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最終話 この二人は秘密と醜聞に溢れている
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王都に積もった雪が解け、東から風が吹いてくる。それはブルーラスに春が訪れる合図である。
花が咲いて、鳥が鳴いて、人々が外に出ていくのに合わせるように、屋内で開かれていた貴族たちの宴会も、それぞれの邸宅の庭までその裾野を広げるようになる。
大邸宅が並ぶ通りの一角、真新しい造りのイヴリン男爵邸も然り。
青々とした芝生の上に、いくつもの卓が出され、軽食や菓子がところ狭しと並ぶ。招待客たちは思い思いに時間を過ごし、そこかしこで笑い声が起きていた。
そんな中、悩まし気に眉を寄せたまま、庭園を横切る美しい女が二人。
面差しの似た二人は、互いに何事かをささやきながら、歩みを進めていく。女のひとりは花柄の皿を手にしており、その上ではケーキが三切れ、行儀よく並んでいた。卵色のスポンジに白いクリームと、旬の苺の断面、そしてピスタチオ色のマジパンが層をなし、つるりとした表面に丸ごとの苺が一切れにつき一つ飾られた、美しいケーキである。
「――やっぱり信用ならないわ。今からでも考え直すべき」
「姉様、そんなこと言わないで。とにかく、今はあの子に元気出してもらうのが先、でしょ?」
やがて二人は、整然と刈り揃えられた植木が立ち並ぶ庭園のすみで足を止めた。
植木と植木の狭間に、レースとリボンがたっぷりついた空色の布が丸まっており、上には金の糸玉が乗せられている。
布の塊を不審がることもなく、ケーキを持った女が口を開く。
「……シャーロット。ほら、あなたの大好きなフレジェよ。なくならないよう、姉さんが取ってきてあげたから、一緒に食べましょ!」
ことさら明るい声を出したが、布の塊は布なので返事などしようもない。
はずだったが、もそり、と金の糸玉が動いた。糸玉は布塊の上を転げ落ちる――わけもなく、ずず、と持ち上がってその下の顔を、シャーロットの青い目を姉たちに見せた。
「……」
空色のドレスを纏って髪を結い上げたシャーロットは、地面で両膝を抱えていた。陰鬱な淀みを滲ませた青い目で姉を睨みつければ、声をかけたリンディはごく、と息を呑んだ。
シャーロットは姉の手にある皿には見向きもせず、無言のまま視線だけを左右に巡らせた。そして庭園の様子を確認し終えると、また元のように立てた両膝に額をうずめる体制に戻っていく。
「……そ、そうだ、特別に、姉さんの苺あげちゃう! シャーロットだけ、上の苺が二つよ!」
「リンディ、もうおよし。あなたの慰め方じゃ、まるでシャーロットが十歳にも満たない幼子のよう」
見ていられないわ、と、それまで黙っていたグレイスが仏頂面で進み出た。
「シャーロット。あなたが気落ちするのも無理ないわ。今日の主役はあなただけど、とてもお客様の前に出る気になんかならないでしょう。でもね、大人の、この国の貴族である以上、そんな甘えは許されないのよ」
「……」
「だいたい、姉さんに言わせれば自業自得よ。一度目の破談で、あの男とは縁がなかったって、すっぱり諦めるべきだったの」
「グレイス姉様っ、なんてこと!」
空色のダンゴムシとなったシャーロットの前で、姉二人が言い合いを始める。
「だってそうでしょう。今日はシャーロットが主役であると同時に、ヴィクター・ワーガス殿も主役でしょう? 二人の婚約お披露目のお茶会なんだから」
グレイスのつんとした言葉に、シャーロットの後頭部がぴくりと揺れた。
「なのに、なんで彼はこの場にいないのかしら」
姉の凍てついた視線に口ごもりながら、リンディが皿を持ったまま反論する。
「きょ、今日はまだ、正式なものじゃないわ!」
「なんで正式なものが未だにできてないかというと、ヴィクター殿のお母様がこの婚約に猛反対してたからよね」
「う……。でも、伯爵ご本人は、義理の姉になるわたしの結婚式には出席してくれたもの!」
