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第六十四話 帰り支度(1)
しおりを挟む晴天。
そう言うにふさわしい光景が、カーテンを寄せた窓の外に広がっていた。柔らかな日差しを受け、町を覆う雪はきらきらと輝きを放っている。
(まるで)
「……ちっちゃいダイヤみたい」
思わず出た陳腐な台詞に、言った本人がげんなりした。
「え、ダイ、え?」
こぼれ落ちた呟きを、耳ざとく拾ったのは下働きの少年だった。足で扉を支えながら部屋に入ってきた彼の腕には、革製の大きなトランクが抱えられている。
「…………いえ、なんでも」
「そうすか? あ、フェルマー様、これ。バットンのウィンバーさんとこから、おカバン持ってきやしたよ」
十二、三になるか否かという少年に、シャーロットは気まずさを飲み込んで振り返ると、「ありがとう、そこに置いておいて」と寝台の足元に用意されている荷物台を指差した。
チップを受け取った少年が出ていくと、シャーロットはまた雪を被った町へと顔を戻した。
「……」
本当は、窓辺で無為に時間を過ごしている場合ではない。
なるべく早く、荷物から失くなった物がないかを確認しなければいけなかった。たとえ鞄に鍵がついていようとも、旅の常識だ。
そう分かっていても、昨夜のことを思い出すシャーロットは、なかなか冷たい窓のそばを離れる気になれなかった。
***
「ケインズは、公爵夫人からの信頼と立場を利用して“女主人の指輪”を偽物とすり替え、本物をメアリー・コートナーに持たせていたんです」
我に返ったシャーロットが促すより早く、ヴィクターは直前の発言を紐解き始めた。その口調に酒酔いの気配は微塵もない。
メアリー・コートナーと公爵家の繋がりは、来るべきタイミングまで隠しておくはずだった。だからこそ口止めもした。
それが、彼女の早すぎる死によって意味を失くし、それでいてケインズの立場を脅かす秘密となってしまった。
もはや一刻も早く証拠を消さなくてはいけない。なのに肝心の、本物の指輪がどこにもない。
そんなとき、ステューダー伯爵に伴われたシャーロット・フェルマーが現れた。公爵令息が死んだ夜のことを気にする女が、実は公爵令息その人の恋人だったと判明するやいなや、今度は突然帰ると言い出した。
「この流れを、見つからない指輪と結びつけて考えて、あなたをコートリッツへ帰すわけにはいかなくなったというわけですよ」
「……確かに、ケインズからするとわたし達ってめちゃくちゃ不審だったでしょうけど」
シャーロットは気まずくて頬杖をついた。
持たせていた、と言うからには、ヴィクターはメアリーの母の葬式に来た“公爵の代理”がケインズだと見込んでいるのだろうと考える。
(代理って言うのも、きっと嘘ね。あいつ、勝手なことを言ってメアリーさんを焚き付けたんだわ)
そこでやるせない気持ちになった。ケインズの動きが独断だったなら、公爵はメアリーを完全に捨て置いていたのだ。
ヴィクターは構わず続けた。
「もうひとつ、なぜ指輪をすり替えてまで、そんなことをしたのか。……ケインズが吐くまでは推測しかできませんが、彼は自分の死後、身寄りのないメアリー・コートナーの生活が脅かされることを恐れていたんだと思います」
シャーロットは金色の眉をぴくりと上げた。推測を語るにしては、淀みのない口ぶりである。
「何それ。巻き込んだ責任を感じてたってこと?」
「巻き込むというか。そもそも、こんなこと、ケインズ自身には得がありません。影響を大きく受けるのは、庶民から貴族に変わるメアリー・コートナーだけ。
だが、一連の動きが日陰者たる彼女のためだったというにしては、出生の秘密をしばらくは黙っているようにと言い含めているのは奇妙です。彼女からしたら、一刻も早く名乗り出た方が良いのに」
ふむと、シャーロットは少し視線を上にずらして言葉を探した。
