です」
 さらりと褒められ、耐性の無い紅子は頬を真っ赤に染める。
「あ、ありがとうございます……」
 ちびちびと匙で粥を口に運ぶ彼女に、
「今日は少し歩きますが、辛くなったら何時いつでも声をかけてくださいね。隠そうとはしないでほしいです」
 と、弥生は言う。
 彼の表情は、いつも通り胡散臭い。
 そんな表の柔らかい表情に、焦げるような痛みが胸に走る。
──昨晩のことが、嘘みたい。
 ほんの少しだけ、彼の素を垣間見た気がした。空気が変わっていくのを感じた。
 だが、それは気のせいだったようだ。

 粥が、上手く喉を通らなかった。



***



 歩くとは言っていたが、そもそもの場所が遠いらしく、結局途中まで馬車を使うことになった。
 どこに向かっているのか。
 お世話になった人とは誰なのか。なぜ紅子に会いたがっているのか。
 心当たりがないことばかりで不安になる。
「今日お連れするのは、芝神社です」
「シバ神社?」
「そちらの神主に、今回助力頂いたのでお礼を……それと、神主があなたに会いたいそうなので」
「私に……」
 名前も聞いたことの無い神社の神主が、なぜ。
 疑問を顔に出す紅子に、
「申し訳ないですが、私も事情を知らないのです」
 と弥生は眉を下げる。
「そろそろですね」
 と弥生は窓の外に目を向ける。
 馬車に揺られること約三時間。ようやく着いたその場所は、緑に満ちた参道前だった。
 馬車から降り、軽く上半身を反らす。
 冷たく瑞々みずみずしい空気が、心地よい。
「空気が澄んでいますね。心地よいです」
 と紅子が微笑むと、弥生も柔らかい微笑を返した。
「ここからは歩きます。病み上がりなのですから、無理はなさらないでくださいね」
 弥生の言葉に小さく頷き、二人はゆっくりと参道へ足を踏み入れた。


「少し、休みましょう」
 と、弥生が声をかけた。
 紅子の顔色が悪くなりはじめたのだ。
 だんだん歩くペースも落ち、呼吸も乱れている。
 まだ歩き始めて時間は経っていないが、三日間も眠っていた彼女に、山歩きするほどの体力はなかった。
 横に転がされている丸太に布を敷き、二人は腰を下ろす。
「やはりもう少し時間を置いてからの方が良かったですね」
 すみません、と弥生は眉を下げた。
 紅子は「とんでもございません!」と弥生を振り返る。
「秋桐様は悪くありません!私が悪いのです」
 体力の無い私が。
 無力な私が。
 原因は全て私にある。

──全部お前が……。

 手に力が込められ、細い骨が表皮に向かって押し出される。

 微かに震えるその手に、ぬくもりのある手が上から重ねられる。
 弥生の両手が、紅子の小さな手を優しく包み込む。
「以前、言いましたでしょう。あなたは悪くないと」
 でも、と否定の言葉が喉までせりあげてくる。
「……ああ、間違えました」
 手を重ねたまま、弥生は目を細める。
「貴方が体調不良のことを言ってくれなかったことも悪いですし、それを見抜けなかった私も悪いです」
 紅子の目が見開かれる。
「だから、今回はおあいこですね」
 心臓が、甘い音をたてた。
 慌てて視線を逸らし、「は、はい」と相槌を打つ。
「そろそろ行きましょうか。立てますか?」
 と、先に腰を上げた弥生から手を差し伸べられる。
 そっと、その手に手をかけた時。

「「ようこそおいでくださいました」」

 すぐ右横から、揃った声が発せられた。
 その拍子に、紅子は反射的に手を引っ込める。
「こんにちは。先日はお世話になりました」
 と、弥生も手を下ろした。
「いえいえ」
「お仕事お疲れ様でございました」
 声の主二人は、見分けがつかないほどそっくりな笑みを向ける。
「え、と」
 素性のわからない二人と親しそうな弥生に、紅子は困惑の視線を向ける。
「ああ、彼女たちはこの神社の覡です」
 弥生が紹介すると、
「「はじめまして。赤の姫様」」
 覡の双子は袖口をつまみながら、九十度腰を曲げた。

──赤の姫様……?そういえば拐われた基地でも、紅姫なんて言われたっけ。

 脳に引っかかる言葉に、紅子は眉をひそめる。
 だが目の前の光景に思考が途切れた。
「やだ、頭を上げてください!」
 紅子が慌てて腰を上げると、双子はゆっくりと姿勢を正した。
「申し遅れました。覡のユラと申します」
「同じく覡の、ユリと申します」
 真っ黒な髪を肩の高さに切り揃えた彼女たちは、日本人形のように整った容姿をしている。
 よく覗くと、ユラの瞳は青藍せいらんの色味を帯び、ユリの瞳は葡萄茶えびちゃの色味を帯びている。
「以前ご案内した道は、正式な参道です」
「ですが今回、若奥方様の体調を考慮して、裏道からご案内させていただきます」
「こちらの方が近いのです」
 参道とは逆の、獣道のような細い道を二人は指す。

「「それでは、参りましょう」」

 社が近いからだろうか。まだ昼下がりだというのに提灯を持つ双子は、どこか近寄り難い空気を醸し出していた。
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