「リンディが招待状を送ったからね。身内になるからとは限らない。そもそも、未婚のこの子を寝室に招き入れるような男との婚約なんて、最初から認めるべきじゃなかったわ」
「そ、そりゃ、わたしだって最初はシャーロットが伯爵に遊ばれたんだと思って泣いたけど、二度目があったじゃない。ランドニアから帰ってきた後の、伯母様の屋敷で!」
「だから一夜限りの遊びじゃないって? 二夜の遊びだっただけでしょうが馬鹿ね。だいたい、あの夜、伯母様はお父様から破談の話を聞いて、あの人のことは招待していなかったのよ。それなのに何食わぬ顔で屋敷に入り込んでいたんだから、恐ろしいわ」
「それは喧嘩していたシャーロットと直接話すために、ご友人のダミアン・ロザード様が手引きなさったって、伯爵が仰ってたじゃない! ダミアン様も頷かれたし」
「どうかしら、ダミアン殿は挙動不審だったし。それに、直接我が家に会いに来ればいいことだわ」
「グレイス姉様が『二度とシャーロットに会いに来るな』って、先方に手紙送りつけたりするから!」
「何にしたって、妹をいい加減に扱うような男のもとへ、嫁にいかせられるものですか。シャーロットがかわいそうよ」
「もう二度も夜を一緒に過ごしたって噂が流れてるのに、今さら婚約解消する方がシャーロットがかわいそうっ!」
むきになったリンディが大声を出したと同時に、それまで黙りこくっていたシャーロットは立ち上がった。向き合っていた二人の姉の視線が妹へと移る。
「…………ちょっと、行ってくるわ」
地を這うようなシャーロットの声にも、グレイスは微塵も動じず「何しに?」と問いただした。どこへ、とは聞かなかった。
「……迎えに、よね?」
リンディが心配そうに確認すると。
「殴りに、よっ!」
跳ね返すように答え、シャーロットは姉の持つ皿のケーキから丸ごとの苺を三粒、次々ひったくると一息に口へ押し込んだ。そして両手で空色のスカートをガシッと掴み、誰の制止よりも早くその場から走り去っていった。
「……殴るって言った? ステューダー伯爵を?」
「…………わたしの苺、あげるって言ってないのに」
残されたのは、蒼白のリンディとため息をつくグレイス、苺を失ったフレジェ三切れ。
それから、雑談する体で聞き耳をたてていた招待客たちと、胃薬を握りしめて立ち尽くす屋敷の主人であった。
***
「ひどい、ひどいひどいひどいひどい!」
シャーロットは呪詛のように同じ言葉を繰り返しながら、馬車停めへと大股で進んでいった。
本当は、婚約披露パーティーはもっと早くに行うはずだった。
それを最初に阻んだのは、シャーロットの母親代わりを自認するグレイス。彼女は父男爵の数倍、婚約が立ち消えになった妹の心身を案じていたのだ。
心配が過ぎて横暴になりかけていた姉を説き伏せ、ヴィクターからも働きかけると、次に立ち塞がったのはヴィクターの実母を筆頭としたワーガス一族。
これにはまず、息子であり当主であるヴィクターが先に話をし、それが済んでシャーロットも挨拶に行くくだりになりかけていた。
――第三の壁は、部下に身軽でいて欲しい上司であった。
『陛下のもとへ行くので、遅れる。すまない』
そんな旨が書かれたカードを持った男がやって来たのは、パーティーの準備に奔走していた今朝のこと。男はワーガス家の使用人であった。
――よもや、望ましい部下の条件は独身であること、とでも言うのではあるまいな。
この国で最も偉い女に対し、ちらと漂う嫉妬とともに勘繰っても、来ないものは来ない。
それから、その日のシャーロットの気分は急下降したのだった。両足で立って招待客に「……ようこそ、おいでくださいました……」と呟くように言うのがやっとという有り様だった。なお伯爵が来ないと聞いた男爵は、その場で突っ伏して泣いた。
――忙しい人だとは知っていた。
仕事が大事なのはよくわかる。
これくらいで揺らぐ二人の関係ではない。
けれど、パーティーの数日前、シャーロットは突然の来客を受けていたのだ。
