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アルブレヒト
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アルブレヒトは、ふと足を止めて空を見上げた。
近頃は荒れた天気が続いていたが、今日は珍しく快晴らしい。
青い空を眺めながら、ふと昔のことを思い出す。
懐かしい王城の姿を思い描こうとした。
だが、もはやその記憶は曖昧で、細部まで思い出すことはできない。
今もはっきりと思い出せるのは、白薔薇が咲き誇る庭園だけだ。その庭園すら、今はどうなっているかわからない。
アルブレヒトは、感傷を振り払うように首を振った。
上着を脱ぐと、その裏地に縫い付けられていた刺繍を見る。
さきほどノエリアから手渡されたものと同じ、守護の紋様。
まだ両親が生きていた頃、よく遊びにきていたイースィ王国の公爵令嬢からもらったものだ。
ふたつを見比べて、アルブレヒトは笑みを浮かべる。
(これをノエリアからもらったのは、二回目だ)
彼女は下手だと言っていたが、こうして並べるとたしかに上達しているのがわかる。古いものは、ノエリアが七歳のとき、彼女の母親の手を借りてアルブレヒトのために作ってくれたものだ。
あの日。
刺客は、母が何とか逃がしてくれたアルブレヒトとカミラに容易に追いつき、その刃をふたりにも向けた。
何とかカミラだけは守ろうとして抵抗したが、まだ十三歳の少年と、凄腕の刺客ではまったく相手にならなかった。
斬られ、崖下に蹴り落されたが、この紋様を刺繍した上着がかろうじて引っかかり、命拾いをしたのだ。
あのときの上着は血塗れになってしまったが、この紋様だけは丁寧に取り外し、今でもこうして身に付けていた。
アルブレヒトは、祈りを捧げるように瞳を閉じる。
もう一度、同じものをもらえるとは思わなかった。
だがノエリアは昔のことも、この古い紋様のことも覚えてはいないだろう。
それどころか、王城の庭園で交わした約束さえも忘れてしまっている。
だが、あの事件のことを忘れることができたからこそ、彼女はもう一度笑えるようになったのだ。
花のように可憐な笑顔が永遠に失われてしまったかもしれないと思えば、ノエリアが約束を忘れてしまったことなど、些細なことに思える。
それに、もし覚えていたとしても、両親が殺され、自分も死んだことになっているあの事件のことを知ったら、彼女の心はふたたび砕け散ってしまったに違いない。
「ノエリアが覚えていなくて、本当によかった」
思わずそう呟く。
このまま何事もなく別れ、彼女の幸せを祈ろう。
イースィ王国にさえ無事に戻ることができれば、ノエリアには最強の守護者がついている。
セリノならば、もう二度と妹に不幸な結婚をさせないだろう。
再会してから、何度そう思ったことか。
それなのに、彼女が自分のために作ってくれたこのお守りが、忘れかけていた闘志を呼び覚ましてくれた。
ノエリアが他の男と結婚するところだったという事実に、怒りとも焦りと言えるような感情が沸き起る。
しかも相手は、あの男。
アルブレヒトからすべてを奪ったイバンだ。
これ以上、あの男の横暴を許してはいけない。
――アル、間違えないで。
そう囁いたノエリアの声が、耳に蘇る。
アルブレヒトは、手の中にあるふたつの紋様を握りしめた。
愛するノエリアが、無事を祈って作ってくれたものだ。他の何よりも価値のあるものに違いない。
「ノエリア」
アルブレヒトは小さく、その名前を呟いた。
「ああ、そうだ。俺は間違っていた」
治安の悪化した祖国。
暗い表情の人々。
密告を恐れ、疑心暗鬼になっている貴族達。
仲間達が本当に望んでいたのは名誉の回復などではなく、美しいロイナン王国を取り戻すことだ。
それこそが、流された血に報いる唯一の方法だった。
ノエリアはそれを思い出させてくれた。
当時十三歳だったアルブレヒトにとって、敵は強大だった。
次々に奪われていく大切な人達。
追い詰められる恐怖によって、いつしか敵を打ち倒すという気持ちが薄れ、ただ仲間達を守れたらいいと言うものに変化していた。
