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第二十章 大司教を追って
1-2 エウロペ山中は過酷ですわ~中編~
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降りしきる雨でぬかるんだ地面に足を取られつつ、アリツェたちは道なき道を歩いていた。街道から外れて二時間、雨脚はいまだ、弱まる気配を見せていない。
街道から外れたところで、すでに騎馬は放っている。これ以上奥地までは、馬を連れていけないとの判断だ。かえって足手まといになる。
こういった際、精霊使いの『精霊言語』と『精霊感応』は非常に役立つ。言葉を交わさずとも、動物とある程度の意思疎通が図れるため、馬番を用意しなくとも済んだ。連れてきた四頭の馬は、連れ立ってジュリヌの村へと戻っていった。
アリツェとクリスティーナは、跳ねあげられた泥がつかないようにとドレスの裾をたくし上げ、ひもで縛っていた。そのおかげで、余計に歩きにくい。遅れがちになる様子を、ドミニクが心配げに見つめていた。
アリツェは「大丈夫ですわっ!」と気丈に振舞ったが、まだまだ続く泥濘に、心が折れかけていた。雨除けの外套の隙間から漏れてくる水に、顔をしかめる。すでに上半身は、雨水と汗とでびしょぬれになり、肌にべっとりとまとわりついていた。雨除けの外套は通気性が悪いため、熱気が内側に籠り、さらなる発汗を促している。沸き起こる不快感が、より一層、アリツェの気力をそいでいった。
精霊術で空を飛ぶことも考えた。だが、これから山中で何があるかがわからないため、むやみに霊素を消費するべきではないとのラディムの意見で、泣く泣くあきらめた。アリツェは祈るように、ゴールはまだか、ゴールはまだかと心中で唱え続けながら、ひたすらに歩を進めた。
さらに二時間の苦行を経て、ようやくエウロペ山脈の麓についた。そのころには、恨めしい雨も上がり、わずかに日が差し込み始めていた。
「ようやく……着いたわね……!」
荒い息をつきながら、クリスティーナは前方をにらみつけた。
アリツェも膝に手を突きながら、乱れた呼吸を整えなおす。ゆっくりと顔を上げれば、眼前には圧倒的な貫録を纏ったエウロペ山脈が鎮座している。
「こうして間近で見ると、本当に険しい山ですわ」
想像以上に急峻な山々が、アリツェたちの侵入を拒むかのように冷たく見降ろしてきた。
「山頂を見てごらん。もう、うっすらと雪化粧が」
ドミニクはアリツェの横に立つと、ゆっくりと山頂を指さした。
ドミニクの動きに促されて、アリツェは山頂を仰ぎ見た。頂は真白に染められている。
「参ったな……。想定よりも早く、本格的な冬がやってきそうだ」
ラディムは腕を組み、頭を振りながらぼそりと呟いた。
どうやら、ラディムが木こりたちから聞いていた情報よりも早く、山頂が冠雪しているようだ。あまりうれしい情報ではない。タイムリミットがより短くなったことを意味するからだ。
「こうして山の現状を確認した今、より一層、方針がはっきりした感じね。山頂ルートはなさそう」
「そうですわね……。山越えにはもう、厳しい季節に差し掛かっておりますわ」
クリスティーナの言葉に、アリツェはうなずいた。
さすがに、雪が降り始めた今、大司教一派が山頂を通過しようとしているとは考え難い。
「では、道中での打ち合わせどおり、山間のくぼ地を重点的に探そう」
ラディムはアリツェたちにぐるりと視線を向け、今後の方針を指示した。
「まずは、大司教たちの痕跡がないか、周辺を探るところから開始かな? 沢筋が怪しいんだっけ?」
ドミニクが問いかけると、ラディムは首肯した。
ラディムは改めて懐から地図を取り出し、周辺の地形について説明し始めた。もっとも怪しいと思われる沢筋とその周辺については、特に念入りに詳細を確認する。
その後、周辺で地盤のしっかりした場所を選び、簡単なベースキャンプを設置した。周囲の探索後に、一度このキャンプへ戻り、一夜を明かす。英気を養ったところで、翌日から本格的に山へと分け入る予定だ。
