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第二章

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「帰れる……やっと終わった」
 プリントの束を職員室まで持って行った帰り。両手を頭の上で組み、思いっきり背伸びをすると、じっとりとした視線を感じた。
「仕事遅すぎなんだよ」
「逢坂くんが一人でやっていれば、すでに終わっていたとでも」
「あたりまえ」
「わお、ウソツキ」
「嘘じゃねえ」
 そんな言い合いをしながら下駄箱へと向かえば、前方から部活終わりの女子生徒が歩いてくる。そのまま「逢坂くん」と声をかけられれば、オンオフの切り替えスイッチがあるのか「お疲れ様、毎日大変だね」とにこやかに笑って彼女たちを労っていた。
 出来ることなら私にもそんな言葉をかけてもらいものだ。自然とそこで別れるかのようにその場を離れては下駄箱へと足を進め上履きを脱ぐ。
 後方では女の子たちと談笑している逢坂くんの横顔。
 つい昨日の昼までは私にもキラキラスマイル見せてくれていたのだけど、何故だか本性を出されてしまったので、もう二度とわたしの前では見せてはくれないのだろう。それはそれで寂しい気持ちになったりするようでならないけど。
 ローファーに履き替えそのまま校舎を後にする。グラウンドへと流れるように視線を送れば、部活に励んでいた生徒もどうやら帰る支度を始めているらしく、大きなブラシでグラウンド整備をしている野球部を横目に空を見上げた。
 加古以外とこんな時間まで居残りをしたのは初めてかもしれない。
 とはいっても、一、二回ある程度。加古はほとんどの時間を部活に費やしているから、放課後を一緒に過ごすなんてことはあまり多くはない。それでも、あれはどうして一緒に残っていたんだっけ。遠い記憶ではないはずなのに、はっきりと思い出せない。
 振り返り、夕陽で真っ赤に染まった校舎を見た。あの中には、青春に明け暮れるものたちがまだ残っているのだろうなと思うと、少しうらやましくなった。

「逢坂、プリント綺麗に纏めてくれてありがとな」
 翌日。昼前の四限目は数学の授業ということで、教室に入ってくるなり先生は逢坂くんにお礼を伝えた。
 私も、私も、と、先生の言葉を待つが「いやあ、逢坂に手伝ってもらうと本当に助かるよ」と何故だか逢坂くんだけの手柄になっているようで開いた口が塞がらない。
 先生はもしや、昨日私と会話をしたことすら覚えていないのではないか。放課後の教室で私という人間と話したことを覚えていない。
 そんなことを、今まで何度も経験してきた。私はここにいるはずなのに。ここで呼吸をし、心臓を激しく鳴らしているというのに認知されない。私という人間に個性がないから。
自分を持つことを禁じられてきたから。
 今更、なんだっていうのだろうか。こんなこと、何度だってあったはずじゃないか。
 いつだって私は誰かの後ろに隠れてしまっている。相手に悪気がないこと、私が悪いこともわかっている。影のように生きてきたのだから、たとえ手柄を全部逢坂くんに持っていかれたとしても、それは仕方がないと思わなければいけない。
「ああ、あれほとんど南雲さんがやってくれたんですよ」
 そう、思っていたのに。
 教室に落とされたのは、十七年間、その名前と付き合ってきた私のもの。
 スポットライトを浴びたはずの逢坂くんは、舞台の袖にいる、真っ暗な私に同意を求めるように顔を向けていた。
「俺は用があってほとんど手伝えなかったのでお礼は南雲さんに言ってください」
 まさかそんな台詞を逢坂くんの口から出てくるとは思っていなかった。むしろ「あれは全部俺がやりました」と好感度を上げるかと思っていたというのに、その予想は大いに外れた。
「そうだったな。南雲、助かった」
 ようやく私を認知した先生から視線を投げられ「い、いえいえ」と首を尋常ない程横に振ることで精一杯。
 その後、何事もなかったかのように授業が始まり、理解不能な数式が黒板に並んでも、頭は茫然としたまま。
 まさか、あの逢坂くんがあんなことを言ってくれるなんて。
 自分の手柄にしてしまうと思った。そういう人だと思っていた。本当の逢坂くんを知ってしまえば、そういうことも簡単にできてしまえると思っていたというのに。
 その驚きが何より信じられなくて、それでいて嬉しかった。
「ねえねえ、南雲さん」
 小声で囁くように飛んできた可愛らしい声。いよいよ私は嬉しくて、ついには幻聴まで聞こえてきたらしい。驚きだ、私を呼ぶ人間なんてこの学校には加古ぐらいしかいないというのに。
「南雲さん」
 トントン、と机の端で見えた桜貝のような綺麗な爪にはっとする。
 その白く細い手の主が隣の席からだということに気付き言葉を失ったのは言うまでもない。
 彼女は「やっと気付いた」と可愛らしい笑みを浮かべ、私を呼んでいた。「え」と反応が大きくなった私にも彼女は気分を害した様子を見せることなく、艶やかで痛みを知らないような髪を、耳にかける。
「よく先生に頼まれ事してるけど大丈夫? あの先生にコキつかわれてるとかじゃないよね?」
「……」
「南雲さん?」
 眉を下げ、心配そうに私の反応を伺うその様子に数秒間、何が起こったのか記憶を辿った。今、私は彼女に気にかけてもらっているのだろうか。
 ぱくぱくと口が動くものの、すんなりと声が出てこないのは何故なのか。加古とは問題なく話せてしまうというのに。
 なんとか絞り出すように「ぜ、全然。大丈夫だよ、ノープロブレムだよ」と、謎の横文字を使ったことが仇となり、彼女は愛想笑いを浮かべていた。
 綺麗な顔立ちが歪んだものの、すぐにまた眉を下げたお顔で「そっかぁ」とふわり笑う。
「あの先生あんまり評判良くないからちょっと心配になっちゃって」
 彼女、 櫻井千歳(さくらいちとせ)ちゃんと言えば、 通称ちせちゃんと呼ばれていて、かなりモテモテのマスコット、というところだろうか。四字熟語で表すなら鏡花水月。鏡や水には映るけれど実際に触れられないというもののたとえは、近寄りがたい彼女にはぴったりだった。
 実在するけれど、触れてはいけない。大切に、慎重に、そんな言葉が暗黙であるような人。特に男子生徒には絶大な支持を誇っていた。
 綿菓子のように甘い彼女が、私にふわりと笑いかける。
「私ね、南雲さんと話してみたかったんだ」
「……私と?」
「いつも加古ちゃんと一緒にいるでしょ? なかなか声をかけられなくて。勇気振り絞って話しかけちゃった」
 個性も何もない私と話したいと、勇気を振り絞ったと言ってくれた。こんなことを異性に言われてしまえば一発でノックアウトだろう。同性の私でさえくらくらしてしまうのだから。
「そんな、いつでも話しかけもらえたらうれしいっていうか」
「え、本当? 嬉しい」
 綺麗な硝子玉の瞳が跳ねるように、屈託のない笑みをこぼす彼女の可愛さに衝撃を受ける。もう今では愛おしさという感情が芽生え始めていた。
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