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第六十八話 きっと(2)

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「そうじゃなくて、終わらせたって、別れって、なんでそうなるのよっ」
「なんで? 逆に、それ以外ほかにやりようがないじゃないですか」

 淡々と応じるその顔に、悲哀や心苦しさは見当たらなくて、シャーロットは混乱した。

「婚約の発端は家同士の約束でしたが、それは二年前に既に反故にされ、互いの一族にとってタブーの話題となっています。アデルは俺へ親愛の情はあっても、恋情は持っていません」

 恋情は持っていません。その率直な言い方に、言った男より聞いた女の方が、喉に物をつまらせたような顔をした。男は構わず続ける。

「この上、俺だって用が済んでこれ以上なにも望んでいないのに、今さらどうして、彼女を表舞台に引っ張り出す必要が。関係者全員に恨まれるだけなのに」
「なっ……」

 それを聞いたシャーロットの混乱は不満に姿を変えて喉を駆け登った。もとより、苛立ちは蓄積されていたところである。

「望んでいないって何よ! わたしがどんな気持ちで、何を覚悟してアデル様の居場所を教えたのか、わからないってわけ?」

 これも八つ当たりだと知りながら、気が昂るのを抑えられなかった。責め立てながら、大股で男の前へ進む。

「好きって言った人にっ、その情報を教えた意味を、なんだと思ってるのよ!」

 相手の顔を見上げる位置まで近づいて、足を止める。言い切ってから、羞恥と悔しさに顔が火照った。
 所詮無関係な他人である自分に、こんな偉そうな物言いをする権利はない。それでもシャーロットには、ここにきてまだ無意味な虚勢を張っているように見えるヴィクターが腹立たしくて仕方なかった。
 感情の制御が効かなくなったシャーロットの理性へ、とどめの一言が放たれる。

「頼んでもいないお節介でした」と。

 咄嗟にシャーロットは右手を振り上げた。握りしめた扇が、まるで鋼鉄の鎚だというかのように。
 しかし、打ち据えようとした扇は右手首ごと、男の左手でなんなく受け止められた。かえってカッとなって構えた左の拳も、やはり相手の右手で抑え込まれる。

「シャーロットっ、落ち着いて」

 引くに引けなくなって、シャーロットは残った武器たる額を目の前の、男の右肩に思いきり打ち付けた。制止も頭に入ってはいなかった。

 ゴッと、短い、鈍い音がした。

 脳内が痺れたように真っ白になってからの二秒後、沈黙の中でようやく我に返ったシャーロットは、全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。

「……俺の幸せを願ってくれての、あなたのお節介だということは、わかってます」

 静かな声に怒りは感じられない。
 それが逆に、シャーロットを震え上がらせた。相手への恐怖ではなく、自分への嫌悪で。

「……ご、ごめんなさい、ここを、肩を狙うつもりじゃなくて、その」

 シャーロットは相手と目を合わせられないまま、震えた声で謝罪を口にした。それを受けて、ヴィクターはわざとらしいため息を吐いた。

「まるで肩じゃなければいいと思っているかのようですね? ……いいんです、こちらの言い方の問題だった」

 おどけたように返す男だったが、シャーロットはそれどころではない。さぞかし痛んだろう、不快だろうと、体を離そうとした。が、両手を取られたままではそれもうまくいかなかった。

「それに、そこまで気にしていただかなくても、もう大丈夫ですよ」

 慌てていたシャーロットは、「え?」と顔を上げた。そんな女に、ヴィクターはさらに「言ったじゃないですか。半分気の病だと」と続けた。

「……なんて?」
「それは今度こそもう一回丁寧に言って欲しいってことですか?……もう、痛まないから大丈夫ってことですよ」

 その言葉を、シャーロットはとても信じられなかった。少し前には、青い顔で蹲って手で押さえていた箇所だ。
 手のひらを相手の胸について、顔を上げる。ようやく視線が合うと、青い目に映ったのは、予想よりずっと穏やかな鳶色の瞳だった。

「……彼女から、ロバートを取り上げてしまったこと。悲しみに気がついていないふりをしたこと。好きだったこと。好きになってもらえなかったこと。……俺とあの人に関する、宙にぶら下がったままだった思い。全部吐き出して、そして全部吐き出されてきました」

 動きの止まったシャーロットの、右手の拘束が解かれる。長い指がその手のひらを包んではじめて、握りしめていたはずの扇が床に落ちていたことを知った。

「そうやって、俺の中でばらばらに散らかって手のつけようがなかったあの人のことを、ようやく、きれいに片付けることができました」

 シャーロットは瞬きも忘れて相手の顔に見入った。改めて見るまでもなく端正な顔が、今までにない優しさを伴って自分を見返している。
 すると突然、その顔が「そういえば」と苦笑に歪んだ。

「アデルに文句を言われました。……あの人の、あんな幼稚な物言い、初めて聞きました」
「……え」
「模範的なことしか言わない人だと思ってたので、なんだか少し、意外で。“どうせ、新しく好きな人ができたから、けじめをつけたくなったんでしょう”って。――まあ、半分くらいその通りで」

 ヴィクターはそこで言葉を切ると、わずかな間、視線を泳がせた。そして次に口を開いたときには、ばつが悪そうな、何かを観念したような声を出した。

「……嘘です。本当は丸々彼女の言う通りでした。たとえ場所をもっと早くに知っていても、臆病な俺は二の足を踏んだに違いないんです。会いに行けたのは、今だからこそでした」
「……今?」

 問い返したシャーロットの後頭部に、骨ばった手が添えられる。気がつくと、先程よりずっと静かにシャーロットの額がヴィクターの右肩につけられていた。

「これから好きな人を守っていくっていうのに、古傷も治せてない男じゃあちょっと心もとないじゃないですか」

 ――好きな人、とは誰だろう。

 シャーロットは真っ白になった頭で愚者のように考えた。彼の好きな女は誰か。アデル・スクーパットだ。
 しかし、それは終わらせたと、片付けられたといった。では誰だ。この話で出てきた他の人間は。ロバートか。伯爵家と侯爵家の人間か。ばかな。あとは自分か。それこそばかな。けれど、まさか、もしかして。いやまさか。違ったら辛い、恥ずかしい。どうして名前を明言してくれないのか、勘違いだったらどうするのか、こんな、こんな抱き締めるような体勢では逃げられないし、それに。

 ――こんな体勢で言われて、自分以外であるはずが、ない。

 訪れた結論に、これは夢かと、シャーロットは何度もまばたきを繰り返す。背筋から頭の頂点へ上り抜ける衝撃に、人は喜びが度を超すと恐れを覚えるということを初めて知った。
 人生に、“今なら死んでもいい”と思える瞬間があることも、初めて実感した。けれど死ぬ前にと、抱き寄せられた肩口でゆっくりと息を吸い、震える両手をおずおずと相手の背中へと向かわせた、――が。

「……それから、もうひとつあなたに伝えなきゃいけないことがあります」

 その言葉で、シャーロットの動きは止まった。

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