『男爵家出身の奥様では、ひとりで王宮に上がれないもの。伯爵も、何かと不便でしょうね。……わたくしは、いつでも、陛下に、ひいては近衛隊の方にも、お目通り願えますけれど、ね』
銀髪の客人はそう言ってにやぁ、と笑った。席を立つ直前に『ああそういえば、警察がウィンリールの森で、拾い物をしましたの。……受けとりはしましたけど、私のものではないので。良ければ、お持ちになってて』と、銀色が曇った祖母の懐中時計と、傷のついた燕のブローチを渡してきていなければ、シャーロットはおそらくその膝裏めがけて爪先で小突いていた。
結局、土産物を両手に抱え、ランドニア公爵令嬢を静かに見送ってから迎えたのが、今日である。
シャーロットは狼狽える馬丁の言葉も聞かずに馬車の扉を乱暴に開けて、乗り込んだ。
「なんなのいつでも会えるって! そんな暇なの、女王陛下とそのまわりって! この遅刻があの女の差し金だったら、人差し指から小指までおっきい指輪つけて石の部分で横っ面殴ってやるわっ!」
鼻息荒く座席に腰掛け、自ら手を伸ばして馬車の扉を閉めようとした。
――が、閉まりかけた扉が、すいとシャーロットの手から離れて外に向かって開き。
「実行しないでくださいね、俺があなたを捕まえないといけなくなるので」
「……っヴィクター!」
紅茶色の髪の男が、肩で息をしながらシャーロットの向かいの席へと乗り込んできたのである。
「遅くなりまして、すみません」
来客用の馬車停めは別にある。息が切れているヴィクターが、この屋敷に着いてからシャーロットとすれ違いになりかけていると知って、走って追いかけてきてくれたのだとわかった。
「……ううん、お勤めご苦労様。女王様の呼び出しだもの、仕方ないわよね」
息を整える男へ、シャーロットは労いの言葉をかけた。出会ったときの冷徹さからは考えられない必死さが、嬉しかった。
「いえ、呼び出されたのではなく、こちらで手配していた物が届いたので、それを取りに」
さらりと返された言葉を聞いて、固まるまでは。
「……は?」
「陛下を通して取り寄せたので、家の者には頼めなくて」
「……ふ、ふぅん。仕事、女王様の命令じゃなかったのね」
仕事は大事だ。それは、王命の仕事だけが、とは限らない。
シャーロットは自分にそう言い聞かせる。が、相手の反応に思うところがあったのか、ヴィクターの方が一瞬、顔をしかめた。
シャーロットは確かに、まずい、とでも言いたげなその顔を見逃さなかった。
「待って、もしかして仕事じゃないの?」
「……」
ヴィクターの視線が馬車の中をさまよった。答えあぐねているようだった。
シャーロットが身を乗り出す。
「婚約パーティーをおしてでも通す私事、ってなに? こっちは婚約しましたって言って人に集まってもらっておきながら、ひとりで立ち尽くして『で、相手はどこ?』みたいな、気まずーい視線を浴びてたのにっ!」
立ち尽くし、は嘘だ。ほとんどの時間、庭のすみで丸まっていた。
しかし、好奇の目に晒されたのは間違いない。だんだん早口になり、声も大きくなっていくシャーロットに、ヴィクターの顔も徐々に冷ややかなものに変わっていく。
「ですから、すまないと書いて送ったし、会ってから謝ったでしょう」
「……今日が何の日だか、ほんとに分かってるのよね?」
ヴィクターが口を開けたが、それより興奮したシャーロットの口と、立ち上がる動きの方が早かった。
「比べていいって言われたからそうさせてもらうけどね、フェリックスだったらそんな冷たいこと、絶対ぜーったい言わなかったんだから!」
狭い馬車の中で立ち上がったシャーロットに、ヴィクターが「……ほーーーう?」と、煽りとしか思えない相槌を打つ。
シャーロットは、そのわざとらしい声に瞬時に沸騰した。馬車の扉を開け放ちながら、腹の底から大声を出した。
「ほ、宝石商の娘の怒りを甘くみてると、ほんとに痛い目に遭うんだからね! レティシア様もろとも、歯ぁ食い縛って待ってなさい!」
「……じゃあ殴るときに、これを使うといい。硬度は抜群でしょうから」
降りようとしたシャーロットは、その言葉に振り返った。
