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第一章 レント城塞

第五話 〈生命の水〉という魔法

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『あなたの王は今、絶望の中で、もがいています』
「……え?」

 父が消えた泉の水中に、人とも魚ともつかない泉の精が姿を現した。
 混乱する僕の心に冷や水を浴びせるように、清らかな声でセルジン王の苦しみを伝えてくる。

『エステラーン王国の宝玉に触れた《王族》は、命と引き換えにこの世を支配する強大な魔力を手にします。あなたの王はその魔力に支配され、止まった時の中で苦しんでいる。《王族》の減少が彼を弱らせ、水晶玉の魔力に心を蝕まれているのです。今のままでは、彼も魔王と化すでしょう』
「嘘だ! 陛下が魔王になんて、なるはずがない!」
 
 いつも優しいセルジン王からは、想像も出来ない推測に、僕は断固として否定した。

『最後の《王族》のあなたの存在が、彼の理性をつなぎとめているのです』
「…………」
『セルジン王を救えるのは、《ソムレキアの宝剣》の主である、あなたしかいないのです、オリアンナ姫』
「それは……、父上が言った通り、陛下を消滅させるって事か?」
『彼の理性があるうちに、水晶玉から解放するのです。エドウィンの言う通り、消滅させた方が彼の救いになると、私達には思えます』

 僕の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
 
「そんなの、嫌だ! なんで僕が、陛下を消滅させなきゃいけないんだ! 僕は陛下を助けたいんだ。人に戻したいんだ! 消滅なんて、絶対にさせない!」

 僕は《聖なる泉》の前で、身を屈めて泣き続けた。
 涙はまるで湧き続ける泉のように、僕の目から流れ続け止まらない。



 どのくらい時間が経ったのか解らなくなった頃、泉の精の優しい声が僕を現実に引き戻した。

『嘆かないで、オリアンナ姫。私達が、あなたを助けます』

 清らかな泉の精が、揺らめく水の中から、僕に手を差し伸べる。
 僕は泣いて赤くなった目を、おずおずと泉の精へ向けた。

『王を助ける望みは、きっと叶えられるでしょう。あなたをよく見れば、解ります』


 望みが叶う?


 あまりの驚きにそれまでの嘆きが、一気に僕の中から吹き飛んだ。

「本当に? 本当に叶うの? どうやって、助けられるの? 方法は?」

 涙を拭いながら、期待を込めてたずねる僕に、泉の精は警戒するように首を横に振る。

『私達が教えなくても、いずれそれ・・はやって来ます。その時まで、エドウィンが全てを犠牲にしてあなたに残したものを、どうか否定しないで下さい』
「父上が、犠牲? どういう事?」

 急に不安が頭をもたげてくる。
 父エドウィンは、今どういう状況にあるのか?
 王都ブライデインは、屍食鬼の巣窟になっていると聞いている。
 そんな場所で、どうやって生き延びているのか?

『《ブライデインの聖なる泉》で、彼に会えば解ります、オリアンナ姫。契約の代償は、彼が払いました。あなたはしるべを受け取るだけです』
「え?」



 突然、泉から強烈な光が噴出し、周りの全てを呑み込み膨れ上がった。
 あまりの眩しさに、手で目を覆い隠す。



「わあっ!」

 訳が分からないまま、身体が宙に浮く感覚に声を上げた。
 光が身体中に侵入し、焼き尽くされる感覚に足掻いて、必死に振り払おうとした手は、虚しく宙を掻く。
 世界も僕も消えてなくなる恐怖に怯えた。

「止めろっ――――!」





 ―――突然光は消え、浮遊感も消えた。


 恐る恐る目を開けると、《聖なる泉》は何事も無かったように静かで、湧き出る水の音だけが聞こえる。
 僕の荒い息遣いが、不協和音のように木霊した。

「何だ……、今の?」

 不意に違和感を覚え見ると、左手の周りを水が取り巻いていた。
 冷たさも濡れた感覚もないのに、視覚は意志を持ってうごめく水を映している。 

「うわあああっ!」

 慌てて振り払ったが、それは左手に吸い込まれ、水の紋様を左手全体に刻み込む。
 違和感が体中を駆け巡り、左手だけが僕とはかけ離れたものに感じる。 

「止めてくれ、泉の精!」



 その瞬間、紋様は消えた。

『それは〈生命の水〉という私達の魔法です。あなたの命の灯が消える時まで、命を守り続けます。あなたが立ち向かうのは、人の魔力の及ばぬ者達です。オリアンナ姫、全てはあなたに掛っています』
「え?」
『《聖なる泉》が消えれば、魔界域の扉が開くでしょう。そうなれば、この世は滅びます』
「…………」

 魔界域……、その言葉に言いようのない恐怖が、胸の痛みを伴って沸き起こった。
 魔王アドランの剣で胸を貫かれ殺された僕は、魔界域へ堕とされたはずだ。
 魔王に殺された者が堕ちる場所、魔界域。
 僕には、その時の記憶がまったくない。
 それでも胸から背に残る傷痕が、切り裂くような痛みを訴えている。

 僕は、なぜ生きている?
 いつもの疑問が、痛みと共に頭を占める。
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