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第六十六話 思い出し痛

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“なにも言わずに、すべての可能性が閉ざされるくらいなら”

 ウィンリールの湖畔で噛み締めた後悔を無駄にしないために、言いたいことは、言うべきことは伝えきった。

 おかげで道中、もしも誰かに殺されても大丈夫。

(……とか言っちゃってみたりして)

 数日前に馬車から列車に乗り換えたシャーロットは、声に出さずに少しだけ笑った。
 吐いた息が窓を白く曇らせる。その外の雪景色は、徐々にその厚みを減らしていくところだった。それはつまり、だんだんと南下し、都会へと戻っていくことを意味していた。
 コンパートメントの中でその風景を見つめていたシャーロットだったが、やがて静かに目を閉じた。胸の内の不謹慎な冗談を振り払い、旅が終わった後、何の予定もない日々をどう過ごすかについて考えるために。

 公園を散策するにはまだ寒いが、池でスケートに興じる子供たちを眺めるのは結構面白いのだ。それとも、たまには伯母を誘って観劇にでも行こうか。挙式の近い姉リンディと、ゆったり刺繍ができる冬も今年が最後かもしれない。それなら傍らには、ガトー・オペラを用意させよう。

 頭の中を、彩り鮮やかな選択肢で埋めていく。
 そうして、なるべく向かいの座席の空白について、考えないようにした。




 ――そんな調子でいたものだから、すっかり忘れていた。

「シャーーーロットっ! おまえ、なんっのために三年も寄宿学校に通ったんだ! グース駅に迎えを寄越すと書いただろうっ、グースだグースっ! おまえは手紙の字も読めないのか!」
「……」
「おまえが行方不明になったと警察に駆け込んだジュリアの身にもなってみろ! そんな知らせを受けたわしやグレイスの身にもなってみろっ! まったく、 まったくおまえという娘はぁぁぁっ!」
「…………」

 シャーロットがノースローク駅で列車に乗ってしまうと、グース駅に主人を迎えに来た女中が待ちぼうけを食らうのだということを。

「…………別に、聖メルディオで読み書き習ったわけじゃないもん」
 
 目の下にくまを作った父親と疲弊した顔の警官たちが待ち構えるコートリッツ駅に降りるまで、すっかり、さっぱり忘れていた。


 ***
 

「……なんて騒動から、もう二週間経つのね」

 濃い青の手袋に覆われた指先で、くるりと扇を回す。ドレスと同じ色である。
 いつかと同じ、きらびやかなダール伯爵邸のシャンデリアからぶら下がるガラス片をみながら、シャーロットはしみじみとぼやいた。

 帰宅時の騒動が落ち着いたあと、脳内の予定通り伯母アイリーに連絡を取ってみた。が、実際のところ相手は観劇どころではなく、自分の誕生日パーティーを縮小した反動のように宴の予定を詰め込んでいた。
 そして自邸での夜会には、もれなく姪たちと、その保護者も招待されたのだった。
 
「ええ、お父様が玄関で倒れてそのまま寝込んでから、ちょうどそのくらいね」
「……そして回復して、私を眩暈がしそうなくらい叱りつけてからちょうど十三日。当主が元気いっぱいで我が家も安泰よね」
「反省しなさいっ」

 黄色のドレスに身を包んで傍らにやって来たリンディからの叱責を、扇を振って払った。

(何よ。自分だって今の婚約者さまとの話がまとまるまで、お父様とは寝ても覚めても戦争状態だったくせに)

 と口に出さなかったのは、少なからず存在した罪悪感のせいだ。

 そもそも、婚約に至る経緯からして異常だった。ジュリアの件でも心配させた自覚はある。ようやく無事親元に帰ってきて一息つけるかと思いきや、当のシャーロットから元凶ともいえる婚約について一言、“破談になった”と聞かされた父親の心境たるや。

『……遅かれ早かれ、別の縁談の話が広まると思うわ。今となっては、私たちの話を正式に告示していなくてラッキーだった』

 わね、とは、玄関で卒倒した男爵を前に最後まで言うことが出来なかった。
 シャーロットとて進んで話したい土産話でもなかったが、謝罪と挨拶のためにステューダー伯爵のもとを訪ねていきそうな父を止めるためだった。結果、足止めはできた。もしかすると心臓も一瞬止まってしまったのかもしれない。

 リンディはというと、何かにつけてシャーロットの肩を掴んでは、揺らし殺しかねない気迫で尋問してきた。おかげでシャーロットは自邸内で命からがら逃げ回るはめになり、とても姉妹で優雅に刺繍どころではなかった。

 ただ意外だったのは、シャーロットが帰った数日後に実家へ顔を出しに来たグレイスの反応だった。
 長姉はさぞかし怒り狂うだろうと構えていたシャーロットと顔を合わせるなり、グレイスは無言のまま妹をぎゅっと抱き締めたのだ。その日から今日まで、責めもしないし、聞きもしない。

