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序章
3 壊れた心
しおりを挟むあの後何処をどの様にして屋敷へ帰ったのかなんてわからない。
とは言え行きも帰りも我が家の馬車で帰ったのは間違いないでしょう。
なので今私は私室で一人さめざめと泣いております。
ええ、帰宅した際私の様子を見た侍女のテアが驚くくらいには落ち込んで……と申しますか、今も絶賛落ち込み中でしてよ。
食事や入浴の一切を拒む私を心配しているのはテアだけでなく両親やお兄様そして屋敷中の者達全て、なのに今の私には誰かと言葉を交わす余裕すらないのです。
まるで突如眼前に立ちはだかってしまった天よりも高い大きな山の前で何も出来ず、また何も決断出来ず途方に暮れ声を潜めて泣くばかり。
あぁ沢山泣き過ぎて瞳だけではなく顔もブクブクと醜く腫れぼったくなっているのでしょうね。
この様に醜く情けないボロボロの顔で、いえこの状態で明後日に結婚式だなんて……本当にジークヴァルト様は私との結婚を望んでいらっしゃるのでしょうか。
あの瞬間までの私は、私達の結婚は揺るぎのないものだと思いまたそう強く信じ込んでおりましたが今は違います。
『お前だけを愛している!!』
えぇあのお言葉こそがジークヴァルト様の本当のお気持ち。
そして私にはきっと永遠に告げては頂けないだろう熱い想い。
ジークヴァルト様の、アーデルトラウト様へのお気持ちを知ってしまった以上私には二日後の結婚式へ何を願い望む何て出来よう筈はないのです!!
身分、そうこれは全て身分の違い。
身分が違うからこそ愛し合うお二人は結婚が許されない。
反対に少しも愛されてはいない私とならば身分が釣り合うから結婚が出来る?
では結婚したその先に待っているのは一体何なのでしょう。
それにきっとこれより先もお二人はずっと愛し合われる。
私とジークヴァルト様が結婚をしたからと言ってその関係は変わらないでしょう。
また同時に私がジークヴァルト様より愛される事も――――ない。
ならばどうして結婚をするの?
それが貴族の務めだから。
貴族の……務め?
貴族の娘だから?
平民よりも優遇される立場だから?
煌びやかな世界で何もかも恵まれて生きているから⁉
それ故に心を殺したまま、心を殺され続けたまま生ける屍となってまで結婚をしなければいけないの⁉
わ、私はっ、貴族の娘としてっ、一人の女性として誰しもが希う全てを諦めなければいけないの!!
突如見せつけられる様に知ってしまった現実へ冷静に対処する事も出来ずただ物凄く悲しくて辛くて切なくて、何処にこの荒れ狂う感情を持って行けばいいのかわかりません。
ですが不思議と時が刻む毎にそれを上回る程の心の奥よりふつふつと、怒りと口惜しさがじわじわと込み上げてもくるのです。
つい今し方まで悲しみに呑まれ泣いていたかと思えば余りの口惜しさに怒りを通り越して最早微笑んでしまう自身へ、正直に申しましてここまでの感情が私の中に存在していたとは夢にも思いませんでした。
まだ稚い子供時代ならばいざ知らず、誰よりも淑女たらんとなった今の私にこの様な感情の起伏がまだ存在していたとは……。
そうして最後にジークヴァルト様と身体を絡ませながらも、勝ち誇った視線を向けてこられたアーデルトラウト様のあの美し過ぎる黒曜石の瞳がこれでもかと私の瞼の裏へと焼き付けば、どれ程に頭を左右に振ろうとも決して消えてはくれない。
「ふ、ぅははは、ふふ、嫌、ふふふ、お願い、だから……ふふ、ふ……」
ぱりん……。
何処かでそんな音が聞こえた様な気がしました。
物理的には何も壊れたものはありません。
きっとこの瞬間私の心は壊れてしまったのでしょう。
何故なら心が壊れていたからこそ私は迷う事なく次への行動に踏み出せたのですもの。
そう全てはお慕いしていたジークヴァルト様の為に……。
「……エルお嬢様本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫よテア」
翌朝私はとても機嫌が晴れやか……とは言え、昨夜は一睡も眠っておりません。
だから今の私は空元気……いえ、それとも少し違いますわ。
「あ、あのお嬢様」
「なあにテア」
「で、出来ましたら本日は明日の御式の為にゆるりとお部屋でお過ごしになられては如何でしょうか」
本当にテアは何時も心配性。
私より三つ年上のお姉さん的な彼女は、何時でも私の味方です。
いいえテアだけでなく両親やお兄様、我がキルヒホフ侯爵家へ仕える全ての者は皆優しいのです。
ただ今の私からすればその優しさが少し……いえ、今は本当に晴れやかな気分なのです。
そう今の私ならば夜通しダンスが踊れるくらい、えぇ心が浮き立つくらいに愉しくて仕方がないのですもの。
きっと昨夜思い切り泣いてしまったからなのでしょう。
そしてこれよりすべき事を思えば心は何処までも、ほら空はこんなにも青く澄んで何処までも美しい。
「……がとうテア。だからお願いよ。今からであればジーク様はまだお屋敷にいらっしゃるもの」
「ですが本当に宜しいのでしょうか。本番は明日ですのに……然もお式の前に新郎に……」
「花嫁の私が夫となられるジーク様にお見せしたいの!! だからお願いテア。この様な事は彼方にしかお願いが出来ないの!!」
本当に何時も我儘ばかり言ってごめんなさい。
心の中でそっとテアへ詫びれば彼女も仕方なくと言った様に、もしかしなくとも何かを察してくれたのかもしれません。
「はぁわかりましたわ。理由はわかりませんがそれでエルお嬢様の御心が晴れるのでしたら、このテアはどの様な事も致しましょう。ですが本当にこれっきりですよ。奥方様と旦那様に知られればって一番知られていけないのはアルフォンス様ですわ」
「アル兄様?」
「えぇアルフォンス様は昔からエル様を溺愛なされておられますからね。此度の結婚にしてもです。誰よりも本当に最後まで反対なされておいでだったのは旦那様ではなくアルフォンス様でしたのは屋敷中の皆が知っている事実ですわ」
心底呆れた様な口調で話すテアに思わず微笑んでしまいます。
えぇ、そうね。
何時だってアルお兄様は私に対して心配ばかりなさっておいででしたもの。
昨夜も、王太子殿下の側近として日々お忙しいのにも拘らず態々時間を割いて王宮より駆けつけて下さいましたものね。
なのに私はと言えばそんなアルお兄様へ会う事もせず、言葉の一言も発する事無く不義理を働いてしまいましたわ。
ごめんなさいアルお兄様。
ごめんなさいお父様お母様。
そして最後まで我儘を言ってごめんなさいテア。
私は明日ではなく今日花嫁となるのです。
永遠に愛される事のない花嫁に……。
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