相変わらず馬車の座席に腰掛けたまま、むす、とした顔のヴィクターの手がシャーロットに向けて差し出されていた。
そこには、奇しくも今日のシャーロットが着ているドレスと同じ色のビロードに覆われた小箱が一つ。
じつに覚えのある大きさの箱に、胸の高鳴りを堪えて受け取る。
恐る恐る蓋を開けて、シャーロットは目を丸くした。
「これ……!」
プラチナのリングが、三つの青い石を頂きに掲げて、鎮座していた。シャーロットの目と同じ色の石が、春の日差しを目映く照り返す。リング部分も細かく光を反射しており、よく見ればぐるりと小さなダイヤモンドがリングの中央に埋め込まれ、光の線を引いていた。
「なんて大きなブルートパーズ!」
「は? ブルーダイヤのはずなんですが」
「……」
指にはめて最初に殴るべきは宝石商の娘と名乗った自分だ。シャーロットは静かに恥じ入り、「……き、聞いたことはあったんだけど、実物は見たことなかったから……」と弁明した。
「……この辺りでは取れないと聞いたので。南方産です。フェルマーの身内に嗅ぎ付けられないように用意するのは、骨が折れましたが……この上、ほんとに頬骨折られるらしい」
後半はふてくされるように、頬杖をついて呟いていた。シャーロットは子供じみたその顔に、思わず吹き出した。
「新品はもったいないもの、あなたが浮気したときまでとっておくわ!」
その言葉に、頬杖で半分隠れた顔でも分かるほど、ヴィクターの顔に笑みが広がった。
「いつでも殴れるよう、毎日指に嵌めておいてくださいよ」
軽口を叩き合う二人のもとに、暖かな風が吹き抜けた。
ランドニアの美しい冬のようなダイヤの指輪は、大切にしまっておいて。
これは、シャーロットのくるくると動く目と一緒に、いつもそばに。
ヴィクターが女の細い指へ、その指輪を丁寧に通した。シャーロットがそれをもっと光にあてようと馬車から出た、そのとき。
「あーいたいた。おいシャーロット嬢、さっきワーガス家の馬車が着いたって誰かが言ってたけ、ど……げっ!」
軽薄な声の男は、馬車の様子がわかるほど近くまで来ると、足を止め、青い顔で回れ右をした。
「……彼、呼んだんですか」
「え? ええ、だってこの前、姉様の前で口裏合わせてもらったお礼もあるし、ちゃんと婚約したってとこも、見せつけてやりたいし」
来るときより断然素早く遠ざかっていく背中を見ながら出てきた低い声に、シャーロットはけろりと返した。
「一服盛ってきた相手だって忘れたんですか? あなたの最期のときまでそばにって、俺が思っていたよりずっと早く来そうなんですけど?」
「……しつこいわね。だから、そんな危ない人じゃないったら! あなたの方がよっぽど危険よ!」
「あなたの身を案じて言っているというのに、随分自信がおありのようで」
「はっ? そっちこそねぇ――」
シャーロットは馬車の中に向かって、ヴィクターは馬車の中から話し続ける。
二人揃って視界が狭められていたせいで、馬車を発見した招待客がダミアン以外にも、ぞろぞろ増えていっていることには気がつかなかった。
「――あーったまきた! あなたといたら、式まで脳の血管もたないわ、婚約解消よ解消!」
「大声を出すなうるさい。……こっちは応じないからな」
「…………こ、言葉のあやだもん」
遠巻きにしていてもわかるのは、感情任せの大声だけ。
後日、『なかなか伯爵が現れないと思ったら、婚約解消したようだ』や、『ご令嬢の方が宝石で殴ったらしい』、『宝石売りの娘だからか』だの、さらに『別れる前に馬車の中で密会していた』だのと流れた噂に、シャーロットは頭をかきむしるし、レティシアは嬉々としてイヴリン男爵邸に事実確認にやってくるのであった。招いてないのに。
***
“どうやら、名門のステューダー伯爵と、成り上がりのイヴリン男爵の末娘が婚約したらしい”
その言葉から始まる話題は、内容に事欠かない。
“親しくなったきっかけは何だったのか?”
“ダール伯爵の屋敷では、部屋に男が招いたのか、女が押し掛けたのか”
“王立美術館でデートを重ねたというが”
“北方へ婚前旅行に行っていたとか”
“で、真相は?”