アリツェはドミニクとペス、ルゥを連れて、ラディムが指し示していた沢筋のあたりへとやって来た。
周囲がうっそうとした木々におおわれている中、件の沢筋のところだけ、わずかに獣道らしきものができている。
「山の奥へ侵入するには、この辺りが最適なんですよね?」
アリツェはドミニクに顔を向け、確認した。
「地図上では、そんなかんじだったね」
ドミニクは顎に手を当てながら、こくりとうなずいた。
「うーん、ここ最近に人が分け入ったような痕跡は、どうやらなさそうですわ」
簡単に調べてみたが、人間のものらしき足跡は見受けられなかった。それなりの人数で行動していたのなら、ある程度はっきりとした痕跡が残りそうなものだが……。
上空を旋回しているルゥからも、今のところは何の報告もない。
『ご主人! 怪しい場所を見つけたワンッ!』
とその時、ペスから念話が飛び込んできた。ペスには、その優れた嗅覚を生かして探ってもらっている。どうやら、何かを見つけたらしい。
『お手柄ですわ、ペス! すぐに向かいます!』
念話でペスを労うと、アリツェはドミニクの手を引き、ペスから報告のあった場所へと移動した。
ルゥにも一度降下の指示を出す。すぐさまルゥは高度を下げ、移動中のアリツェの肩にちょこんと乗った。
件の沢筋からさらに東側へ進んだところに、ペスは身体を臥せって待っていた。アリツェが姿を現すや、飛び上がって駆け寄ってくる。
アリツェはしゃがみこみ、優しくペスの頭を撫でながら、ペスの背後にある藪に目を遣った。
藪の周辺は不自然に踏み固められており、その中心には人一人が通れそうなほどの隙間ができていた。ここから何者かが山中に侵入したと、ペスはそう告げる。
改めて目を凝らして見てみると、どうやら、件の沢筋の支流のようで、このまま登っていけば、先ほどの沢の本流と合流しそうな気配だ。
ここで間違いないだろうとアリツェは確信したので、ルゥに指示を出し、ラディムとクリスティーナを呼びにやった。
しばらくペスと戯れつつ待っていると、ラディムとクリスティーナがやって来た。
アリツェは立ち上がり、背後の藪を指さした。
「ここか……」
ラディムはつぶやき、藪の傍へ近寄った。
「確かに、多数の人間が通ったのは間違いなさそうね。周囲もかなり、荒れているわ」
クリスティーナも後に続き、きょろきょろとあたりを調べている。
「僅かに人間のにおいも残っていると、ペスが言っておりますわ」
アリツェは補足情報として、ペスからの報告事項を付け加えた。
「では、ここで間違いがなさそうだな」
ラディムは納得したのか、首を縦に振った。クリスティーナからも、異存の声は上がらなかった。
「皆の考えが一致したようだね。一晩休んで、明朝からこの獣道らしきところを、奥へ奥へと進んで行こうか」
ドミニクの提案に、全員が首肯した。いよいよ明日からは本格的な登山だ。この先に、果たしてアリツェたちの望むものが待っているのであろうか。
しばらく立ち尽くし、眼前の獣道を注視した。胸をよぎる一抹の不安は、いまだに晴れない。順調にいくとは思えない先行きに、アリツェは頭が痛くなりそうだった。
とその時、キュウッと緊張感のない可愛らしい音が鳴り響いた。
アリツェはかぁっと全身が熱くなる。このタイミングで、まさかお腹が鳴るとは、と。
「今日は厳しい行軍だったし、ろくに休憩もせずにいたからね。とりあえず目的も果たせたんだし、ベースキャンプに戻って食事にでもしようか」
ドミニクは「はははっ」と笑い声を上げながら、アリツェに微笑んだ。
「お恥ずかしいところをお見せしまして、すみませんわ……」
いたずらっ子の自身のお腹をさすりながら、アリツェは気恥ずかしく感じ、うつむいた。
雨のせいもあり、朝から飲まず食わずでずっと行動をしていた。気づかないうちに、身体が栄養を欲していたのかもしれない。
「今回の旅は、明日からが本番ともいえる。今日はもう、探索は終わりだな。しっかりと体を休めよう」
ラディムはそう口にすると、懐から何かを取り出し、ひょいっとアリツェに放り投げてきた。
アリツェは慌てて受け取り確認をしてみると、どうやら携行用の糖質補給剤として用意された飴玉だった。
