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四、カールロット公爵令嬢は魔女である
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時間?
ルゼが何のことを言っているのか気になって、それまでの考えごとが霧散した。
『ね、お父様、もう少し頑張って』
……ああ、眠る父を励ましていたのか。時間がない。そういうことか。
さっさと消せばいいのに、ついそのまま見ていると、ルゼの顔が上がった。やつれた父と対照的な、記憶通りの華やかな美貌がろうそくの火に照らされる。
その予想外に冷めた表情は、あまり見たことがなかったものだが、後頭部で結い上げた髪を飾るリボンが相変わらずだ。
「……え? っ、!」
その画に引っ掛かりを覚えた私の声に、ちょうど反応したかのようなタイミングで、ルゼがこちらを見た。一瞬、その青い瞳と視線がぶつかったような錯覚に陥る。
思わず息を詰めたが、ルゼの顔はすぐに逸らされ、視線はその手元に向かった。
――ばかばかしい、私は何を驚いているのだろう。見られていると、向こうにわかるわけがないのに。
『……そろそろ、森まで噂は届いたかしら』
わかるわけが。
……森?
ルゼの言葉は、暗い寝室で誰にも拾われずに消えていく。
そのさまを、私たちはどうすることもできずに見つめている。
『あの御者が、伝えてくれたのかしら』
御者。
『お姉様は、どう思ったのかしら。先生は、エリセは……ああ、あの子、もうエリセじゃないんだっけ』
そこで、ルゼは笑った。懐かしむように。
それきり意味のあることは呟かずに立ち上がり、燭台を持って寝室の出口へと向かう。
『――』
はっきりした言葉は聞こえてこないけれど、鼻歌がかすかに聞こえた。
私もよく知っているメロディ。ルゼが、日頃よく歌っていた曲。
――そして、塔の部屋の、水晶のピアノが奏でた曲だ。
歌うルゼが、部屋を出る直前。燭台を持たない方の手が、父親に向かって空気を払うような仕種をした。魔法をかけるときのフラウリッツに、よく似た動き。
その拍子に咳き込んだ父に、ルゼは満足げに笑って扉を閉めた。
「……これ、どういうこと」
私の呟きを無視して、鏡像が歪む。あっという間に、父の寝室は鏡の中から消えた。
そして呆然とした顔の私と、その背後に立つ、銀の髪の魔法使いが映し出された。
「……フラウリッツ」
何も言わない部屋の主に、振り返る。床に黒い羽が落ちていた。
視線を上げた先にある緑の目に、驚きと、緊張が浮かんでいる。肩で小さく息をしているのは、急いで飛んで来たからかもしれない。
「なんだレダリカ、やっぱ知ってたんじゃない」
張りつめた空気を裂くように、能天気な声が割って入った。
部屋の出入り口には、小包を腕に抱えたダリエルと、ロザロニアも立っていた。
そのロザロニアの顔の蒼白なことといったら。
横でベネスが動いた。「ダリエルっ」と名を呼んだ彼は、フラウリッツとすれ違い様に、腕を捕まれ足を止めた。おかげでダリエルの口は、止まらなかった。
「さっき聞いてきた魔女のことよ。ほら、森の中でさ」
ダリエルの、オレンジ色に塗られた爪が飾る細い指が、私の方を指差す。その向こうにある、魔法の鏡を。
「今の、リボンの子よ」
衝撃で、頭がぐらんと揺れた気がした。実際には、私はちゃんと絨毯の敷かれた床の上に立っている。
立ち竦んでいる。
急に重みを増したように感じる水差しを手にしたまま、私はもう一度、何も言わずに見下ろしてくる緑の目を凝視した。
「……そうなの?」
フラウリッツは瞬きもしないで、静かに私を見返してくる。緑のガラスのような目に、間の抜けた私の顔が映っていた。