 何も聞かれていないから、何も言っていないわけだが、もしやお見通しなのだろうか。

(……正直、助かるわ)

「だいたい、何があったのよシャーロット。別の縁談ってどういうこと?」
「……それにひきかえこっちと来たら……」
「はっ? 何? 今なんて、待ちなさ、あ、あら、ごきげんようっ……」

 近づいてきた招待客に気をとられた姉の方を見ずに、シャーロットは素早くその場を離れた。

(……そういえば、グレイス姉様はまだ着いていないのかしら。お父様も見当たらない)

 なんにしても、一人にしてもらえるのはありがたい。ひとり広間を横切りながら、シャーロットの耳は無意識に周囲の密やかな会話を拾い始めた。

“――お聞きになった? レイヴン侯爵の奥様が――”
“――ポーマノット判事の愛人とかいうあの女優――”

 どうやら、エルノー侯爵令嬢とステューダー伯爵の再婚約の噂は、まだ広まっていないようだ。

(てこずってるのね。無理もないわ、花嫁が一度出家してるんだもの)

 油断すると頭の中で漂う暗雲を蹴散らすように、シャーロットは広間を早足で進んだ。
 見知った給仕が、近づいてくるフェルマー家の末娘に気がついて、グラスの乗ったトレーを差し出す。

「ようこそシャーロットお嬢様。スパークリングワインはいかがでしょう」
「……あ」
 
 伸ばしかけた手が止まったのは、その淡い琥珀色の泡が湧くグラスを、少し前によく見た別の酒と見間違えたせいだった。
 りんごが香る、華やかな食前酒と。

 雲が、また少し重みを増す。

「……ほかの飲み物はないかしら。もっと……例えばそうね、色の濃くて、泡の出ない……」
「アルコールの強いやつ」
「そう、アルコールの強い……つよい……、……」

 聞き覚えのある声に、シャーロットは振り返った。

「だから、わたしは酒飲みじゃないって言ったでしょっ!」

 眉をつり上げて見上げた先で、正装に身を包んだダミアン・ロザードがにやにやと笑っていた。シャーロットが取らなかったトレーのグラスに手を伸ばす。

「おや失礼。あの夜は人の寝室でいい飲みっぷりをご披露いただいたものでてっきり、おっと」

 饒舌な男のテールコートの襟を掴むと、シャーロットは大股で広間の端へと引きずって低い声で抗議した。

「しっつこいわねその話っ! それに夜じゃなかったでしょうが人聞き悪いっ!」
「そうだっけ?」

 グラスを揺らしながらとぼける男へ、殺意のこもった視線を送る。「こわ」とへらへら笑う男の襟から、忌々しげに手を離した。

「……意外だわ、いかにも遊び人なあなたと、真面目な伯父様ダール伯爵に親交があっただなんて」
「なかなか言ってくれるじゃないか」
「…………あなたまさか」
「おいおい、心配しなくても、伯爵夫人とはなんの関係もないって」

 シャーロットはほっと胸を撫で下ろした直後、今度は別の理由で表情を歪め、その場をさっさと離れようとした。
 相手は、ランドニアでの一件を嫌でも思い出してしまう顔だからだ。

 しかし、そんなシャーロットの心境など知るよしもないダミアンは、慣れた動きでシャーロットの行く手を阻んだ。進行方向に立ち塞がられ、シャーロットは渋々相手の顔を見上げる。 

「そっちこそ、夫人の身持ちの心配してる場合か? 婚約者殿と仲直りできたのかよ。……あの後の領主館は大変だったんだぞ。レティシアは呆けちゃって使いもんにならないし、あんたに置いてかれた伯爵は工房に勝手に出入りするし」

 その後すぐ帰ってくれたから良かったけどさぁ、と話すダミアンは、実感のこもったため息を吐いた。代わりの執事が雇えるまで、彼がレティシアと病み上がりの公爵の代わりに働き通しなのだという。

「何が嫌って、あいつ、僕がなんか言うと殺気立って睨んでくんだよ。人んちで痴話喧嘩しといて、良いご身分だよな。今日も一緒に来てないみたいだけどさ、はやく謝っておけよ」
「ご愁傷さまですわ、次期公爵閣下。忙しいのはそちらの使用人による不祥事のせいでしょ。……それにご心配なく、わたしたち、別に喧嘩なんてしてないもの」

 なぜシャーロットが謝る方だと決まっているのかと物申したい気もしたが、この話題は掘り下げたくなかった。話は終わりと言うように、扇を開いて口元を隠す。
 喧嘩もなにも、元よりこれが正しい姿だ。偽りの婚約も、それを隠れ蓑にした協力関係も、もう終了したのだから。