「…………そんなの、なんでもいいでしょ」
赤くなったり青くなったりを繰り返し、当事者はそれきり黙りこむ。
秘密が憶測を呼び、醜聞となって駆け巡る。
この恋には、言えないことが多すぎる。
おしまい
花が咲いて、鳥が鳴いて、人々が外に出ていくのに合わせるように、屋内で開かれていた貴族たちの宴会も、それぞれの邸宅の庭までその裾野を広げるようになる。
大邸宅が並ぶ通りの一角、真新しい造りのイヴリン男爵邸も然り。
青々とした芝生の上に、いくつもの卓が出され、軽食や菓子がところ狭しと並ぶ。招待客たちは思い思いに時間を過ごし、そこかしこで笑い声が起きていた。
そんな中、悩まし気に眉を寄せたまま、庭園を横切る美しい女が二人。
面差しの似た二人は、互いに何事かをささやきながら、歩みを進めていく。女のひとりは花柄の皿を手にしており、その上ではケーキが三切れ、行儀よく並んでいた。卵色のスポンジに白いクリームと、旬の苺の断面、そしてピスタチオ色のマジパンが層をなし、つるりとした表面に丸ごとの苺が一切れにつき一つ飾られた、美しいケーキである。
「――やっぱり信用ならないわ。今からでも考え直すべき」
「姉様、そんなこと言わないで。とにかく、今はあの子に元気出してもらうのが先、でしょ?」
やがて二人は、整然と刈り揃えられた植木が立ち並ぶ庭園のすみで足を止めた。
植木と植木の狭間に、レースとリボンがたっぷりついた空色の布が丸まっており、上には金の糸玉が乗せられている。
布の塊を不審がることもなく、ケーキを持った女が口を開く。
「……シャーロット。ほら、あなたの大好きなフレジェよ。なくならないよう、姉さんが取ってきてあげたから、一緒に食べましょ!」
ことさら明るい声を出したが、布の塊は布なので返事などしようもない。
はずだったが、もそり、と金の糸玉が動いた。糸玉は布塊の上を転げ落ちる――わけもなく、ずず、と持ち上がってその下の顔を、シャーロットの青い目を姉たちに見せた。
「……」
空色のドレスを纏って髪を結い上げたシャーロットは、地面で両膝を抱えていた。陰鬱な淀みを滲ませた青い目で姉を睨みつければ、声をかけたリンディはごく、と息を呑んだ。
シャーロットは姉の手にある皿には見向きもせず、無言のまま視線だけを左右に巡らせた。そして庭園の様子を確認し終えると、また元のように立てた両膝に額をうずめる体制に戻っていく。
「……そ、そうだ、特別に、姉さんの苺あげちゃう! シャーロットだけ、上の苺が二つよ!」
「リンディ、もうおよし。あなたの慰め方じゃ、まるでシャーロットが十歳にも満たない幼子のよう」
見ていられないわ、と、それまで黙っていたグレイスが仏頂面で進み出た。
「シャーロット。あなたが気落ちするのも無理ないわ。今日の主役はあなただけど、とてもお客様の前に出る気になんかならないでしょう。でもね、大人の、この国の貴族である以上、そんな甘えは許されないのよ」
「……」
「だいたい、姉さんに言わせれば自業自得よ。一度目の破談で、あの男とは縁がなかったって、すっぱり諦めるべきだったの」
「グレイス姉様っ、なんてこと!」
空色のダンゴムシとなったシャーロットの前で、姉二人が言い合いを始める。
「だってそうでしょう。今日はシャーロットが主役であると同時に、ヴィクター・ワーガス殿も主役でしょう? 二人の婚約お披露目のお茶会なんだから」
グレイスのつんとした言葉に、シャーロットの後頭部がぴくりと揺れた。
「なのに、なんで彼はこの場にいないのかしら」
姉の凍てついた視線に口ごもりながら、リンディが皿を持ったまま反論する。
「きょ、今日はまだ、正式なものじゃないわ!」
「なんで正式なものが未だにできてないかというと、ヴィクター殿のお母様がこの婚約に猛反対してたからよね」
「う……。でも、伯爵ご本人は、義理の姉になるわたしの結婚式には出席してくれたもの!」
「リンディが招待状を送ったからね。身内になるからとは限らない。そもそも、未婚のこの子を寝室に招き入れるような男との婚約なんて、最初から認めるべきじゃなかったわ」
「そ、そりゃ、わたしだって最初はシャーロットが伯爵に遊ばれたんだと思って泣いたけど、二度目があったじゃない。ランドニアから帰ってきた後の、伯母様の屋敷で!」