薄い唇は開かなかった。否定しなかった。それが答えなのか。
「あとねぇ、干されたせいで遅くなったけど」
私たちの雰囲気に何も感じないのか、気にしないのか、またしてもダリエルが場違いな声を出した。
「これ。ヴィエリタからフラウリッツに。タダで贈り物なんて、あのケチなババアがめずらしーわよね。って、あら、ヤギが黒くなった」
ずかずかと部屋に入ってきて、どか、と机に小包を置いたダリエルの言葉に、押し黙ったままの私たちの視線が、机の端の黒い木箱に吸い寄せられた。
「……フラウリッツ」
師匠である人は、ある予感に押された私の固い声の意図を正確に汲んでくれた。撫でられた木箱から、青い封筒が取り出される。
「君あてだよ」
震えそうになるのをこらえて受け取ると、封筒の表に『カールロットの魔女』と書かれていた。自分の心臓の音を聞きながら開けて、便箋の上に目を走らせる。
『親愛なるお姉様
そろそろお城での生活にも慣れましたでしょうか。寒い季節は、鶏の血が固まりやすくて大変だったでしょう。
気分転換に、たまには王宮にいらっしゃいませんか。ヴァンフリート様もお父様も、きっと泣いて喜びます。
でも、私が一番、お姉様に会える日を心待ちにしていることを、どうかお忘れにならないで。急かしても仕方のないことですが、あまり焦らさないでくださると嬉しいです。
なにせ、もう時間もなさそうなので。
ルゼ』
見慣れた文字。時間がないという、さっき聞いたばかりの言葉。
魔女しか使えないはずのヤギで送られてきた、ルゼからの手紙。
私は便箋から顔を上げた。今度は確信を持って、フラウリッツの目を見つめる。
「そうなのね」
ついさっき自分が投げかけた問いに、自分で結論を出す。フラウリッツは静かにそれを見守るだけで、否定も肯定も、言い訳もしない。
――初めてここに来た日。この部屋の寝台に横たわって盗み聞きした、ロザロニアの言葉。
『フラウリッツってば、王都のことならデライラに聞けばいいじゃないか』
二人が知っていて、王都にいて、でも私が一度も会っていない魔女。隠すように取り上げられた、水晶のピアノに彫られた名前。
「ルゼが、魔女“デライラ”なのね」
「……ああ」
それは、言いたいことをいくつも飲み込んで、それでも残った最低限の言葉のようだった。
「この城で洗礼した、僕の、最初の弟子だった」
私たち四人、数秒のあいだは死んだ貝のように口を閉じていた。私はフラウリッツを見つめ、他の三人は私を見つめ。
そんな中で唯一ダリエルの「え、え、何?」という間抜けな声が響いていて、それが実に滑稽だった。
なんてこと。
カールロット公爵令嬢は、魔女である。
二人とも。
ルゼが何のことを言っているのか気になって、それまでの考えごとが霧散した。
『ね、お父様、もう少し頑張って』
……ああ、眠る父を励ましていたのか。時間がない。そういうことか。
さっさと消せばいいのに、ついそのまま見ていると、ルゼの顔が上がった。やつれた父と対照的な、記憶通りの華やかな美貌がろうそくの火に照らされる。
その予想外に冷めた表情は、あまり見たことがなかったものだが、後頭部で結い上げた髪を飾るリボンが相変わらずだ。
「……え? っ、!」
その画に引っ掛かりを覚えた私の声に、ちょうど反応したかのようなタイミングで、ルゼがこちらを見た。一瞬、その青い瞳と視線がぶつかったような錯覚に陥る。
思わず息を詰めたが、ルゼの顔はすぐに逸らされ、視線はその手元に向かった。
――ばかばかしい、私は何を驚いているのだろう。見られていると、向こうにわかるわけがないのに。
『……そろそろ、森まで噂は届いたかしら』
わかるわけが。
……森?