けれど、あの男はとうとう大切な思い出の少女にまで手を伸ばした。
「イバン。お前が奪ったものはすべて、返してもらう」
この美しいロイナン王国を。
仲間達の名誉を。
そして何よりも大切だった、愛する少女を。
アルブレヒトは前を見据えて歩き出す。
もう迷うことはないだろう。
ノエリアより遅れてアジトに到着したアルブレヒトを迎えたのは、真っ青な顔をしたカミラと、彼女を支えるように立っているライードだった。
「何があった?」
ただならぬ雰囲気を察して声をかけると、カミラは険しい顔をしてアルブレヒトに詰め寄る。
「ノエリアが戻っていないの」
自分よりも先に戻ったはずだと、アルブレヒトは険しい顔をして歩いてきた道を振り返る。
とりあえずカミラを落ち着かせ、護衛にライードを傍に置いて、アルブレヒトは周囲の様子を探る。
最近は王都近くまで足を伸ばしていたから、ロイナン国王の配下と遭遇する危険も増えてきた。けれどノエリアの兄であるセリノの手の者も、近くまで来ていたはずだ。
念入りの調査をした結果、ロイナン国王の配下は、麓までは来ていたが、山中には足を踏み入れていないことが判明した。
ならばノエリアを連れていったのは、セリノの手の者に違いない。」
それを聞いてカミラは少し落ち着いた様子だったが、それでも完全に納得したわけではなさそうだ。
「そうだとしても、どうしてあんなふうに連れ去る必要があったの?」
「イバンの情報規制によって、俺達は盗賊としてしか認識されていない。そのせいだ」
「……そう。本当に、大丈夫なの?」
「ああ。セリノなら必ず、ノエリアを見つけ出すと思っていた」
確信に満ちたアルブレヒトの言葉で、カミラはようやく納得したようだ。
「よかった。これでノエリアの身は安全なのね。でもせめて、最後に挨拶をしたかったわ」
「あの男を倒せば、すぐに会える」
そう言って笑うアルブレヒトを、カミラは驚いたように見つめる。
「ノエリアに、何か言われたの?」
「間違えるな。そう言われただけだ。だが、たしかに俺は間違っていた。キリーが、マクシミリアンが、ディーデリヒが望んでいたのは、自分達の名誉を回復させることではない。昔の、あの美しいロイナン王国を取り戻すことだった」
名前を呼ぶと、懐かしい仲間達の顔が浮かんできた。
もうずっと、思い出すだけで苦痛だったのに、今は彼らが力を貸してくれているような気がする。
「ああ、アル。やっぱりノエリアだけが、あなたを動かすことができたのね」
その言葉で、自分がどれだけカミラを、そしてライードをはじめとした仲間達を苦しめていたのか悟る。
「すまない。俺はいつのまにか、あのイバンの術中に嵌っていたようだ。だがもう迷わない。一階に全員を集めてくれ。最後の作戦会議だ」
カミラの頬を涙が流れ落ちる。
気丈にもそれを拭って、彼女は頷いた。
「ええ、今すぐに」
走り出すカミラを見送ったライードが、アルブレヒトを見つめた。
「ライード、会議が終わったらカミラを連れて、国境を目指してくれ。ノエリアから話を聞いたセリノが、迎えをよこしてくれるはずだ」
「もっと護衛が必要では?」
「いや。大勢のほうが目立つ。イバンが真に脅威に思っているのは、俺ではなくカミラだ。彼女だけは何としても守らなくてはならない。それに彼女を守るのに、お前以上の適任はいないと思っている。……酷なことかもしれないが」
五年ほど前から、ふたりは恋仲だった。
それを知っているのに、引き裂くような真似をしている。だがアルブレヒトの言葉に、ライードは穏やかな笑みを浮かべて首を振る。
「正直に打ち明けてしまうと、このままふたりで逃げてしまおうかと話したこともありました。イースィ王国の王女と、爵位をはく奪された貴族の息子では、とても釣り合わない」
カミラはもう死んだと思われている。
身分を明かさずにどこか遠くで暮らせば、添い遂げることは可能だった。
「ですが、主や仲間を裏切ってまで得た幸せに、価値などないと気が付いたのです」
そう言うライードの瞳には、迷いは一切なかった。
「イバンは、私にとっても父の仇です。必ず倒しましょう」