「だから一夜限りの遊びじゃないって? 二夜の遊びだっただけでしょうが馬鹿ね。だいたい、あの夜、伯母様はお父様から破談の話を聞いて、あの人のことは招待していなかったのよ。それなのに何食わぬ顔で屋敷に入り込んでいたんだから、恐ろしいわ」
「それは喧嘩していたシャーロットと直接話すために、ご友人のダミアン・ロザード様が手引きなさったって、伯爵が仰ってたじゃない! ダミアン様も頷かれたし」
「どうかしら、ダミアン殿は挙動不審だったし。それに、直接我が家に会いに来ればいいことだわ」
「グレイス姉様が『二度とシャーロットに会いに来るな』って、先方に手紙送りつけたりするから!」
「何にしたって、妹をいい加減に扱うような男のもとへ、嫁にいかせられるものですか。シャーロットがかわいそうよ」
「もう二度も夜を一緒に過ごしたって噂が流れてるのに、今さら婚約解消する方がシャーロットがかわいそうっ!」
むきになったリンディが大声を出したと同時に、それまで黙りこくっていたシャーロットは立ち上がった。向き合っていた二人の姉の視線が妹へと移る。
「…………ちょっと、行ってくるわ」
地を這うようなシャーロットの声にも、グレイスは微塵も動じず「何しに?」と問いただした。どこへ、とは聞かなかった。
「……迎えに、よね?」
リンディが心配そうに確認すると。
「殴りに、よっ!」
跳ね返すように答え、シャーロットは姉の持つ皿のケーキから丸ごとの苺を三粒、次々ひったくると一息に口へ押し込んだ。そして両手で空色のスカートをガシッと掴み、誰の制止よりも早くその場から走り去っていった。
「……殴るって言った? ステューダー伯爵を?」
「…………わたしの苺、あげるって言ってないのに」
残されたのは、蒼白のリンディとため息をつくグレイス、苺を失ったフレジェ三切れ。
それから、雑談する体で聞き耳をたてていた招待客たちと、胃薬を握りしめて立ち尽くす屋敷の主人であった。
***
「ひどい、ひどいひどいひどいひどい!」
シャーロットは呪詛のように同じ言葉を繰り返しながら、馬車停めへと大股で進んでいった。
本当は、婚約披露パーティーはもっと早くに行うはずだった。
それを最初に阻んだのは、シャーロットの母親代わりを自認するグレイス。彼女は父男爵の数倍、婚約が立ち消えになった妹の心身を案じていたのだ。
心配が過ぎて横暴になりかけていた姉を説き伏せ、ヴィクターからも働きかけると、次に立ち塞がったのはヴィクターの実母を筆頭としたワーガス一族。
これにはまず、息子であり当主であるヴィクターが先に話をし、それが済んでシャーロットも挨拶に行くくだりになりかけていた。
――第三の壁は、部下に身軽でいて欲しい上司であった。
『陛下のもとへ行くので、遅れる。すまない』
そんな旨が書かれたカードを持った男がやって来たのは、パーティーの準備に奔走していた今朝のこと。男はワーガス家の使用人であった。
――よもや、望ましい部下の条件は独身であること、とでも言うのではあるまいな。
この国で最も偉い女に対し、ちらと漂う嫉妬とともに勘繰っても、来ないものは来ない。
それから、その日のシャーロットの気分は急下降したのだった。両足で立って招待客に「……ようこそ、おいでくださいました……」と呟くように言うのがやっとという有り様だった。なお伯爵が来ないと聞いた男爵は、その場で突っ伏して泣いた。
――忙しい人だとは知っていた。
仕事が大事なのはよくわかる。
これくらいで揺らぐ二人の関係ではない。
けれど、パーティーの数日前、シャーロットは突然の来客を受けていたのだ。
『男爵家出身の奥様では、ひとりで王宮に上がれないもの。伯爵も、何かと不便でしょうね。……わたくしは、いつでも、陛下に、ひいては近衛隊の方にも、お目通り願えますけれど、ね』
銀髪の客人はそう言ってにやぁ、と笑った。席を立つ直前に『ああそういえば、警察がウィンリールの森で、拾い物をしましたの。……受けとりはしましたけど、私のものではないので。良ければ、お持ちになってて』と、銀色が曇った祖母の懐中時計と、傷のついた燕のブローチを渡してきていなければ、シャーロットはおそらくその膝裏めがけて爪先で小突いていた。
