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第6章「讃洲旺院非時陰歌」
第84話「なんてきかんぼなんでしょう、子猫ちゃんをいじめるなんて」
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ファンとヴィーの師はキン・トゥといい、初代太守から駿馬の旗を授けられ、今し方も口にした「駿馬の旗の下、遍く技術を統合せよ」という言葉を受け取った人物である。格の高い精剣の数が増える以前は、その剣腕を表す言葉は限りがなかった。
御流儀は剣技こそ忘れられて久しいが、それ以外の分野に於いては未だにドュフテフルスの国立学院で必須科目なのだから、その名はエルがいうまでもなく――、
「大変な才人なのです」
エルが紹介する通り、草庵を構成する居室は書物の香りに包まれていた。その全てが御流儀に組み込まれていった知識群である。
そわそわした気分にさせられているザキにとっては、その全てが珍しい。
「ファンの先生?」
そもそも本を読む経験すらないオークの娘である。習慣付いていない事は真新しく、また熟している相手は凄まじい知恵者に見えている。
事実、知恵者であり、ファンにとっては掛け替えのない師だ。
「そう。厳しかった」
師が眼前にいるからか、ファンもいつもの戯けた調子がない。ここの敷居を跨いだ以上、ファンは大道芸人ではなく、御流儀を継承した剣士の一人なのだから、キン・トゥは当然という風に鼻をしゃくり上げ、笑う。。
「厳しい記憶こそ、後から思い出したら良い思い出になるんじゃ」
殊更、ヴィーとファンには厳しかった覚えすら、双方にある。
その中でもファンが覚えているのは、ここへ来る道々、見てきた塩田と遠浅の海岸。
「近所の奴らに混じって、塩田の手伝いとかさせられました。あと、砂浜を延々と走るとか」
剣を振るより、走っていた記憶の方が多いというファンだが、決して泣き言ではない。下肢の強化、安定化のため、山や砂浜を走る事は理に適ってるし、ファンも大事と自覚している。
エルも「大変そうでした」というくらいだから覚えていた。しかし汗だく、埃まみれになりながら、息を切らせて戻ってきたファンとヴィーの姿は、ただ走れば良いという事はなかった。
――剣を振るう技術ではなく、剣を自在に操る身体を備えようとしていました。
手段の目的化が起きなかった事は、ファンとヴィーに素養があっただけでなく、キン・トゥの教え方が良かったからだ。
ただファンも自嘲気味になる事もある。
「けど、クマが出た事だけは、あんまり思い出したくない思い出ですけどね」
ただし、そういえる事こそがキン・トゥのいう「苦しい思い出こそ、後になれば良い思い出になる」を証明しており、笑って話せる事ならば、年少組――特にザキは目をキラキラさてる。
「クマ? それで、どうなったの!?」
「どう?」
何を訊かれたのかわかっていないファンが目を瞬かせるのだが、ザキはギュッと握った両手を胸の前で構えると、
「戦ったんでしょ?」
そしてファンの事であるから、勝ったと思っている。
「いいや、どうやって逃げようか考えるだけで精一杯だった」
「えー」
ファンの答えに、想像通りではないと唇を突き出すザキであったが、パッと表情を輝かせると、キン・トゥの方を向く。
「あ、じゃあファンの先生が助けてくれた?」
ファンよりも上手の遣い手ならば、クマを一刀両断にする事も不可能ではない、と思うのだが、キン・トゥも首を横に振り、
「いや、知らんかった。後から聞いて目を回しそうになったわ」
「……じゃあ、どうやって逃げたの?」
ザキの目はエルへ移った。オークの目から見ても、クマは驚異だ。
「クマは前足が短いので、下り坂を走って追いかけられないのです」
「そうやって逃げた」
ファンの大きな頷きに皆、笑い出すのだが、ザキはぷっと頬を膨らませ、
「つまんないー」
ファンの事であるから、颯爽とクマを倒して喝采を浴びていると思っていたのだが、現実はファンとヴィーは全力疾走で逃げたと聞いては、幼いザキにはつまらなく感じる。
「ザキ、失礼でしょ」
コバックが叱った。クマと出会って立ち向かうなど命知らずの業であり、無事を喜ぶのが筋だ。
「無事だったから、ファンさんはザキやインフゥを助けてくれているんでしょう?」
「……ごめんなさい」
言い聞かされれば、ザキも分からず屋ではなく、ファンも「いいさ、いいさ」と笑うのみ。
キン・トゥもバンッとファンの背を叩き、
「これも、寸劇のネタにせい」
笑って水に流せる事が強さでもある、と心得ている。
決して厳しいだけの師ではないのだが――、
「流石、インフゥの先生の先生!」
ザキが漏らした一言は、聞き逃せない。
「何?」
キン・トゥがザキに向かって顰めっ面を向けるのだから、ファン派思わず頬を引きつらせてしまう。
――あ、マズ……。
ファンは御流儀の継承者ではあるが、弟子を取る資格は得ていない。
インフゥの先生――つまり、インフゥを弟子にしたという事は、重大な違反行為である。
ザキに悪気はないのだが、この場合、悪気がないからこそたちが悪い。
「インフゥに、剣の使い方を教えてくれたのがファンで、そのファンに剣の使い方を教えたのが、先生なんでしょ?」
