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【二】 三島~熱海

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 八兵衛が熱海へ寄りましょうよ、と言ってごね出した。

「いいじゃないですかあ、格さん。せっかくここまで来たんですから、熱海へ寄らないテはないですよお。温泉饅頭だけじゃなくてですね、漬物もうまいんですよ漬物」
 三島の宿しゅくを外れて足を東へ向ける。箱根路はまだ先だ。

 天気は今日も晴れ。風はまだ冬の残り香を漂わせているが、季節はもう春だ。
 青い空にはゆったりと動く綿雲が切れ切れに浮かび、ムクドリの小さな群れが箱根の山に向かって飛んでいく。
 見晴るかす平野の田圃には、色鮮やかなレンゲの花が咲き乱れていた。

 天辺に雪を戴いた富士山を背にして歩き出した格之進の周りを、八兵衛が廊下とんびのようにうろちょろする。
 格之進にしてみれば目障りでしょうがない。

「いつだってお前は食ってばっかりじゃないか。どこへ行ってもうまい物があるんだからそれでいいだろう。小田原で食った蒲鉾とおでんは腹のどこに入ったんだ」
 呆れ顔で言った。

 小田原城下での騒動を片付け、母と子の二人連れを三島まで送り届けるのは本来八兵衛一人に任せるつもりだったのだが、道中一人では不安だと八兵衛が渋ったので、格之進は仕方なく付き合ったつもりだった。

 加えて、水戸老公が背筋せすじの痛みを訴えた関係で、光圀一人を籠に乗せ、助三郎とお銀が水戸までの急ぎ旅に同行したのだった。

 結局、八兵衛との二人旅と相成ったのである。

「だからお前に付き合うのは嫌だと言ったんだ。で、また食い過ぎた挙句格さん動けません、が毎度の展開だろうが。――俺はもう飽きた」
 蠅を払うように手を振る。その手にすがるような勢いで八兵衛が食い下がる。
「いえだからあ、抜け道知ってるんですよお。箱根の山越えるより熱海の海まで出たほうが楽なんですってば。
それに昨日もなんやかんやで風呂入れなかったじゃないですかあ。温泉行きましょうよ温泉。英気を養ってからの方が水戸までの足も軽いってもんじゃないですか、ね?」

 なにが「ね?」だ、とか思ったが、風呂にはなんとなく心惹かれるところがあったのも事実だ。
 口をすぼめて宙をにらむ。

「温泉いいですよお。疲れとれますし。格さんお風呂大好きじゃないですかー」
 ちろっと八兵衛のにたにた顔に目を遣る。
「そんなことを言った覚えはないぞ」
 ぼそっと言った格之進だったが、図星だったので内心うろたえた。

 なんで知っているんだこいつは。

 八兵衛がへっへっへ、と笑う。
「この八兵衛様にはお見通しなんですよお。伊達に長い間一緒に旅してませんて。石垣直角、品行方正の格さんは汚れたまんま寝るのが大嫌い。黄門様ご一向ではもはや常識てなもんで」

 誰が石垣直角だ。格之進は鼻白んだ。
 こいつのこういう所が結構食えない奴だと思うところだ。

 格之進の無言を肯定と受け取ったのか、八兵衛は行きましょう行きましょうと言いながら先頭切って歩き出した。

 仕方なく韮山の山裾へ向かう道へ足を向けた格之進だった。







 街は湯治客で賑わっていた。

 幅六間(約十一メートル)はありそうな広い通りの両側に大きな棟の湯宿が軒を並べ、その間に土産物屋や居酒屋が並ぶ。
 屋根の向こう側からは間断なく湯気が立ち上り、町全体に漂う温泉特有の匂いが否応なく旅行気分を盛り上げる。

 呼び込みの声があちこちで響き、そこここの店の前に並んだ品物に小さく客たちが集まっている。
 宴席であろう客たちの派手な笑い声が往来にまで聞こえてくる。

 湯宿の屋根の向こう側、山側に並んだ松の巨木の間から、大きな音を立てて間歇泉の湯気が見上げるほどの高さに噴きあがると、遠巻きに見ていた客のものらしい、おおおっと言う大勢の声が聞こえた。

「凄いな」と格之進。
「あの間歇泉は熱海の名物ですよ。高さ三十三尺(約十メートル強)まで噴きあがるそうですぜ」
 八兵衛が得意げに話す。足が地に着いていないようなふわふわした歩き方だ。
「それにしたって人が多いな。なにか催しでもあるのか」
「お伊勢さんの祈年祭としごいのまつりが終わってからの帰り客じゃないすかね。江戸から講を組んで出かける連中も多いそうで」

 どうしてこういう余計なことばかりよく知っているんだこいつは、と思った格之進だったが、褒めると舞い上がって余計にうるさくなりそうなので黙って歩いた。

「なんてったって東照神君ご愛用の湯ですからね。そらあもう人の往来は尽きることがねえってもんで。――よお、お姉ちゃん、後で寄らせてもらうからねー」
 呼び込みの若い女にほいほい愛想を振りまく。褒めなくてもうるさいことに変わりはなかった。