結局、土産物を両手に抱え、ランドニア公爵令嬢を静かに見送ってから迎えたのが、今日である。
シャーロットは狼狽える馬丁の言葉も聞かずに馬車の扉を乱暴に開けて、乗り込んだ。
「なんなのいつでも会えるって! そんな暇なの、女王陛下とそのまわりって! この遅刻があの女の差し金だったら、人差し指から小指までおっきい指輪つけて石の部分で横っ面殴ってやるわっ!」
鼻息荒く座席に腰掛け、自ら手を伸ばして馬車の扉を閉めようとした。
――が、閉まりかけた扉が、すいとシャーロットの手から離れて外に向かって開き。
「実行しないでくださいね、俺があなたを捕まえないといけなくなるので」
「……っヴィクター!」
紅茶色の髪の男が、肩で息をしながらシャーロットの向かいの席へと乗り込んできたのである。
「遅くなりまして、すみません」
来客用の馬車停めは別にある。息が切れているヴィクターが、この屋敷に着いてからシャーロットとすれ違いになりかけていると知って、走って追いかけてきてくれたのだとわかった。
「……ううん、お勤めご苦労様。女王様の呼び出しだもの、仕方ないわよね」
息を整える男へ、シャーロットは労いの言葉をかけた。出会ったときの冷徹さからは考えられない必死さが、嬉しかった。
「いえ、呼び出されたのではなく、こちらで手配していた物が届いたので、それを取りに」
さらりと返された言葉を聞いて、固まるまでは。
「……は?」
「陛下を通して取り寄せたので、家の者には頼めなくて」
「……ふ、ふぅん。仕事、女王様の命令じゃなかったのね」
仕事は大事だ。それは、王命の仕事だけが、とは限らない。
シャーロットは自分にそう言い聞かせる。が、相手の反応に思うところがあったのか、ヴィクターの方が一瞬、顔をしかめた。
シャーロットは確かに、まずい、とでも言いたげなその顔を見逃さなかった。
「待って、もしかして仕事じゃないの?」
「……」
ヴィクターの視線が馬車の中をさまよった。答えあぐねているようだった。
シャーロットが身を乗り出す。
「婚約パーティーをおしてでも通す私事、ってなに? こっちは婚約しましたって言って人に集まってもらっておきながら、ひとりで立ち尽くして『で、相手はどこ?』みたいな、気まずーい視線を浴びてたのにっ!」
立ち尽くし、は嘘だ。ほとんどの時間、庭のすみで丸まっていた。
しかし、好奇の目に晒されたのは間違いない。だんだん早口になり、声も大きくなっていくシャーロットに、ヴィクターの顔も徐々に冷ややかなものに変わっていく。
「ですから、すまないと書いて送ったし、会ってから謝ったでしょう」
「……今日が何の日だか、ほんとに分かってるのよね?」
ヴィクターが口を開けたが、それより興奮したシャーロットの口と、立ち上がる動きの方が早かった。
「比べていいって言われたからそうさせてもらうけどね、フェリックスだったらそんな冷たいこと、絶対ぜーったい言わなかったんだから!」
狭い馬車の中で立ち上がったシャーロットに、ヴィクターが「……ほーーーう?」と、煽りとしか思えない相槌を打つ。
シャーロットは、そのわざとらしい声に瞬時に沸騰した。馬車の扉を開け放ちながら、腹の底から大声を出した。
「ほ、宝石商の娘の怒りを甘くみてると、ほんとに痛い目に遭うんだからね! レティシア様もろとも、歯ぁ食い縛って待ってなさい!」
「……じゃあ殴るときに、これを使うといい。硬度は抜群でしょうから」
降りようとしたシャーロットは、その言葉に振り返った。
相変わらず馬車の座席に腰掛けたまま、むす、とした顔のヴィクターの手がシャーロットに向けて差し出されていた。
そこには、奇しくも今日のシャーロットが着ているドレスと同じ色のビロードに覆われた小箱が一つ。
じつに覚えのある大きさの箱に、胸の高鳴りを堪えて受け取る。
恐る恐る蓋を開けて、シャーロットは目を丸くした。
「これ……!」
プラチナのリングが、三つの青い石を頂きに掲げて、鎮座していた。シャーロットの目と同じ色の石が、春の日差しを目映く照り返す。リング部分も細かく光を反射しており、よく見ればぐるりと小さなダイヤモンドがリングの中央に埋め込まれ、光の線を引いていた。
「なんて大きなブルートパーズ!」