「ああ、必ず」
おそらくどちらも、激しい戦闘になるだろう。
だがこれ以上、何も奪われるわけにはいかなかった。
近頃は荒れた天気が続いていたが、今日は珍しく快晴らしい。
青い空を眺めながら、ふと昔のことを思い出す。
懐かしい王城の姿を思い描こうとした。
だが、もはやその記憶は曖昧で、細部まで思い出すことはできない。
今もはっきりと思い出せるのは、白薔薇が咲き誇る庭園だけだ。その庭園すら、今はどうなっているかわからない。
アルブレヒトは、感傷を振り払うように首を振った。
上着を脱ぐと、その裏地に縫い付けられていた刺繍を見る。
さきほどノエリアから手渡されたものと同じ、守護の紋様。
まだ両親が生きていた頃、よく遊びにきていたイースィ王国の公爵令嬢からもらったものだ。
ふたつを見比べて、アルブレヒトは笑みを浮かべる。
(これをノエリアからもらったのは、二回目だ)
彼女は下手だと言っていたが、こうして並べるとたしかに上達しているのがわかる。古いものは、ノエリアが七歳のとき、彼女の母親の手を借りてアルブレヒトのために作ってくれたものだ。
あの日。
刺客は、母が何とか逃がしてくれたアルブレヒトとカミラに容易に追いつき、その刃をふたりにも向けた。
何とかカミラだけは守ろうとして抵抗したが、まだ十三歳の少年と、凄腕の刺客ではまったく相手にならなかった。
斬られ、崖下に蹴り落されたが、この紋様を刺繍した上着がかろうじて引っかかり、命拾いをしたのだ。
あのときの上着は血塗れになってしまったが、この紋様だけは丁寧に取り外し、今でもこうして身に付けていた。
アルブレヒトは、祈りを捧げるように瞳を閉じる。
もう一度、同じものをもらえるとは思わなかった。
だがノエリアは昔のことも、この古い紋様のことも覚えてはいないだろう。
それどころか、王城の庭園で交わした約束さえも忘れてしまっている。
だが、あの事件のことを忘れることができたからこそ、彼女はもう一度笑えるようになったのだ。
花のように可憐な笑顔が永遠に失われてしまったかもしれないと思えば、ノエリアが約束を忘れてしまったことなど、些細なことに思える。
それに、もし覚えていたとしても、両親が殺され、自分も死んだことになっているあの事件のことを知ったら、彼女の心はふたたび砕け散ってしまったに違いない。
「ノエリアが覚えていなくて、本当によかった」
思わずそう呟く。
このまま何事もなく別れ、彼女の幸せを祈ろう。
イースィ王国にさえ無事に戻ることができれば、ノエリアには最強の守護者がついている。
セリノならば、もう二度と妹に不幸な結婚をさせないだろう。
再会してから、何度そう思ったことか。
それなのに、彼女が自分のために作ってくれたこのお守りが、忘れかけていた闘志を呼び覚ましてくれた。
ノエリアが他の男と結婚するところだったという事実に、怒りとも焦りと言えるような感情が沸き起る。
しかも相手は、あの男。
アルブレヒトからすべてを奪ったイバンだ。
これ以上、あの男の横暴を許してはいけない。
――アル、間違えないで。
そう囁いたノエリアの声が、耳に蘇る。
アルブレヒトは、手の中にあるふたつの紋様を握りしめた。
愛するノエリアが、無事を祈って作ってくれたものだ。他の何よりも価値のあるものに違いない。
「ノエリア」
アルブレヒトは小さく、その名前を呟いた。
「ああ、そうだ。俺は間違っていた」
治安の悪化した祖国。
暗い表情の人々。
密告を恐れ、疑心暗鬼になっている貴族達。
仲間達が本当に望んでいたのは名誉の回復などではなく、美しいロイナン王国を取り戻すことだ。
それこそが、流された血に報いる唯一の方法だった。
ノエリアはそれを思い出させてくれた。
当時十三歳だったアルブレヒトにとって、敵は強大だった。
次々に奪われていく大切な人達。
追い詰められる恐怖によって、いつしか敵を打ち倒すという気持ちが薄れ、ただ仲間達を守れたらいいと言うものに変化していた。
けれど、あの男はとうとう大切な思い出の少女にまで手を伸ばした。
「イバン。お前が奪ったものはすべて、返してもらう」
この美しいロイナン王国を。