ジュリヌの村にて、行軍用の物資としてアリツェもいくつかもらっていた。しかし、その存在を今の今まですっかり忘れていた。アリツェがもらった分は、ベースキャンプに置いてきた背嚢に、仕舞いっぱなしだ。
「お兄様、すみません……」
アリツェはバツが悪く、声を沈ませた。
ラディムは苦笑いを浮かべながら、「気にするな」と言い、アリツェの頭を軽くぽんっと叩いた。
アリツェは愚かな自身の頭を軽く叩いてから、もらった飴玉を口に放り込んだ。濃厚な甘みの中にもかすかに酸味を利かせた飴玉は、空腹を紛らわせるばかりでなく、気分も爽やかにさせた。
「これ、おいしいですわね」
「そうだろう? 我が帝国軍の糧食の中でも、人気の逸品だぞ」
思わずこぼれたアリツェの言葉に、ラディムは自慢げに胸をそらした。
悠太の記憶の中にある『梅』にも似た風味だ。初めて口にしたはずなのに、どこか懐かしい。
「アリツェなら気付いただろう? 『あの世界』の、『あの果実』に寄せた風味だと」
ラディムにしては珍しく、楽しそうにニヤリと笑う。
「なんだか郷愁を誘う味……。もしかして、お兄様の発案だったりするのですか?」
ラディムがわざわざ転生者にしかわからないような、『あの世界』の『あの果実』と口にしたのだ。間違いなく、開発にラディムが一枚噛んでいるはずだ。
「優里菜の奴は、甘いものに目がなかったからな。あいつがいろいろと、故郷の味を再現しようと、軍の調理場へ入り浸っていたようだ」
ラディムは遠くを眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
ラディムの身体はアリツェ同様にかなりの不器用なので、自身では料理をまともに作れないはずだ。だから、優里菜は軍の調理担当にいろいろと指示を出すことで、思いどおりのものを作らせようと、精力的に動き回っていたのだろう。
「なるほど、その結果できあがったのが、この『梅』味の飴玉ですか……」
悠太が同じ境遇に置かれていたとしたら、果たして何を作らせただろうか。
アリツェは静かに目を閉じ、悠太の記憶のいくつかを脳裏に思い浮かべた。甘い物よりは、こってりとした肉料理を渇望しそうだ。
アリツェの身体では、残念ながら自身で再現ができない。悠太もきっと、もどかしい思いをしたのではないだろうか。たとえ作り方がわかっていたところで、思いどおりに手が動かないのだから始末が悪い。
どこか寂しさを覗かせるラディムの横顔に、アリツェもきゅっと胸が締まる。ラディムとは同じ境遇といえるため、ラディムの心情はよく理解できた。
アリツェはラディムの横に移動し、そっと手を取った。
ラディムはアリツェに顔を向けると、目を見開いて「どうした、アリツェ?」とつぶやいた。
アリツェは微笑を浮かべ、「ふふっ、何でもありませんわ、お兄様」と口にし、腕にしな垂れかかった。
すっかり雨が上がり、空にかかったどす黒い雲は流れていった。今晩はゆっくりと体を休められそうだ。
……嵐の前の静けさでなければいいのだけれどと、アリツェは兄の温もりを腕越しに感じつつ、精霊王に願った。
――だが、山頂には分厚い雪雲らしきものが、山肌を飲み込むように覆いつくし始めていた。
街道から外れたところで、すでに騎馬は放っている。これ以上奥地までは、馬を連れていけないとの判断だ。かえって足手まといになる。
こういった際、精霊使いの『精霊言語』と『精霊感応』は非常に役立つ。言葉を交わさずとも、動物とある程度の意思疎通が図れるため、馬番を用意しなくとも済んだ。連れてきた四頭の馬は、連れ立ってジュリヌの村へと戻っていった。
アリツェとクリスティーナは、跳ねあげられた泥がつかないようにとドレスの裾をたくし上げ、ひもで縛っていた。そのおかげで、余計に歩きにくい。遅れがちになる様子を、ドミニクが心配げに見つめていた。
アリツェは「大丈夫ですわっ!」と気丈に振舞ったが、まだまだ続く泥濘に、心が折れかけていた。雨除けの外套の隙間から漏れてくる水に、顔をしかめる。すでに上半身は、雨水と汗とでびしょぬれになり、肌にべっとりとまとわりついていた。雨除けの外套は通気性が悪いため、熱気が内側に籠り、さらなる発汗を促している。沸き起こる不快感が、より一層、アリツェの気力をそいでいった。