「は? ブルーダイヤのはずなんですが」
「……」
指にはめて最初に殴るべきは宝石商の娘と名乗った自分だ。シャーロットは静かに恥じ入り、「……き、聞いたことはあったんだけど、実物は見たことなかったから……」と弁明した。
「……この辺りでは取れないと聞いたので。南方産です。フェルマーの身内に嗅ぎ付けられないように用意するのは、骨が折れましたが……この上、ほんとに頬骨折られるらしい」
後半はふてくされるように、頬杖をついて呟いていた。シャーロットは子供じみたその顔に、思わず吹き出した。
「新品はもったいないもの、あなたが浮気したときまでとっておくわ!」
その言葉に、頬杖で半分隠れた顔でも分かるほど、ヴィクターの顔に笑みが広がった。
「いつでも殴れるよう、毎日指に嵌めておいてくださいよ」
軽口を叩き合う二人のもとに、暖かな風が吹き抜けた。
ランドニアの美しい冬のようなダイヤの指輪は、大切にしまっておいて。
これは、シャーロットのくるくると動く目と一緒に、いつもそばに。
ヴィクターが女の細い指へ、その指輪を丁寧に通した。シャーロットがそれをもっと光にあてようと馬車から出た、そのとき。
「あーいたいた。おいシャーロット嬢、さっきワーガス家の馬車が着いたって誰かが言ってたけ、ど……げっ!」
軽薄な声の男は、馬車の様子がわかるほど近くまで来ると、足を止め、青い顔で回れ右をした。
「……彼、呼んだんですか」
「え? ええ、だってこの前、姉様の前で口裏合わせてもらったお礼もあるし、ちゃんと婚約したってとこも、見せつけてやりたいし」
来るときより断然素早く遠ざかっていく背中を見ながら出てきた低い声に、シャーロットはけろりと返した。
「一服盛ってきた相手だって忘れたんですか? あなたの最期のときまでそばにって、俺が思っていたよりずっと早く来そうなんですけど?」
「……しつこいわね。だから、そんな危ない人じゃないったら! あなたの方がよっぽど危険よ!」
「あなたの身を案じて言っているというのに、随分自信がおありのようで」
「はっ? そっちこそねぇ――」
シャーロットは馬車の中に向かって、ヴィクターは馬車の中から話し続ける。
二人揃って視界が狭められていたせいで、馬車を発見した招待客がダミアン以外にも、ぞろぞろ増えていっていることには気がつかなかった。
「――あーったまきた! あなたといたら、式まで脳の血管もたないわ、婚約解消よ解消!」
「大声を出すなうるさい。……こっちは応じないからな」
「…………こ、言葉のあやだもん」
遠巻きにしていてもわかるのは、感情任せの大声だけ。
後日、『なかなか伯爵が現れないと思ったら、婚約解消したようだ』や、『ご令嬢の方が宝石で殴ったらしい』、『宝石売りの娘だからか』だの、さらに『別れる前に馬車の中で密会していた』だのと流れた噂に、シャーロットは頭をかきむしるし、レティシアは嬉々としてイヴリン男爵邸に事実確認にやってくるのであった。招いてないのに。
***
“どうやら、名門のステューダー伯爵と、成り上がりのイヴリン男爵の末娘が婚約したらしい”
その言葉から始まる話題は、内容に事欠かない。
“親しくなったきっかけは何だったのか?”
“ダール伯爵の屋敷では、部屋に男が招いたのか、女が押し掛けたのか”
“王立美術館でデートを重ねたというが”
“北方へ婚前旅行に行っていたとか”
“で、真相は?”
「…………そんなの、なんでもいいでしょ」
赤くなったり青くなったりを繰り返し、当事者はそれきり黙りこむ。
秘密が憶測を呼び、醜聞となって駆け巡る。
この恋には、言えないことが多すぎる。
おしまい
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感想ありがとうございます!とても嬉しいです!
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後日談を望んでいただけたのもとても嬉しいので、もし書けたらそのときはまたよろしくお願いします。
良かったです。一気読みしちゃいました。
嬉しいです! 完結させてよかったと心から思えます。
感想まで送って下さって、本当にありがとうございました。