ルゼの言葉は、暗い寝室で誰にも拾われずに消えていく。
そのさまを、私たちはどうすることもできずに見つめている。
『あの御者が、伝えてくれたのかしら』
御者。
『お姉様は、どう思ったのかしら。先生は、エリセは……ああ、あの子、もうエリセじゃないんだっけ』
そこで、ルゼは笑った。懐かしむように。
それきり意味のあることは呟かずに立ち上がり、燭台を持って寝室の出口へと向かう。
『――』
はっきりした言葉は聞こえてこないけれど、鼻歌がかすかに聞こえた。
私もよく知っているメロディ。ルゼが、日頃よく歌っていた曲。
――そして、塔の部屋の、水晶のピアノが奏でた曲だ。
歌うルゼが、部屋を出る直前。燭台を持たない方の手が、父親に向かって空気を払うような仕種をした。魔法をかけるときのフラウリッツに、よく似た動き。
その拍子に咳き込んだ父に、ルゼは満足げに笑って扉を閉めた。
「……これ、どういうこと」
私の呟きを無視して、鏡像が歪む。あっという間に、父の寝室は鏡の中から消えた。
そして呆然とした顔の私と、その背後に立つ、銀の髪の魔法使いが映し出された。
「……フラウリッツ」
何も言わない部屋の主に、振り返る。床に黒い羽が落ちていた。
視線を上げた先にある緑の目に、驚きと、緊張が浮かんでいる。肩で小さく息をしているのは、急いで飛んで来たからかもしれない。
「なんだレダリカ、やっぱ知ってたんじゃない」
張りつめた空気を裂くように、能天気な声が割って入った。
部屋の出入り口には、小包を腕に抱えたダリエルと、ロザロニアも立っていた。
そのロザロニアの顔の蒼白なことといったら。
横でベネスが動いた。「ダリエルっ」と名を呼んだ彼は、フラウリッツとすれ違い様に、腕を捕まれ足を止めた。おかげでダリエルの口は、止まらなかった。
「さっき聞いてきた魔女のことよ。ほら、森の中でさ」
ダリエルの、オレンジ色に塗られた爪が飾る細い指が、私の方を指差す。その向こうにある、魔法の鏡を。
「今の、リボンの子よ」
衝撃で、頭がぐらんと揺れた気がした。実際には、私はちゃんと絨毯の敷かれた床の上に立っている。
立ち竦んでいる。
急に重みを増したように感じる水差しを手にしたまま、私はもう一度、何も言わずに見下ろしてくる緑の目を凝視した。
「……そうなの?」
フラウリッツは瞬きもしないで、静かに私を見返してくる。緑のガラスのような目に、間の抜けた私の顔が映っていた。
薄い唇は開かなかった。否定しなかった。それが答えなのか。
「あとねぇ、干されたせいで遅くなったけど」
私たちの雰囲気に何も感じないのか、気にしないのか、またしてもダリエルが場違いな声を出した。
「これ。ヴィエリタからフラウリッツに。タダで贈り物なんて、あのケチなババアがめずらしーわよね。って、あら、ヤギが黒くなった」
ずかずかと部屋に入ってきて、どか、と机に小包を置いたダリエルの言葉に、押し黙ったままの私たちの視線が、机の端の黒い木箱に吸い寄せられた。
「……フラウリッツ」
師匠である人は、ある予感に押された私の固い声の意図を正確に汲んでくれた。撫でられた木箱から、青い封筒が取り出される。
「君あてだよ」
震えそうになるのをこらえて受け取ると、封筒の表に『カールロットの魔女』と書かれていた。自分の心臓の音を聞きながら開けて、便箋の上に目を走らせる。
『親愛なるお姉様
そろそろお城での生活にも慣れましたでしょうか。寒い季節は、鶏の血が固まりやすくて大変だったでしょう。
気分転換に、たまには王宮にいらっしゃいませんか。ヴァンフリート様もお父様も、きっと泣いて喜びます。
でも、私が一番、お姉様に会える日を心待ちにしていることを、どうかお忘れにならないで。急かしても仕方のないことですが、あまり焦らさないでくださると嬉しいです。
なにせ、もう時間もなさそうなので。
ルゼ』
見慣れた文字。時間がないという、さっき聞いたばかりの言葉。
魔女しか使えないはずのヤギで送られてきた、ルゼからの手紙。
私は便箋から顔を上げた。今度は確信を持って、フラウリッツの目を見つめる。
「そうなのね」
ついさっき自分が投げかけた問いに、自分で結論を出す。フラウリッツは静かにそれを見守るだけで、否定も肯定も、言い訳もしない。
――初めてここに来た日。この部屋の寝台に横たわって盗み聞きした、ロザロニアの言葉。
『フラウリッツってば、王都のことならデライラに聞けばいいじゃないか』
二人が知っていて、王都にいて、でも私が一度も会っていない魔女。隠すように取り上げられた、水晶のピアノに彫られた名前。
「ルゼが、魔女“デライラ”なのね」
「……ああ」
それは、言いたいことをいくつも飲み込んで、それでも残った最低限の言葉のようだった。
「この城で洗礼した、僕の、最初の弟子だった」
私たち四人、数秒のあいだは死んだ貝のように口を閉じていた。私はフラウリッツを見つめ、他の三人は私を見つめ。
そんな中で唯一ダリエルの「え、え、何?」という間抜けな声が響いていて、それが実に滑稽だった。
なんてこと。
カールロット公爵令嬢は、魔女である。
二人とも。
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