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5. 上辺の関係
名前
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「あれは、成功……ですかね」
チェロをケースに仕舞いながら、若騎士はこそっと傍らで主を見つめるメイドに尋ねる。
「まだわかりませんが、失敗ではないでしょう」
と言いつつも胸を撫で下ろす気配はない。
「けどまさか、『名前を呼ぶ』だけで空気が変わるとは思わなかったです」
メイドがハウィル夫人にした「お願い」は、「オルガ嬢の名を呼んでほしい」。それだけだった。
「それだけのことが、あの親子はできていなかった。名前は、もうひとりの自分です。名前があるから何者かわかる。名を呼ばれて始めて、そこに居ると認めてもらえた──と、私ならそのように思うので」
「……名前って大事ですね」
「そうですね」
さっと緑を揺らすやわらかな風がメイドの黒髪を撫でた。碧の瞳がラヴィールを映すことはなく、ただ主を見守っている。風に舞う髪を耳にかけるメイドの横顔に、
「ソッフィオーニ」
若騎士の声にメイドは視線だけを向ける。
「──さんって、名前の由来はもしかして野に咲く黄色の花ですか」
若騎士は誤魔化すように早口で疑問に続けた。ソッフィオーニは「ふっ」とほんのかすかにだが声を漏らして笑った。冷たく微笑むときよりも目が細くなっているのに、まったく冷たいと感じない。それどころか可愛らしく見えるのだから不思議だ。
「よくわかりましたね。言葉が違うのに」
「それは、令嬢が、以前名前が一緒だと仰ってたので」
「ああ なるほど。頭の回転が早いうえに記憶力も良いのですね」
褒められた若騎士は「いや、そんな」と謙遜を口にしながらも口角が弛んでいる。
「なら、私が魔女の一族だという話も覚えておいでですよね」
静かな声色に、ラヴィールから笑いが消える。木陰にいるせいもあるのか、ひやりとした空気に肌が粟立つ。
「どうして森を出て生活しているのか、どうしてお嬢様に仕えているのか、お聞きしたいことは山ほどあることでしょうに──あなたはなにも聞かなかったし、私の素性を調べようともしなかった」
それは、と口ごもる若騎士に、
「ありがとうございます」
と丁寧な礼をした。唐突な行動にラヴィールは目を見開く。
「どなたにも口外していないことを含め、お礼申し上げます」
「いや、そんな礼を言われるほどのことでは」
「いいえ」
顔を上げたメイドの凛とした声に遮られる。ひどく真剣な表情に、ラヴィールは生唾を呑んだ。
「あなたは私のことを言いふらしたりしていません。ですが、なぜか隣国では魔女が嫁いでくると騒がれているそうです」
「え、と……申し上げにくいのですが、別の魔女、ということは」
「万が一にも有り得ません」
断言するメイドに、ラヴィールは怪訝な表情を浮かべながら「なぜです」と疑問をそのままぶつけた。
メイドはわずかの間口を開かず、直立のまま動かなかった。長い睫毛を伏せるようにひとつ瞬きをした後、
「この辺り一帯、私ともうひとり以外の魔女は全員焼き殺されております」
と単調な声で告げた。いや、なんでもない、過去のことだから気にしていないとでもいうような態度をあえてしているように見えた。
「言わせてしまって申し訳ありません」
「ラヴィール殿が謝る必要はありません。ただの事実ですから」
「いえ、……ただの事実が、だれかにとっては大きな傷になり得ることは、わかっているつもりなので」
メイドは「ええ」と短く肯定し、
「けれど本当にもう終わったことですから、どうかお気になさらず」
そんなことはないだろう、と反論しようとしたラヴィールは声が出せなくなった。年上である彼女のひどく静かな微笑みに、言葉が喉の奥で絶えたのだ。諦めのような微笑み方は、「意を決した」人間のそれだった。
「さて本題に戻りますが」
無理に話を戻されてしまった。この話はもうおしまい、と締められてしまった。モヤモヤとしたものが腹の下の方に溜まっているものの、蒸し返すほどの豪胆は持ち合わせていなかったラヴィールは渋々口を噤む。
「なぜ隣国の婚約者が魔女とされているのか、これは早急に調べる必要があります──が、噂の出処にひとつ、心当たりがございます」
「え、それは」
「まだ私の口からはなにも。確信も証拠もありませんから。ですが魔女の噂が出ている以上、最悪の未来に近づいてしまっているということ、その来る時期が早まっていること……これらは共有の必要があると思い、連絡致しました」
ちら、とメイドは令嬢のほうを気にかけ始めた。本格的におしゃべりの時間は終わりらしい。
「あのっ まだあの王子と文通繋がってるんで、オレ──じゃなくて私からも探ってみます」
なにかすこしでも、役に立ちたい。この人が寂しく、悲しく笑うようなことはさせたくない。諦めたような顔をさせたくない。楽しさに目を細めて笑う顔をもっと見たい。
そんな感情がまた膨れ上がってきてることに気づき、ラヴィールはそっと感情が溢れる部分を閉ざした。
ラヴィールを横目に、メイドはさくっと背の低い草を踏み前へ出る。
「子どもが危ない橋を渡る必要はありませんよ」
と背を向けながら言うメイドはわずかに振り返り、
「ラビ、あなただってもう、アランジュ家の大事な一員なのですから」
と告げ、歩みを止めることなく令嬢の元へ歩いていった。
自分より背のある後ろ姿を目に焼きつけながら、
「…………ほんとなんなんだよあのメイド」とつぶやく。