仲間達の名誉を。
そして何よりも大切だった、愛する少女を。
アルブレヒトは前を見据えて歩き出す。
もう迷うことはないだろう。
ノエリアより遅れてアジトに到着したアルブレヒトを迎えたのは、真っ青な顔をしたカミラと、彼女を支えるように立っているライードだった。
「何があった?」
ただならぬ雰囲気を察して声をかけると、カミラは険しい顔をしてアルブレヒトに詰め寄る。
「ノエリアが戻っていないの」
自分よりも先に戻ったはずだと、アルブレヒトは険しい顔をして歩いてきた道を振り返る。
とりあえずカミラを落ち着かせ、護衛にライードを傍に置いて、アルブレヒトは周囲の様子を探る。
最近は王都近くまで足を伸ばしていたから、ロイナン国王の配下と遭遇する危険も増えてきた。けれどノエリアの兄であるセリノの手の者も、近くまで来ていたはずだ。
念入りの調査をした結果、ロイナン国王の配下は、麓までは来ていたが、山中には足を踏み入れていないことが判明した。
ならばノエリアを連れていったのは、セリノの手の者に違いない。」
それを聞いてカミラは少し落ち着いた様子だったが、それでも完全に納得したわけではなさそうだ。
「そうだとしても、どうしてあんなふうに連れ去る必要があったの?」
「イバンの情報規制によって、俺達は盗賊としてしか認識されていない。そのせいだ」
「……そう。本当に、大丈夫なの?」
「ああ。セリノなら必ず、ノエリアを見つけ出すと思っていた」
確信に満ちたアルブレヒトの言葉で、カミラはようやく納得したようだ。
「よかった。これでノエリアの身は安全なのね。でもせめて、最後に挨拶をしたかったわ」
「あの男を倒せば、すぐに会える」
そう言って笑うアルブレヒトを、カミラは驚いたように見つめる。
「ノエリアに、何か言われたの?」
「間違えるな。そう言われただけだ。だが、たしかに俺は間違っていた。キリーが、マクシミリアンが、ディーデリヒが望んでいたのは、自分達の名誉を回復させることではない。昔の、あの美しいロイナン王国を取り戻すことだった」
名前を呼ぶと、懐かしい仲間達の顔が浮かんできた。
もうずっと、思い出すだけで苦痛だったのに、今は彼らが力を貸してくれているような気がする。
「ああ、アル。やっぱりノエリアだけが、あなたを動かすことができたのね」
その言葉で、自分がどれだけカミラを、そしてライードをはじめとした仲間達を苦しめていたのか悟る。
「すまない。俺はいつのまにか、あのイバンの術中に嵌っていたようだ。だがもう迷わない。一階に全員を集めてくれ。最後の作戦会議だ」
カミラの頬を涙が流れ落ちる。
気丈にもそれを拭って、彼女は頷いた。
「ええ、今すぐに」
走り出すカミラを見送ったライードが、アルブレヒトを見つめた。
「ライード、会議が終わったらカミラを連れて、国境を目指してくれ。ノエリアから話を聞いたセリノが、迎えをよこしてくれるはずだ」
「もっと護衛が必要では?」
「いや。大勢のほうが目立つ。イバンが真に脅威に思っているのは、俺ではなくカミラだ。彼女だけは何としても守らなくてはならない。それに彼女を守るのに、お前以上の適任はいないと思っている。……酷なことかもしれないが」
五年ほど前から、ふたりは恋仲だった。
それを知っているのに、引き裂くような真似をしている。だがアルブレヒトの言葉に、ライードは穏やかな笑みを浮かべて首を振る。
「正直に打ち明けてしまうと、このままふたりで逃げてしまおうかと話したこともありました。イースィ王国の王女と、爵位をはく奪された貴族の息子では、とても釣り合わない」
カミラはもう死んだと思われている。
身分を明かさずにどこか遠くで暮らせば、添い遂げることは可能だった。
「ですが、主や仲間を裏切ってまで得た幸せに、価値などないと気が付いたのです」
そう言うライードの瞳には、迷いは一切なかった。
「イバンは、私にとっても父の仇です。必ず倒しましょう」
「ああ、必ず」
おそらくどちらも、激しい戦闘になるだろう。
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