精霊術で空を飛ぶことも考えた。だが、これから山中で何があるかがわからないため、むやみに霊素を消費するべきではないとのラディムの意見で、泣く泣くあきらめた。アリツェは祈るように、ゴールはまだか、ゴールはまだかと心中で唱え続けながら、ひたすらに歩を進めた。
さらに二時間の苦行を経て、ようやくエウロペ山脈の麓についた。そのころには、恨めしい雨も上がり、わずかに日が差し込み始めていた。
「ようやく……着いたわね……!」
荒い息をつきながら、クリスティーナは前方をにらみつけた。
アリツェも膝に手を突きながら、乱れた呼吸を整えなおす。ゆっくりと顔を上げれば、眼前には圧倒的な貫録を纏ったエウロペ山脈が鎮座している。
「こうして間近で見ると、本当に険しい山ですわ」
想像以上に急峻な山々が、アリツェたちの侵入を拒むかのように冷たく見降ろしてきた。
「山頂を見てごらん。もう、うっすらと雪化粧が」
ドミニクはアリツェの横に立つと、ゆっくりと山頂を指さした。
ドミニクの動きに促されて、アリツェは山頂を仰ぎ見た。頂は真白に染められている。
「参ったな……。想定よりも早く、本格的な冬がやってきそうだ」
ラディムは腕を組み、頭を振りながらぼそりと呟いた。
どうやら、ラディムが木こりたちから聞いていた情報よりも早く、山頂が冠雪しているようだ。あまりうれしい情報ではない。タイムリミットがより短くなったことを意味するからだ。
「こうして山の現状を確認した今、より一層、方針がはっきりした感じね。山頂ルートはなさそう」
「そうですわね……。山越えにはもう、厳しい季節に差し掛かっておりますわ」
クリスティーナの言葉に、アリツェはうなずいた。
さすがに、雪が降り始めた今、大司教一派が山頂を通過しようとしているとは考え難い。
「では、道中での打ち合わせどおり、山間のくぼ地を重点的に探そう」
ラディムはアリツェたちにぐるりと視線を向け、今後の方針を指示した。
「まずは、大司教たちの痕跡がないか、周辺を探るところから開始かな? 沢筋が怪しいんだっけ?」
ドミニクが問いかけると、ラディムは首肯した。
ラディムは改めて懐から地図を取り出し、周辺の地形について説明し始めた。もっとも怪しいと思われる沢筋とその周辺については、特に念入りに詳細を確認する。
その後、周辺で地盤のしっかりした場所を選び、簡単なベースキャンプを設置した。周囲の探索後に、一度このキャンプへ戻り、一夜を明かす。英気を養ったところで、翌日から本格的に山へと分け入る予定だ。
アリツェはドミニクとペス、ルゥを連れて、ラディムが指し示していた沢筋のあたりへとやって来た。
周囲がうっそうとした木々におおわれている中、件の沢筋のところだけ、わずかに獣道らしきものができている。
「山の奥へ侵入するには、この辺りが最適なんですよね?」
アリツェはドミニクに顔を向け、確認した。
「地図上では、そんなかんじだったね」
ドミニクは顎に手を当てながら、こくりとうなずいた。
「うーん、ここ最近に人が分け入ったような痕跡は、どうやらなさそうですわ」
簡単に調べてみたが、人間のものらしき足跡は見受けられなかった。それなりの人数で行動していたのなら、ある程度はっきりとした痕跡が残りそうなものだが……。
上空を旋回しているルゥからも、今のところは何の報告もない。
『ご主人! 怪しい場所を見つけたワンッ!』
とその時、ペスから念話が飛び込んできた。ペスには、その優れた嗅覚を生かして探ってもらっている。どうやら、何かを見つけたらしい。
『お手柄ですわ、ペス! すぐに向かいます!』
念話でペスを労うと、アリツェはドミニクの手を引き、ペスから報告のあった場所へと移動した。
ルゥにも一度降下の指示を出す。すぐさまルゥは高度を下げ、移動中のアリツェの肩にちょこんと乗った。
件の沢筋からさらに東側へ進んだところに、ペスは身体を臥せって待っていた。アリツェが姿を現すや、飛び上がって駆け寄ってくる。
アリツェはしゃがみこみ、優しくペスの頭を撫でながら、ペスの背後にある藪に目を遣った。