「いや、師匠、これは――」
弁明しようとするファンであったが、キン・トゥは一睨みでファンを黙らせ、
「エルと二人で、町へ買い出しへ行ってこい。ちと長い話になるぞ」
ただし口調は厳しいものであったが、内容の方は柔らかだった。
御流儀は剣技こそ忘れられて久しいが、それ以外の分野に於いては未だにドュフテフルスの国立学院で必須科目なのだから、その名はエルがいうまでもなく――、
「大変な才人なのです」
エルが紹介する通り、草庵を構成する居室は書物の香りに包まれていた。その全てが御流儀に組み込まれていった知識群である。
そわそわした気分にさせられているザキにとっては、その全てが珍しい。
「ファンの先生?」
そもそも本を読む経験すらないオークの娘である。習慣付いていない事は真新しく、また熟している相手は凄まじい知恵者に見えている。
事実、知恵者であり、ファンにとっては掛け替えのない師だ。
「そう。厳しかった」
師が眼前にいるからか、ファンもいつもの戯けた調子がない。ここの敷居を跨いだ以上、ファンは大道芸人ではなく、御流儀を継承した剣士の一人なのだから、キン・トゥは当然という風に鼻をしゃくり上げ、笑う。。
「厳しい記憶こそ、後から思い出したら良い思い出になるんじゃ」
殊更、ヴィーとファンには厳しかった覚えすら、双方にある。
その中でもファンが覚えているのは、ここへ来る道々、見てきた塩田と遠浅の海岸。
「近所の奴らに混じって、塩田の手伝いとかさせられました。あと、砂浜を延々と走るとか」
剣を振るより、走っていた記憶の方が多いというファンだが、決して泣き言ではない。下肢の強化、安定化のため、山や砂浜を走る事は理に適ってるし、ファンも大事と自覚している。
エルも「大変そうでした」というくらいだから覚えていた。しかし汗だく、埃まみれになりながら、息を切らせて戻ってきたファンとヴィーの姿は、ただ走れば良いという事はなかった。
――剣を振るう技術ではなく、剣を自在に操る身体を備えようとしていました。
手段の目的化が起きなかった事は、ファンとヴィーに素養があっただけでなく、キン・トゥの教え方が良かったからだ。
ただファンも自嘲気味になる事もある。
「けど、クマが出た事だけは、あんまり思い出したくない思い出ですけどね」
ただし、そういえる事こそがキン・トゥのいう「苦しい思い出こそ、後になれば良い思い出になる」を証明しており、笑って話せる事ならば、年少組――特にザキは目をキラキラさてる。
「クマ? それで、どうなったの!?」
「どう?」
何を訊かれたのかわかっていないファンが目を瞬かせるのだが、ザキはギュッと握った両手を胸の前で構えると、
「戦ったんでしょ?」
そしてファンの事であるから、勝ったと思っている。
「いいや、どうやって逃げようか考えるだけで精一杯だった」
「えー」
ファンの答えに、想像通りではないと唇を突き出すザキであったが、パッと表情を輝かせると、キン・トゥの方を向く。
「あ、じゃあファンの先生が助けてくれた?」
ファンよりも上手の遣い手ならば、クマを一刀両断にする事も不可能ではない、と思うのだが、キン・トゥも首を横に振り、
「いや、知らんかった。後から聞いて目を回しそうになったわ」
「……じゃあ、どうやって逃げたの?」
ザキの目はエルへ移った。オークの目から見ても、クマは驚異だ。
「クマは前足が短いので、下り坂を走って追いかけられないのです」
「そうやって逃げた」
ファンの大きな頷きに皆、笑い出すのだが、ザキはぷっと頬を膨らませ、
「つまんないー」
ファンの事であるから、颯爽とクマを倒して喝采を浴びていると思っていたのだが、現実はファンとヴィーは全力疾走で逃げたと聞いては、幼いザキにはつまらなく感じる。
「ザキ、失礼でしょ」
コバックが叱った。クマと出会って立ち向かうなど命知らずの業であり、無事を喜ぶのが筋だ。
「無事だったから、ファンさんはザキやインフゥを助けてくれているんでしょう?」
「……ごめんなさい」
言い聞かされれば、ザキも分からず屋ではなく、ファンも「いいさ、いいさ」と笑うのみ。
キン・トゥもバンッとファンの背を叩き、
「これも、寸劇のネタにせい」
笑って水に流せる事が強さでもある、と心得ている。
決して厳しいだけの師ではないのだが――、
「流石、インフゥの先生の先生!」
ザキが漏らした一言は、聞き逃せない。
「何?」
キン・トゥがザキに向かって顰めっ面を向けるのだから、ファン派思わず頬を引きつらせてしまう。
――あ、マズ……。
ファンは御流儀の継承者ではあるが、弟子を取る資格は得ていない。
インフゥの先生――つまり、インフゥを弟子にしたという事は、重大な違反行為である。
ザキに悪気はないのだが、この場合、悪気がないからこそたちが悪い。
「インフゥに、剣の使い方を教えてくれたのがファンで、そのファンに剣の使い方を教えたのが、先生なんでしょ?」
「いや、師匠、これは――」
弁明しようとするファンであったが、キン・トゥは一睨みでファンを黙らせ、
「エルと二人で、町へ買い出しへ行ってこい。ちと長い話になるぞ」
ただし口調は厳しいものであったが、内容の方は柔らかだった。
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