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第51話 牡丹鍋

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 元禄十六年十一月。霜月の寒さが江戸の町にも押し寄せる。
 紀伊国屋屋敷の中でもそれは顕著であり、その中で千代も多忙を極めていたが、炊事場の障子が開く。そこには文吉が立っていた。

「おゥい、お千代。まだか?」
「まだでございます!」

「おお怖い」
「お部屋でお待ち下さい!」

「しかしなんなのかね、その口の利き方は……」

 最後のセリフは小さく、ボソボソという負け惜しみに似た形である。
 文吉は、千代の作ったやまくじらの煮付けが忘れられず、自ら二貫目ほど買い込んできて牡丹鍋を作るように命じた。
 主人だけではない。従業員用のものも作らなくてはならない。女中が総動員して肉を切って、野菜を切る。
 待ち遠しい文吉とはうらはらに炊事場は戦場のようである。ピリピリする千代に、年上の小菊と小笹が窘めように言う。

「まったく、大旦那さまにあんな口の利き方するなんて」
「こっちがハラハラして見てられないよォ」

 と、せかせかと野菜を大鍋の煮立ったお湯へと放り込む。それに千代はすまし顔でうそぶいた。

「いいんですよゥ。大旦那には誰も逆らいませんから、私の小言で夜遊びが治るなら構いません」

 その言葉に小菊と小笹は顔を見合わせる。

「そう言えば大旦那は吉原に行かなくなったわね」
「先日は接待で出掛けていったけど、すぐ帰ってこられたし」

 千代はそれに得意げに鼻を鳴らす。

「そうでしょう?」

 確かに。千代の言葉はキツいが、文吉は屋敷ですごすことが多くなっていた。



 その文吉は部屋の中で立ったり座ったり。熊吉は落ち着きのない文吉を見ながらキセルでタバコをふかしていた。

「まだかのゥ。のう熊吉。お千代の料理は旨いであろう? 夜遊びなどしておれん」
「義兄は夜遊びより、お千代のおまんまのほうが好みのようだな」

「当たり前だ。あんな料理を作る女はそうはいないよ」

 熊吉は吹き出した後ににこやかに笑っていた。

「なんだ? なにが可笑しい」
「いやァ。思い出し笑いだよ」

「まったく。お千代を嫁に貰える男は幸せだ」
「だったら俺が貰おうか?」

 熊吉の言葉に文吉は高速で振り向く。そこにはイタズラが成功したように笑う熊吉である。

「……なんだ。冗談か」
「まァな。しかし、貰ってもいいなァ」

 これは熊吉の揺さぶりであった。本心ではない。しかしなぜか文吉はムキになる。

「いいや、お前さんはダメだよ」
「どうして?」

「歳が違い過ぎらァ」
「歳なんて関係あるけィ」

「それがあるんだよ」
「どういう理屈だ」

「とにかくダメだったらダメだ」
「なんなんだ。ムキになるなよ」

 そう言われてみるとそうだ。バツが悪くて文吉は立ち上がり、厠と称して部屋から出ていった。

 厠はこの大きな屋敷の端である。文吉が出ていった後で、千代は土鍋を大きなお盆に乗せてやって来た。跪いて襖を開けて、部屋に入って湯気の立つそれを畳の上に置いて挨拶をする。

「失礼します。あら? 大旦那は?」
「吉原だよ」

「はァ!?」
「くっくっく」

 キセル片手に笑う熊吉。千代は真っ赤になって怒った。

「なんですか。冗談はやめてください」
「おぅっと。ムキになるなよ。義兄と同じだなァ、お前は」

「そんなこと──」

 千代は急にもじもじ仕始めて、畳の毛羽をむしった。熊吉には文吉への思いを伝えてあったので気恥ずかしいのだ。

「義兄は、お前が作るおまんまが大好きで、夜遊びに行くのがもったいないんだと」
「え。やだァ。そんなァ」

 可愛らしくもじもじ。熊吉はそんな千代へと微笑みかける。

「来年くらいに、義兄にお前を娶れと言うつもりだ」

 その言葉に千代は大きく体を揺らす。そして声を震わしながらたずねた。

「な、な、な、なんでです?」

 それに熊吉は酒を飲みながら答える。

「義兄は心の中では、お千代を求めているのだ。昔愛した人に顔かたちがそっくりなうえに、料理上手である。義兄の理想が服を着て歩ってるようなもんだ。だが女というものを信じられないんで素直になれない。俺は強制してもお前と結婚させようと思う。愛や恋だなんて思わなくてもいい、跡継ぎを作るために身近なお千代を娶れとな。お前は不本意かもしれんが、それが最短の道のりだ」

 熊吉の言葉に千代はもう真っ赤っかである。畳の毛羽どころか、むしらなくてもいいところまで照れ隠しでむしってしまう。

「あのぅ。そのぅ。ではよろしくお願いします」
「はっはっは。任せておけ。あの日から何年も経つが、とても女らしくなったなァ」

 熊吉は盃片手に天に向かって大口を開けた大笑だ。そこに、丁度文吉が帰ってきた。
 照れている千代と、大笑している熊吉。廊下で僅かに聞こえた、「女らしくなった」という言葉。
 文吉はなぜか熊吉に対して怒りだした。

「ぬぬぬ、九万! お千代に何を言った!」

 そう言われても、今の話をするわけにはいかない。

「なんてことはない。普段の雑談だ」
「し、しかし──」

「しかしも、かかしもあるけィ。さァお千代。鍋をこちらに。お前も一緒に食おう」
「は、はい」

 千代はすっかりと忘れていたように、鍋を小さな机へと置く。文吉と熊吉に食器を渡し、自分もそこに座る。
 文吉は千代が熊吉の近くや対面に座らないように千代にあれこれ指図し、しまいにはまた千代に怒られてしまった。





 さて、そんな日常のある日、幕府の重役と接待ということで、またもや文吉は吉原を利用した。
 その日たまたま、三浦屋の郭主と会ったのは偶然であった。郭主は文吉の袖を掴んで、そっと物影へと連れて行ったのだ。

「どうした主人」
「しっ!」

 三浦屋の郭主は、物影から少しだけ首を出して、辺りを確認した後で首を引っ込めた。

「どうした。他には聞かれたくないことか?」
「左様でございます。お耳を──」

 文吉は三浦屋の郭主へと耳を近づけると、郭主は話を切り出した。

「実は先日、奈良屋の旦那が几帳の身請けを表明されまして」
「ふむ。几帳といえば九万兵衛が執心の太夫だな?」

「ええ。手前のほうでは普通に身請けをされるより、紀九万の親分に通って頂いたほうが儲けが大きいので、千両と言われましたが、これをお断りしました」
「なるほど、それはそれは九万兵衛に気を遣って貰ってすまない」

「ところが、彼のかたは気になることを申されました」
「気になること?」

「はい。なんでも親分さんはもって本年中だとか──」
「は、はァ!?」

 普段は温厚な文吉であったが、その言葉には大きく憤慨して三浦屋の郭主に鋭い視線を送った。
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