「……公爵が隠し子の存在を認めないことを、見越してたんじゃないの? 実際、フェリックスに言われても、公爵は認めなかったってレティシア様は言ってたんでしょ」
シャーロットの見立てに、ヴィクターは表情を変えずに「あるいは」と続けた
「本当に公爵の子ではないとケインズ自身も知っていたから、とか」
「……え?」
青い目は、まばたきすら忘れてしまったかのように固まった。
「公爵が生きているうちに彼女が娘だと名乗り出たら、公爵本人に理路整然と否定されてしまう。コートナーがペテン師として捕まってしまう。それを、恐れていたがゆえの口止めだとしたら」
「……何を言っているの?」
「もしも現公爵の死後、紛うことなく本物の、ロザード家の家宝を持ったコートナーが、“実は自分は前公爵の娘だ”と名乗り出たら? 父親だと名指しされた方はもう否定できず、後妻は納得できなくても当時を知らないから反論もできない。そんな状況で、ロザード家の執事が彼女の言葉を裏付けるようなことを言い添えたら。
……新当主のフェリックス殿は、彼女を妹として保護したんじゃないですか?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って、推測よね?」
「もちろん」
思わず腰をあげて口を挟んだシャーロットが、ヴィクターの返しに安堵することはできなかった。すごすごと席に座り直してから、口をついて出たのは反論でも異論でもなく、疑問だった。
「……あの男、なんでそこまでメアリーさんのことを気にかけたの?」
先程から逐一説明されているはずなのに、シャーロットには分からないことが次から次へと現れる。
――その一方で、シャーロットの中でもひとつ、答えが形を作り始めていた。
「なんであいつがそこまで……。だってそれじゃ、まるで」
「『メアリーさんが、ケインズの娘みたい』?」
あくまでも推測、と自身に言い聞かせていたシャーロットの内心を、ヴィクターはあっさりと言い当てた。
シャーロットは、動揺の欠片も見当たらない鳶色の瞳を凝視するしかない。
「……そ、そんなわけないわよね。だってメアリーさんのお母様は……」
――『自分の父親は公爵家で一番偉い人だった』と聞かされていたのだと――
「……まさか」
シャーロットは気がついた。その、もったいぶった言い方のおかしさに。
「“一番偉い人”って、“公爵一家の中で一番偉い人”っていう意味じゃなくて、“使用人の中で一番偉い人”のこと……?」
ヴィクターは否定しないまま、小さくぼやいた。
「コートナーの母親は、使用人の中でも下位だったのかもしれませんね。主人一家と直接話す機会のないような。……それこそ、執事ともなればおいそれと逆らえないとでも言うような」
では、フェリックスもレティシアも、そしてメアリー自身も、最初から勘違いをしていたということか。シャーロットは頭痛を感じてこめかみをおさえた。
「……だから、公爵もフェリックスの前でメアリーさんのことを認めなかったのね。本当に事実と違ったから」
ヴィクターが足を組み替えた。伏せられた目には、わずかに不快感が見てとれる。
「領主館を出る前に、古参の女中に聞きました。
あのケインズが、公爵含めた一家から大きな信頼を寄せられていたのは事実。しかし過去に一度だけ、彼が主人の不興を買ったことがあったそうで。その理由が、結婚の許可を得ようとした、というものだそうです。
もちろん、それを禁じることなんてできません。が、公爵はいい顔をしなかったのだと。その意を汲んで、奴は結局独身のまま働き続けていたようです。……表面的には」
シャーロットはつらつらと思い出していた。寄宿学校で耳にした、伝統を重んじる貴族にとってもすでに昔話とされた慣習を。
いわく、良い使用人の条件には、独身という項目があったという。
自分の家族がいると、主人一家への忠誠心がぶれるから、と。
(……誰から聞いたんだっけ。教室の子? ……違う、あの学校では貴族の友達はあんまりいなくて、だから……)