「宿をどこにするかな」
「この数ですから泊まるとこには事欠きませんって。――とりあえず海側に町湯があるんで、そこ行って垢落としましょうよ」
「町湯?」
「へい。山側から湧いてる湯は『熱海七湯』つって七つ湯井があるんですが、各々の湯宿に回して余った湯を海側の町湯に流してるんでさ。地元や近在の農家とか港の漁師やら、船人足とかが使うんですよ。余り湯なんで金取られないんで」
 ほう、と感心する。本当にいらん事だけはよく知っている。

 本町の筋を抜け、湯宿の並びが切れた所に八尺ほどの高さの四つ目垣と丈の高い羅漢槇らかんまきの生垣が続いていた。
 その奥に東屋あずまやの屋根の端が見え、かなり広い範囲からもうもうと湯気が立ち上っているのが見える。
 露天風呂なのか、と格之進は思った。

 しばらく歩くと瓦屋根の長屋のような建物が現れる。一間半ほどの扉もない開口部に白い暖簾がかかり、大きな字で『ゆ』と書いてあるだけで、看板もない。
 入り口をくぐると六尺四方ほどの叩きがあってその向こうは小上がりの脱衣場だ。


 湯船の奥まった位置でふえーい、と妙な声を上げると八兵衛が湯に体を沈める。

「いやーあ、最高最高。やっぱこれに限りますねえ。泳ぎたくなる広さですぜ」
「子供かお前は」といいつつ格之進も隣で湯に浸かりながら周囲を見渡す。確かに広い。

 天然の石積みを漆喰で繋いだだけの粗末な作りだが、二、三十人は楽に入れそうな広さだ。中央部で南北がせり出しており、上から見るとたぶんひさご型になっているものと思われた。
 端の方は濃い湯気に霞んで見えにくいが、七、八人ほどが湯に浸かっているのが見える。

 黒々と陽に灼けた中年の漁師風の男や初老の夫婦者と思われる男女、農家の隠居のような老婆もいる。
「混浴なのか」とボソッと言う。
「あれ、言ってませんでしたっけ。へへへ、こいつはうっかりだ」八兵衛が湯で顔を洗いながらもごもご言った。

 なにがうっかりだ、と言って格之進の目が半分になった。
 最初から混浴であることを明かすと格之進が渋ることを承知の上でとぼけたのは明らかだった。こういう所にだけは妙に知恵が回るのが八兵衛という男である。

 まあよかろう、と格之進も滑らかな岩に背中を預けて息をついた。

 巻きあがってうねる濃い湯気が、薄曇りの空に溶けていくのをぼんやりと眺めた。冷気を含んだ風が顔を撫でる。爽やかな感触。
 町なかの喧騒がさざめきのように耳に届くのも、むしろ心地よい。

 遠く、海側からは大空をゆっくりと旋回するとんびのぴぃーろろろろ、という鳴き声が響いてくる。

 格之進が風呂好きなのは事実だった。
 なにかと必要以上におのれを律するその性格の反動であるのかもしれなかった。
 風呂に入っているときは勤めを忘れてもいいような気がしてくるのだ。本当はそんな事はないのは百も承知なのだが。

『武士たるものかくあるべし』という考え方は人に押し付けるものではない、というのが格之進の考え方だった。
 誇りは常におのれを律するためにある。
 そんな考え方が、時として格之進をとかく窮屈な人間に見せていることも自身は承知していた。

 助三郎のようにある意味刹那的、享楽的になれればまだ楽なのかもしれない、と思うこともなくはなかったが、所詮自分は自分以外のものになれることなどないのだ、と常に達観しているのもまた自分という人間だった。

 そんな常日頃のあれこれも温泉に入れば、一時とはいえ休んでいる気になることができる。
 ふう、と息をつき、ぼんやりと前に目をやった。

 時間がゆっくりと過ぎていく。


 脱衣場の入り口から裸身とおぼしい人影が入ってくる。
 湯気に霞んでよく見えないが、白い風呂敷包みのようなものを前に抱えたままだ。

(――何だ? 骨壺か?)
 格之進が訝しんだ。形といい大きさといい、骨壺の包みにそっくりだ。

 人影は周りをきょろきょろと見回すと、入り口の脇に生えた松の木の根元に包みをそっと置いた。
「なんですかね、あれ」八兵衛が顔を寄せる。さあな、と言いつつ格之進も漫然と眺めていた。

 入り口の近くで湯に浸かっていた男とおぼしい人影がぎょっとしてそちらを振り返るのが見えた。
 人影が湯船の中に足を踏み入れ、前を隠そうともせず、堂々と格之進たちの方、奥側へ湯を波立たせて歩いてくる。

「わ! うわ!」と叫んで目を見開いた八兵衛が慌てて口を両手で塞いだ。
 あっけにとられた格之進の口がぽかんと開いた。

 もやの中から現れたのは若い娘だった。

 もちろん一糸まとわぬ裸身だ。

 全体に小造りな顔は整っており、静かに見開いた二重ふたえの眼と引き結ばれた豊かな唇が意志の強さを示しているようである。
 長そうな髪は三つに編まれ、頭の上で団子状に纏められている。見慣れた町娘の髪型ではない。
 華奢ではあるが引き締まった身体だ。

