恋ノ炎ハ鎮火セズ

月岡夜宵

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「は、あははっ……これ夢だよな? 誰かそうだと言ってくれ」

 おお、神よ、推しになんて試練を。たとえもうファンだと堂々と公言することが出来なくとも。おれの中で彼の思い出はキレイに生きている。それを汚すような輩は許せない。だというのに、指は止まったまま。時計の針は刻一刻と動くのにおれは進めない。いつまで経っても見ないふりをしてやり過ごすだけ。彼を思い出にしても、新しい始まりなんて出来なかった。結局精神的に辛い会社には勤めたまま。目立たず隠れて生きる日々。推しに貢献していた頃の燃えるような使命感もない。ただくすんだ日々を惰性で繰り返す。

 このままではいけない。焦燥感に突き動かされる。推しを本当の意味で失うかもしれない恐怖に駆られたおれの中でなにかが変わる。
 そうだ。ずっと苦しかった。でも、彼がいるからあんな職場環境でも耐えられたのだ。すべては彼をきっかけに回っていた。労働は推しへ貢ぐ為。おれの血と汗の結晶で推しを食わせてやっているというおかしな自負があった。それはおれをなくてもいいみじめな存在から誇り持つ人間に変えてくれた。


 ふと寂れた路地裏で歌う彼の姿が過甦る。ちょうど今の映像のようだ。しかしまだ年若く無名だった頃の彼だ。哀愁漂う歌声が場末の路地に響く。美しい声音だが、どこか精彩に欠け、通りゆく人は彼の歌声に耳を傾けることもなく、時折つばを吐くようにへたくそと感想を捨てて去っていく。見向きもされないシンガー。

 高校生活全てを注ぎ込んで勉学に励むも、その結果は不合格。大学受験に失敗し、両親からは責められ、兄貴には白い目で見られた。家族からはまるで異分子のように扱われ、デキの違う頭に本当は自分たちの子供じゃないのかもなんて真面目に話し込んでいるのを聞いて泣き笑いしたこともある。同級生はガリ勉で友達付き合いも下手だったおれをあざ笑った。担任教師は困った顔でため息をつき、当時付き合っていた彼女には呆れたと一言。さよならもなく疎遠になった。
 一体なんのためにあんなに真面目に勉強していたのだろうか。
 期待には応えたかった。現実からは逃避したかった。血を吐くような苦しい思いで毎日頭痛を抑えて勉強した。それでも状況は一向に好転せず、レッテルだけがつきまとった。世界におれの居場所はどこにもなかった。

 頭より先に心がパンクしそうになったおれはついに逃げた。
 あてもなく電車を乗り継ぎ見知らぬ町とたどり着く。ふらふらと主要な道を外れていき、路地を誘われるように歩き、とうとう辿り着いたのは行き止まり。立ちはだかる壁をみてどこへも行けないことを悟った。やっぱりおれはダメなんだと。力尽き、ずるずると壁を背にし、暖かくなったとはいえまともな厚着もせず出てきたその格好で身を縮めて座り込む。

「~~」

 どこからか聴こえたのは歌だった。誰かがこんな路地近くで歌っているらしい。すべてを諦め眠ってしまおうとしたのに、耳障りな音声。その音源をイライラしながら辿ると。

「♪ あなたが 必死で守ったもの全て 無駄なものなんてない」

 ほろり、と胸を打つ言葉に涙が知らず流れ落ちた。
 男声が歌うにしてはしっとり歌い上げられる歌詞。当時のおれに響いて仕方なかった。なぜあんなに心を打ったのか、おれにも分からない。ただ強烈に惹きつけられた。

 歌っているのはどんな人だろう。そう思って、建物の角から顔を出す。そこに居たのはおれと同年代ぐらいの青年だった。少年期を抜け始めた、そんな年頃の男が歌っていた。場違いなほど華やかな金髪に薄茶の瞳。若く細い顎のラインや開閉する口元、喉仏の動きが妙な色っぽさを伴っていた。

「♪ あなたが生きようと足掻いた証 これからを生きる糧 血となり肉となり生かす過去 その根源全てを抱きしめる わたしはいつもあなたと共に」

 目があった。一目で射抜かれた。

 度肝を抜かれ、心臓を鷲掴みにされ、全細胞が高揚する。一瞬で魅了されてしまった。たどたどしい歌声だったが、その歌詞から始まり歌い方、なにからなにまで衝撃的だった。ずっと待っていた魔法みたいな言葉を欲しいままにくれる。
 聞き惚れるまま立ち尽くした。


「素敵でした」

 路上ライブをするような歌手に初めて感想を述べた。多分興奮していたから出来たのだ。年が近そうだったのもあり、気軽に言葉が出てきた。

「ありがとうございます。おれの心を救ってくれて」

 目一杯の感謝。ボロボロ泣くおれに困惑する彼だが、おれが泣き止むまでおどおどしながら付き合ってくれた。

「この曲、母親の作詞した詩を元にしたんです。息子に遺した最後の詩」

 唐突に彼が言った。その時曲名も一緒に告げられる。亡くなった母がくれた贈り物。この曲と自分の名前が今も誇りだという。親から一字ずつとった名だと、自分の名と母の名を彼はスマホで映してみせた。
 切ないような、それでいて満足げな穏やかな表情は次の言葉で一変した。

「だから俺にも思い入れのある曲だから嬉しいです」

 はにかむような笑顔。心に染み入る歌に、彼の笑った顔が、おれの胸に光を灯す。


 家族は勿論心配した。帰宅して叱られ、初めてまともに父親から頬をぶたれた。息子の身を心配してなどでは勿論ない。出来損ないの息子がどこかで犯罪などに手を染めて自分達に迷惑が被らないかという心配。要は保身である。
 親からすら愛されていなかった自分。おれはきっと彼らにとってただの道具でしかない。
 だが、あの歌を聴いて、彼と出会った出来事のおかげでそれを冷静に見つめる余裕があった。暖かな家庭とは無縁だったから、離れる決意は容易に出来た。
 彼らにとって不要な存在なら出ていけばいい。どこまでも信頼されていないことが伺えたが、幸い、親として最低限の協力はしてくれた。無事大学が決まり、家を出て一人暮らしをすることを告げた。幸い金銭には困っていなかった両親。不出来な息子がいなくなってせいせいする。声に出さなくても厄介事が自ら消えてくれることに安堵していることが伺えた。

 でも結局入った会社がブラックだったのは笑えない類の冗談だと思った。
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