藪の周辺は不自然に踏み固められており、その中心には人一人が通れそうなほどの隙間ができていた。ここから何者かが山中に侵入したと、ペスはそう告げる。
改めて目を凝らして見てみると、どうやら、件の沢筋の支流のようで、このまま登っていけば、先ほどの沢の本流と合流しそうな気配だ。
ここで間違いないだろうとアリツェは確信したので、ルゥに指示を出し、ラディムとクリスティーナを呼びにやった。
しばらくペスと戯れつつ待っていると、ラディムとクリスティーナがやって来た。
アリツェは立ち上がり、背後の藪を指さした。
「ここか……」
ラディムはつぶやき、藪の傍へ近寄った。
「確かに、多数の人間が通ったのは間違いなさそうね。周囲もかなり、荒れているわ」
クリスティーナも後に続き、きょろきょろとあたりを調べている。
「僅かに人間のにおいも残っていると、ペスが言っておりますわ」
アリツェは補足情報として、ペスからの報告事項を付け加えた。
「では、ここで間違いがなさそうだな」
ラディムは納得したのか、首を縦に振った。クリスティーナからも、異存の声は上がらなかった。
「皆の考えが一致したようだね。一晩休んで、明朝からこの獣道らしきところを、奥へ奥へと進んで行こうか」
ドミニクの提案に、全員が首肯した。いよいよ明日からは本格的な登山だ。この先に、果たしてアリツェたちの望むものが待っているのであろうか。
しばらく立ち尽くし、眼前の獣道を注視した。胸をよぎる一抹の不安は、いまだに晴れない。順調にいくとは思えない先行きに、アリツェは頭が痛くなりそうだった。
とその時、キュウッと緊張感のない可愛らしい音が鳴り響いた。
アリツェはかぁっと全身が熱くなる。このタイミングで、まさかお腹が鳴るとは、と。
「今日は厳しい行軍だったし、ろくに休憩もせずにいたからね。とりあえず目的も果たせたんだし、ベースキャンプに戻って食事にでもしようか」
ドミニクは「はははっ」と笑い声を上げながら、アリツェに微笑んだ。
「お恥ずかしいところをお見せしまして、すみませんわ……」
いたずらっ子の自身のお腹をさすりながら、アリツェは気恥ずかしく感じ、うつむいた。
雨のせいもあり、朝から飲まず食わずでずっと行動をしていた。気づかないうちに、身体が栄養を欲していたのかもしれない。
「今回の旅は、明日からが本番ともいえる。今日はもう、探索は終わりだな。しっかりと体を休めよう」
ラディムはそう口にすると、懐から何かを取り出し、ひょいっとアリツェに放り投げてきた。
アリツェは慌てて受け取り確認をしてみると、どうやら携行用の糖質補給剤として用意された飴玉だった。
ジュリヌの村にて、行軍用の物資としてアリツェもいくつかもらっていた。しかし、その存在を今の今まですっかり忘れていた。アリツェがもらった分は、ベースキャンプに置いてきた背嚢に、仕舞いっぱなしだ。
「お兄様、すみません……」
アリツェはバツが悪く、声を沈ませた。
ラディムは苦笑いを浮かべながら、「気にするな」と言い、アリツェの頭を軽くぽんっと叩いた。
アリツェは愚かな自身の頭を軽く叩いてから、もらった飴玉を口に放り込んだ。濃厚な甘みの中にもかすかに酸味を利かせた飴玉は、空腹を紛らわせるばかりでなく、気分も爽やかにさせた。
「これ、おいしいですわね」
「そうだろう? 我が帝国軍の糧食の中でも、人気の逸品だぞ」
思わずこぼれたアリツェの言葉に、ラディムは自慢げに胸をそらした。
悠太の記憶の中にある『梅』にも似た風味だ。初めて口にしたはずなのに、どこか懐かしい。
「アリツェなら気付いただろう? 『あの世界』の、『あの果実』に寄せた風味だと」
ラディムにしては珍しく、楽しそうにニヤリと笑う。
「なんだか郷愁を誘う味……。もしかして、お兄様の発案だったりするのですか?」
ラディムがわざわざ転生者にしかわからないような、『あの世界』の『あの果実』と口にしたのだ。間違いなく、開発にラディムが一枚噛んでいるはずだ。
「優里菜の奴は、甘いものに目がなかったからな。あいつがいろいろと、故郷の味を再現しようと、軍の調理場へ入り浸っていたようだ」