「なんだ、すでに破局済みか?」
「……」

 話したくないという意図は汲まないくせに、こういうことにだけ鼻が利くのが一層不快だった。

 青い目が、扇の向こうからできうる限り剣呑な目付きで睨み付けてきたことを肯定と受け取った男が「あれまぁ」と大袈裟にあわれむ声を出す。

「かわいそうなシャーロット嬢。原因はなんだ? 酒か? 暴れっぷりか? まさか今さら家格か?」

 目を輝かせて矢継ぎ早に尋ねる無礼者の足を裾の影で踏みつけるために、男爵令嬢は少しスカートをつまんだ。

「それとも、元恋人の影がちらつくのがやっぱり嫌だってか」

 シャーロットの動きがぴたりと止まった。男の方ににじり寄せていた右の爪先まで例外なく。

「……」
「……シャーロット嬢?」


 夜会用の華奢なグラスの中で、音もなく泡が上る。
 逆に、頭の中の厚い雲からは、とうとう冷たい、小さな氷の粒が振り始める。思考が停止する。

 出会ったとき、シャーロットはフェリックスを失ったばかりだった。
 それに対しヴィクターは、二年もアデルを引きずり続けた。

「……だからよ」

 唐突な言葉に、栗色の髪の男が怪訝な顔をする。

 ――引きずり続けたのは、アデルが生死不明だったから、だけではない。
 ロナルドを助けられなかった罪悪感が混じっていたせい、だけでもない。

 ヴィクター・ワーガスがそういう人だからというだけだ。

 それこそ、裏切って勝手に死んだ恋人を思い続けようとしたシャーロットを試す一方で、その一途さに共感してしまうような人だから。

「……フェリックスの影が離れなかった女だからこそ、結構、気に入られてたと思うわ」

 それこそ、好かれているのかもしれないと、シャーロットが錯覚してしまう程度には。

「そう思うと、かえって、早めに終われてよかった」

 ふりしきる粉雪が、心に静かに降り積もる。
 痛みをそっと包んで、優しい冷たさで麻痺させていく。
 忘れかけていた修道女のことを、思い出せてよかった。それを彼に話す決意ができて、よかった。

(神様の、天使の慈悲だったのかもしれない)

 おかげで、あっさり他の男に心を移したことに、目の前で失望されなくてすんだ。
 
 ついでに、命の危機に瀕したおかげで思いを告げられたことを思えば、湖の森での出来事にも一抹の感謝もしておくべきか。

「……何があったか知らないけど」

 ダミアンの声で、自省の雪室に籠っていたシャーロットの意識が顔を出す。
 次期公爵は、通りかかった給仕から新しいグラスを取ると、それをシャーロットに差し出した。

「あの伯爵とほんとに終わったんなら、以前した話が現実のものになってもおかしかないってことだな」

 シャーロットはぼんやりとグラスを受け取ってから目を見開いた。知り合ったばかりのダミアンとした話など、そう多くない。

「あなたねぇ……」

 ふざけるのもたいがいに、と言いかけたシャーロットに、ダミアンが顔を近づけて目を細める。

「本気だよ。レティシアも恨む相手が身近に分散してる方が、僕の身の安全が多少ましになるだろうし」
「……なにその理由」

 シャーロットは脱力し、顔をしかめた。目の前で笑う男は不真面目で、下品な遊び人。
 夫にするには、家柄以外、ろくでもない男だ。今だってシャーロットがむきになって拒むのを楽しんでいるに違いない。
 無性に腹が立った。
 
「……まあね。それは気楽そうよね、お互いに」

 成り上がり貴族から、せせら笑うように皮肉を送る。
 しかし、声に出してみると、本当にそんな気がしてきた。

 フェリックスとの過去も、ヴィクターとの短い婚約のことも知っている男との生活なら、秘密は無しだ。多少の醜聞なんて、今さらお互い気にしようもない。第一印象は最悪だったのだから。――奇しくも、ヴィクターとシャーロットの出会いと、同様に。

「……」

 グラスを口元に当てたまま考えはじめたシャーロットの様子を、ダミアンは驚いたように見つめて、そして興味深そうに、続く言葉を待った。――何気なく視線を上げた直後に、その顔をぴき、とこわばらせるまで。

「……ほ、ほんとに、伯爵と終わってんなら、の話だよ」

 小さな声で念を押した男は、青ざめてその場から一歩後ずさった。立ち去るのを阻んで引き留めたはずのシャーロットから離れるように。

 その態度の急変に、シャーロットは目を瞬かせ、次にムッとして口を開いた。

「なぁに、せっかく本気で検討しようとしてたのに、やっぱり酔っぱらいの冗談だったって言うの?」
「勘弁してください、それこそ冗談でしょう」

 ――シャーロットは、玄関で卒倒した父に心から申し訳なく思った。
 思いがけない言葉に、本当に心臓が止まりかけることもあるのだと思い知ったから。

 結局一口も飲めていなかったグラスが、背後から伸びてきた手に取り上げられていく。

 ダミアンはそっと鼻をおさえて、また一歩後ずさった。
 
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