 十七、八であろうか。小ぶりながら張りのある紡錘型の乳房はその若さを誇るように示し、先端は大気の寒さに硬くなってはいるものの、薄桃色のそれはまるで開く寸前の梅の蕾のようだ。
 その下の腹部に入った縦横の筋に、格之進の眼が走る。
 一見たおやかに見える二の腕に見える筋肉の線。体の線を崩すことなく引き締まった太腿と膝に至る筋。

 ――この娘、なにか体術の心得があるな。

 武術家・格之進の好奇心がむくりと起き上がった。

 二人から四尺ほど離れて、娘が湯に体を沈める。ふう、とついた息が格之進の耳を捉えた。
 いや、あの、その、と言いながら八兵衛の目が娘と格之進を交互に見る。
 娘が湯の中で腕を撫でながら、うろたえる八兵衛にちらと目をやる。

 格之進が無表情に娘に目を向けた。

小姐お嬢さん你是哪里人どこから来なさった

 娘が跳ね飛ぶような勢いで立ち上がり半歩跳び下がった。飛沫しぶきが大きく飛び散り、その音に客が一斉に振り向いた。
 左手を斜め下方で手刀の型、右拳を腰で構え火を噴くような目で格之進を睨みつける。
 ――『唐手からて』か、と格之進は独り言ちた。

是誰何者だ!? 是清朝的手嗎清の手の者か!?」

 鋭いが、涼やかな声が響いた。
 横でわあっと言う声とごん、というにぶい音が同時にした。
 岩に後頭部をぶつけた八兵衛の首がかくんと垂れ、湯に顔から落ちて派手に水しぶきを散らした。静かな町湯が大騒ぎだ。

 八兵衛が動転するのも無理はなかった。
 向き直った目の前には、水揚げされたばかりの天草てんぐさのようにみずみずしくつややかな、娘の下腹部の茂みがあったからだ。

「おい八。しっかりしろ」
 腕をつかんで湯から引き上げる。くるくると目を回している。
 半開きの口元から犬のように垂れ下がった舌と一緒にだあっと湯があふれてきた。

『答えろ! お前たちは四鬼スーグイの仲間か!?』
 構えたままの裸の娘が誰何すいかする。格之進はいささかげんなりした顔になった。

『清というのは今の大陸の王朝のことか? そんなものに関わりはないし、四鬼などというものも知らん。――どうでもいいが、前ぐらい隠したらどうなんだ』
『前がなんだというのだ! お前はなにを言っているのだ! なぜ明の言葉を話せるのだ!?』

 娘の口調は変わらない。
 どうも感覚がこちらとは絶望的に違うらしい。格之進の片眉がずり上がった。

『俺の儒学の師匠が明の人だからだ。勉学の必要上言葉を覚えただけだ』
 まだ目を回している八兵衛の頭を岩にもたれさせながら言った。

 娘の構えが緩んだ。驚いた顔になる。
『儒学の……? な、名前は! 名前はなんと?』
『朱老師だ。――朱舜水』

 娘の表情が劇的に変化した。
 さながら、暗闇の敵地から桃源郷に飛び出したかのように、ぱあっと明るくなった。

『老師! 老師はいまどこに?』
『なんだ? 老師を知っているのか? 江戸におられたのをうちのご老公がお招きして、今は水戸におられるはずだ。――俺たちはその水戸へ帰る途中だよ』

 娘の顔が固まった。

 目を見開いたまま口をぐっと引き結んで、ぐぐっと何かをこらえるような顔になったかと思うと、次の瞬間、開いた両目からぽろぽろと涙があふれだした。
 格之進があっけにとられていると、娘は顔を崩してわあっと叫ぶと、格之進の首っ玉にしがみついてわあわあと泣き出した。

「お――おい――」
 驚いたのは格之進だ。

 素っ裸の若い娘に抱きつかれて泣かれているのだ。慌てない方がどうかしている。
 押し付けられる乳房の感触が肌にじかに伝わる。
 思わず格之進の鼓動が早くなった。

 なんでこんなに極端な性格なのだ、この娘は。

 当然のことながら周囲からは俄然注目の的である。漁師風の男がにやにやしながら格之進を見ていた。
「おいおい兄さん、続きは湯宿の寝床でやってくんねえかな」
「いや――違うんだ、これは……」
 珍しく格之進があたふたする。


『船旅……辛かった、長かった。いつも誰かに追われる怖さでずっと眠れなかった。父も兄も殺された。次は私。不安ばっかりの旅、怖かったよ、辛かったよ……』
 格之進が振り払おうと手に力を込めかけた時に、娘のか細いつぶやきが聞こえた。
 手の力がふと緩んだ。

 いかに心得があるとは言え、所詮はまだうら若い娘だった。
 独り異国への旅路は、娘にとってはそれなりに永く、辛かったのであろう。

 優しく肩を撫でた。ふと、手が止まる。


 下を向いた格之進の目に入ったのは、娘の左肩から斜め下に走った、塞がってからまだそう時間の経っていない刀傷だった。







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