ラディムは遠くを眺めながら、ぽつりとつぶやいた。
ラディムの身体はアリツェ同様にかなりの不器用なので、自身では料理をまともに作れないはずだ。だから、優里菜は軍の調理担当にいろいろと指示を出すことで、思いどおりのものを作らせようと、精力的に動き回っていたのだろう。
「なるほど、その結果できあがったのが、この『梅』味の飴玉ですか……」
悠太が同じ境遇に置かれていたとしたら、果たして何を作らせただろうか。
アリツェは静かに目を閉じ、悠太の記憶のいくつかを脳裏に思い浮かべた。甘い物よりは、こってりとした肉料理を渇望しそうだ。
アリツェの身体では、残念ながら自身で再現ができない。悠太もきっと、もどかしい思いをしたのではないだろうか。たとえ作り方がわかっていたところで、思いどおりに手が動かないのだから始末が悪い。
どこか寂しさを覗かせるラディムの横顔に、アリツェもきゅっと胸が締まる。ラディムとは同じ境遇といえるため、ラディムの心情はよく理解できた。
アリツェはラディムの横に移動し、そっと手を取った。
ラディムはアリツェに顔を向けると、目を見開いて「どうした、アリツェ?」とつぶやいた。
アリツェは微笑を浮かべ、「ふふっ、何でもありませんわ、お兄様」と口にし、腕にしな垂れかかった。
すっかり雨が上がり、空にかかったどす黒い雲は流れていった。今晩はゆっくりと体を休められそうだ。
……嵐の前の静けさでなければいいのだけれどと、アリツェは兄の温もりを腕越しに感じつつ、精霊王に願った。
――だが、山頂には分厚い雪雲らしきものが、山肌を飲み込むように覆いつくし始めていた。
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今日もまた、掲示板は悲喜こもごもに賑わっていた――
【本編完結】さようなら、そしてどうかお幸せに ~彼女の選んだ決断
Hinaki
ファンタジー
16歳の侯爵令嬢エルネスティーネには結婚目前に控えた婚約者がいる。
23歳の公爵家当主ジークヴァルト。
年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。
ただの女友達だと彼は言う。
だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。
彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。
また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。
エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。
覆す事は出来ない。
溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。
そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。
二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。
これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。
エルネスティーネは限界だった。
一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。
初めて愛した男を憎らしく思う以上に彼を心から愛していた。
だから愛する男の前で死を選ぶ。
永遠に私を忘れないで、でも愛する貴方には幸せになって欲しい。
矛盾した想いを抱え彼女は今――――。
長い間スランプ状態でしたが自分の中の性と生、人間と神、ずっと前からもやもやしていたものが一応の答えを導き出し、この物語を始める事にしました。
センシティブな所へ触れるかもしれません。
これはあくまで私の考え、思想なのでそこの所はどうかご容赦して下さいませ。
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