真っ赤な陽が芝生に注がれる夕暮れに、ラヴィールの頬が照らされていた。
チェロをケースに仕舞いながら、若騎士はこそっと傍らで主を見つめるメイドに尋ねる。
「まだわかりませんが、失敗ではないでしょう」
と言いつつも胸を撫で下ろす気配はない。
「けどまさか、『名前を呼ぶ』だけで空気が変わるとは思わなかったです」
メイドがハウィル夫人にした「お願い」は、「オルガ嬢の名を呼んでほしい」。それだけだった。
「それだけのことが、あの親子はできていなかった。名前は、もうひとりの自分です。名前があるから何者かわかる。名を呼ばれて始めて、そこに居ると認めてもらえた──と、私ならそのように思うので」
「……名前って大事ですね」
「そうですね」
さっと緑を揺らすやわらかな風がメイドの黒髪を撫でた。碧の瞳がラヴィールを映すことはなく、ただ主を見守っている。風に舞う髪を耳にかけるメイドの横顔に、
「ソッフィオーニ」
若騎士の声にメイドは視線だけを向ける。
「──さんって、名前の由来はもしかして野に咲く黄色の花ですか」
若騎士は誤魔化すように早口で疑問に続けた。ソッフィオーニは「ふっ」とほんのかすかにだが声を漏らして笑った。冷たく微笑むときよりも目が細くなっているのに、まったく冷たいと感じない。それどころか可愛らしく見えるのだから不思議だ。
「よくわかりましたね。言葉が違うのに」
「それは、令嬢が、以前名前が一緒だと仰ってたので」
「ああ なるほど。頭の回転が早いうえに記憶力も良いのですね」
褒められた若騎士は「いや、そんな」と謙遜を口にしながらも口角が弛んでいる。
「なら、私が魔女の一族だという話も覚えておいでですよね」
静かな声色に、ラヴィールから笑いが消える。木陰にいるせいもあるのか、ひやりとした空気に肌が粟立つ。
「どうして森を出て生活しているのか、どうしてお嬢様に仕えているのか、お聞きしたいことは山ほどあることでしょうに──あなたはなにも聞かなかったし、私の素性を調べようともしなかった」
それは、と口ごもる若騎士に、
「ありがとうございます」
と丁寧な礼をした。唐突な行動にラヴィールは目を見開く。
「どなたにも口外していないことを含め、お礼申し上げます」
「いや、そんな礼を言われるほどのことでは」
「いいえ」
顔を上げたメイドの凛とした声に遮られる。ひどく真剣な表情に、ラヴィールは生唾を呑んだ。
「あなたは私のことを言いふらしたりしていません。ですが、なぜか隣国では魔女が嫁いでくると騒がれているそうです」
「え、と……申し上げにくいのですが、別の魔女、ということは」
「万が一にも有り得ません」
断言するメイドに、ラヴィールは怪訝な表情を浮かべながら「なぜです」と疑問をそのままぶつけた。
メイドはわずかの間口を開かず、直立のまま動かなかった。長い睫毛を伏せるようにひとつ瞬きをした後、
「この辺り一帯、私ともうひとり以外の魔女は全員焼き殺されております」
と単調な声で告げた。いや、なんでもない、過去のことだから気にしていないとでもいうような態度をあえてしているように見えた。
「言わせてしまって申し訳ありません」
「ラヴィール殿が謝る必要はありません。ただの事実ですから」
「いえ、……ただの事実が、だれかにとっては大きな傷になり得ることは、わかっているつもりなので」
メイドは「ええ」と短く肯定し、
「けれど本当にもう終わったことですから、どうかお気になさらず」
そんなことはないだろう、と反論しようとしたラヴィールは声が出せなくなった。年上である彼女のひどく静かな微笑みに、言葉が喉の奥で絶えたのだ。諦めのような微笑み方は、「意を決した」人間のそれだった。
「さて本題に戻りますが」
無理に話を戻されてしまった。この話はもうおしまい、と締められてしまった。モヤモヤとしたものが腹の下の方に溜まっているものの、蒸し返すほどの豪胆は持ち合わせていなかったラヴィールは渋々口を噤む。
「なぜ隣国の婚約者が魔女とされているのか、これは早急に調べる必要があります──が、噂の出処にひとつ、心当たりがございます」
「え、それは」
「まだ私の口からはなにも。確信も証拠もありませんから。ですが魔女の噂が出ている以上、最悪の未来に近づいてしまっているということ、その来る時期が早まっていること……これらは共有の必要があると思い、連絡致しました」
ちら、とメイドは令嬢のほうを気にかけ始めた。本格的におしゃべりの時間は終わりらしい。
「あのっ まだあの王子と文通繋がってるんで、オレ──じゃなくて私からも探ってみます」
なにかすこしでも、役に立ちたい。この人が寂しく、悲しく笑うようなことはさせたくない。諦めたような顔をさせたくない。楽しさに目を細めて笑う顔をもっと見たい。
そんな感情がまた膨れ上がってきてることに気づき、ラヴィールはそっと感情が溢れる部分を閉ざした。
ラヴィールを横目に、メイドはさくっと背の低い草を踏み前へ出る。
「子どもが危ない橋を渡る必要はありませんよ」
と背を向けながら言うメイドはわずかに振り返り、
「ラビ、あなただってもう、アランジュ家の大事な一員なのですから」
と告げ、歩みを止めることなく令嬢の元へ歩いていった。
自分より背のある後ろ姿を目に焼きつけながら、
「…………ほんとなんなんだよあのメイド」とつぶやく。
真っ赤な陽が芝生に注がれる夕暮れに、ラヴィールの頬が照らされていた。
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