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第8話 最高の誉

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「お母様」

 母はとても優しくて聡明な人です。

「どうしたの、シーリーン」

 幼い私は本を読むのが好きでしたが、背伸びをして難しい本や外国の本ばかりを読んでいました。当然、知らない言葉がたくさん出てきます。

「分からないところがあって。教えていただけますか?」

 私は、分からないことがある度に母に聞きに行っていました。

「おいで」

 母が優しく手招きしてくれるのが嬉しくて。

「ここです。ここが読めなくて」

 それは、オルレアン帝国から渡ってきた物語でした。
 亡国の王女様と騎士が、長い旅路の果てに悪魔を討ち滅ぼす冒険譚。

「ああ、これは『忠誠』ね」

「『忠誠』?」

「主君に真心を込めて仕える、という意味よ」

「主君にですか? 領民にではなく?」

「そうね。私たちは、たった一人の主君のために戦ったりしないものね」

「はい」

「でも、これはオルレアン帝国の物語だから」

「『かちかん』がちがうのですね」

「そうよ」

「では、この『騎士』は、この王女様に忠誠を誓ったのですね」

「『私の生命をかけて、あなたをお守りします』ですって」

「生命をかけて、たった一人を?」

 それは、なんとも妙な話だと思ったものです。
 たった一人しか守れないと宣言する戦士など、フェルメズ王国にはいないからです。

「あなたには、ちょっと難しいわね」

 母が、ふふふと笑いました。

「お母様には、分かるのですか?」

「少しはね」

「どうしてですか?」

「あなたのお父様を、愛しているからよ」

「愛、ですか?」

 『忠誠』と『愛』
 二つの言葉が、私の中で上手く繋がりません。

「いつか、貴女にも分かるわ」

「そうでしょうか? 私は、立派な戦士になります」

「そうね。きっと、大勢の人を守って戦う、立派な戦士になるわね」

「はい」

 母は優しい瞳で私を見つめながら、本のページをそっと撫でていました。
 あの時の母が何を思っていたのか、今でもわかりません。

 その場面には、挿絵がついていました。
 大勢の人に囲まれる、王女様と騎士。
 美しい宝冠と華やかなドレスで着飾った王女様の前で、立派な甲冑を身につけた騎士が跪いている姿が描かれていました。
 とても華やかで厳かな場面だったことを、今でもよく覚えています。





 * * *




「貴女に、忠誠を捧げたいのです」

 その場にいた全員が、驚いて言葉を失ってしまいました。

「それは、どういう意味でしょうか?」

「そのままの意味です。私の生涯をかけて、貴女にお仕えしたい」

 シュナーベル卿が剣帯から剣を外して、その柄を私に差し出します。
 その姿は、あの物語の挿絵で見たのと同じです。

「どうしてですか?」

「貴女は、我々の汗を拭き、食事を食べさせ、汚れた包帯を取り替えてくださいました」

 怪我の手当てをしたことはあります。ただ、それだけの縁です。
 そもそも、つい数ヶ月前までは敵同士だったのです。
 彼の怪我は、私が原因だと言われても仕方がないというのに。

「戦の後始末でお忙しい中、救護所に通って怪我人の世話をしてくださいました。その手や顔が汚れることを厭わずに」

「私は私の仕事をしただけです」

「いいえ。それだけではありません」

 シュナーベル卿が、まっすぐに私を見つめています。

「貴女は異国の地で息を引き取る騎士たちを、決して孤独にはしなかった。人の温もりを感じながら穏やかに逝くことができるよう、最善を尽くしてくださったのです」

 栗色の髪の間から覗く、真っ青な瞳。
 夏の空を思わせるその瞳に、嘘や偽りはありません。

「自分は、天啓を得ました」

「天啓?」

「自分が生命を捧げる方は、この方だと」

 彼の固い決意が、伝わってきます。

「貴女は誰よりも優しく、強く、気高い。どんな王侯貴族でも、貴女ほどに素晴らしい方には出会ったことがない」

 大したことをしたとは思っていません。当たり前のことをしたまでだと思っています。
 まさか、一人の騎士の人生を変えてしまうとは思ってもみませんでした。

「どうか、私の忠誠をお許しください」

 『たった一人の主君に忠誠を捧げる』
 私には、その価値がわかりません。
 フェルメズ王国の戦士は、家族のため、友のため、仲間のため、領民のために戦うのだから。

 頭を下げたシュナーベル卿を前に、どうすればよいのか分からず戸惑うばかりです。

「どうすればいいのかしら?」

 そもそも、この儀式の作法も知りません。

「剣の腹を彼の肩にそっと置いてください。あとは、『許す』とおっしゃっていただければ」

 リッシュ卿が、教えてくださいます。
 だから剣の柄を私に向けているのですね。

「剣を肩に?」

「ええ。『今日の誓いを、生涯忘れるな』という意味です」

 重い、誓いです。
 彼はその生涯を私に捧げる。
 そして、私はそれを受け入れる。

 簡単に答えの出せるものではありません。

「騎士団は、よろしいのですか?」

「私よりも優秀な騎士はごまんとおります」

「皇帝陛下に忠誠を捧げていたのではないのですか?」

「あくまでも仕事として、形式的に叙任されたに過ぎません。これは、それとは違うものです」

 頭を下げたまま淀みなく答えるシュナーベル卿。
 助けを求めてリッシュ卿の方を見ますが、肩を竦めただけで何も言ってくれません。

「恩義を感じてのことなら、本当に気にしないで下さい」

「いいえ。ご恩をお返しするために、貴女にお仕えしたいわけではないのです」

「では」

 なぜ?

「自分は騎士です。騎士にとっての最高のほまれをお与えください」

「最高のほまれ?」

「我が主人にと、心から望む方の剣となり盾となることです」

 玄関ホールが、しんと静まり返ります。
 もう、返す言葉が見つかりません。

 ようやく、シュナーベル卿の思いがわかりました。
 彼は、彼自身のために私に忠誠を誓いたいと言っているのですね。
 それが、彼の願い。
 誰のためでもない。
 彼のために、私はこの『忠誠』を受け入れるか否かを決めなければなりません。

「貴女を我が主君にお迎えし、この血と肉と心臓を捧げます。どうか、あなたに永遠の忠誠を誓うことをお許しください」

 厳かな、誓いの言葉。

 剣を鞘から引き抜きます。
 ズッシリと重たい、両刃の剣。
 その剣の腹を、シュナーベル卿の肩に置きました。

「許します」

 小さな屋敷の、小さな玄関ホール。
 美しい宝冠も、華やかなドレスも、立派な甲冑もありません。
 それでも、私はこの情景を忘れないでしょう。
 私もまた、この誓いを生涯忘れることはできません。

 私の言葉に顔を上げたシュナーベル卿の、喜びに震えた、その青い瞳を──。



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