途端、息を飲んだシャーロットだったが、それに目もくれずにヴィクターは「うちですら、もう祖父の代には不問にしている悪習ですよ」と、淡々と言い捨てた。
「……シャーロット、どうかしましたか」
「……いえ、その」
口元をおさえてテーブルを見つめていたシャーロットは、ヴィクターの問いかけにもごもごと答えてから、ふと思い浮かんだ内容に青ざめた。
白い喉をごくりと上下させると、「ねぇ」とこわごわ目の前の男に問いかける。
「その、メアリーさん、本当に、事故死だったのかしら。だって公爵は……」
頭に浮かんでいたのは、ダミアンの『プライドと体面のために人を殺しもする』という言葉だった。しかし、ヴィクターはあっさり手を振った。
「執事の醜聞を嫌った公爵が殺したんじゃないかと? そこまでしたとは思いません、隠し子がフェリックス殿の子だというならともかく」
フェリックスの子なら、という付け足しに頭のすみが冷えたが、ヴィクターの様子に、シャーロットは拍子抜けした。
「そ、そうよねぇ」
「ただ、あなたと同じ考えに、ケインズも辿り着いたかもしれませんね」
「……」
「そして彼女が殺されたきっかけを、フェリックス殿の行動に見出だしたのかもしれない。
レティシア嬢とのもめ事よりも、フェリックス殿が公爵にメアリーの認知を迫ったことの方が目立っていたようですし、彼が余計なことをしたせいで、と逆恨みを抱いたかもしれない」
シャーロットは押し黙った。ようやく見えた気がしていた。あの実直な執事の中に、冷酷な殺意が芽生えた理由が。
ヴィクターは淡々と話を続けた。
「だからフェリックス殿を殺した。それが他殺だと見破られたときには義理の娘に疑いが向くように仕向けたうえで、公爵にも毒を盛った。ダミアンのことは放っておいてもレティシア嬢が引きずり落すでしょうから、それを諫めなければいいだけ」
公爵家に信を置かれる執事が、公爵の養女と後継者の確執を、その無躾さをただ見ているだけだったのは、彼らが反目しあい、孤立していくことに、何の危機感も抱いていなかったからだったのだ。
それどころか。
「それでも、国のどこかから公爵位を継げる人間が連れてこられたでしょうけど、ここまで壊滅させればひとまずの復讐は果たせたと言えるでしょうね」
――それどころか、心の内は仕えた家への不信感と、娘の死に対する喪失感でいっぱいだったのだ。
「……ケインズは」
シャーロットは、いつの間にか俯いていた自分に、声を出して初めて気がついた。
「ケインズは、きっと長く、公爵家に勤めたはずよね」
「……ええ、そうでしょうね」
――父を知らなかったメアリー・コートナーの存在を、果たしてケインズはいつ知ったのだろう。
いや、いつであっても関係ない。そのことを、ちょうど最近思い知ったところだ。
「きっと、フェリックスが生まれた日も、ダミアン様がいじけていく過程も、レティシア様が自分やメアリー様に心を開く様子も、目の前で見てきたのよね」
シャーロットが上げた視線の先に、栓の抜けたシードルの瓶が置かれている。
外から見れば、浮かぶ白い泡すらも華やかな、かぐわしい黄金色の瓶のごとき名門、ロザード家。
しかし、いざ開けてみると、りんご酒よりずっと苦い。
それでも、口触りの悪い傲慢さの底に、情が揺蕩っていた。
「長い長い時間が、あったはずなのよね」
ほんの数日前に知り合ったシャーロットより、ずっと長く、そんな彼らを見守っていた。
「それでも」
ほんの一年前に恋に落ちたシャーロットより、ずっとずっと長く、フェリックスと時間を重ねていた。
「……それでも、積み重ねた時間なんて、関係なかったのね」
最近、思い知ったところだ。
誰かと繋がっていた時間の長さに、意味などないのかもしれないと。
ある瞬間に現れた大きな感情が、一瞬ですべてを覆ってしまうことなんて、何も珍しくないのかもしれない、と。
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