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第七章 天敵求婚譚

81 誓いの言葉

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「あなたったら、なんで舅をそんなふうに言えるのかしら! 本来なら、“お嬢さんをください”って頼み込むべき相手なのに!」
 
 フェリータが不満げに言うと、ロレンツィオからは「だってお嬢さん、“ください”って頼む前に降ってきたからさ」と、おなじみの憎たらしい微笑みを返される。

 悔しさで男の肩へ軽い頭突きを見舞ってやれば、慈しむように撫でられてしまい、かえって頬に熱が上った。

「……お式、あんな嫌々済ませてしまったの、もったいなかったですわね」

 ふと口をついて出た言葉に、ロレンツィオが答える。

「状況が状況だったからな」

 フェリータはまたむくれた。

 ――今だったら、すごく幸せな気持ちで挙式ができるのに。
 誓いの言葉も、心の底から頷くことができる。後半に変な宣戦布告なんて付けなくても。

(リカルドはいいわね。結婚式、これからだもの)

 あの二人は、式にはこだわらなさそうだが。

「……明日も仕事だから、そろそろ帰るか」

 甘える猫のように頬をすり寄せたところで、男からぼそっと提案される。薔薇窓からの美しい光を眺めるこの静けさに、名残惜しさもあったが、フェリータは賛成した。

「ええ。グィードも暑いでしょうしね」

 何気ない一言だったのだが、背もたれから身を起こしかけたロレンツィオの表情が見る間に変化し、何か苦々しい記憶をかみしめているような顔となった。

「あいつ実家に戻せよ」

「だめ。嵐の夜にわたくしから離れたからって、パパったら長年仕えてくれた彼を解雇してしまったの。わたくしに忠実な騎士よ、絶対雇いますから」

「……それを見越してクビにしやがったなあのピンクジジイ」

 ロレンツィオが剥き出しの額を手の平で覆い、暗い声で呻いたとき。
 
「誰かおりますかな?」

 きい、と蝶番のきしむ音とともに、老神父が祭壇の奥から現れた。

「あら、騒いでしまってごめんなさい」

 フェリータが跳ねるように立ち上がって謝ると、神父は「ああ、あのときのお嬢さん」と見えない目を向けてきた。

「『あのとき』? 知り合いか」
 
「……どなたかと声が似てるのでしょう、ね、神父様!」

 オルテンシアとロレンツィオの会話に聞き耳を立てていたことを言いたくなくて、しれっと嘘をつく。そのとき、神父の歩く動きに合わせて杖を突くカツンという音が響いた。

「……神父さん、あんた目が?」 

「ええ。そのせいか、年の割に耳はいいんですよ。祝祭の日にお聞きした声かと思ったのですがねぇ」

 全然ごまかせてないし、なんなら墓穴を掘っていた。
「やっぱあんときの匂いってこれか」と白々しい呟きとともに、また一束の髪を持ち上げられ、今度は決まり悪さに顔を赤くして男の鼻先から毛束を取り返した。

「そう、あの日は確か、秘密の結婚式があったんですよ。家族に反対されているからと、お若い夫婦二人だけでひっそりと」

 しみじみと当時のことを思い出している神父に愛想笑いをして、後ろめたいフェリータはさっさとこの場を離れようとした。通路に落としたままだった日傘を拾い上げる。
 そうとも知らず、神父が閃いたように口を開く。

「ああ。もしや、お嬢さん方もそれが目的でしたか?」

 動きを止めたフェリータに代わって、立ち上がったロレンツィオが苦笑いして口を開けた。

「いえ、自分たちはもう――」

「そうなんです」

 きっぱりしたフェリータの言葉に、今度はロレンツィオが「は?」と固まった。
 フェリータはさらに力強く言い募った。

「そうなんです! わたくしたちも家の格の違いから家族に反対されていまして、ここへひそかに式を挙げに来ましたの!!」

「なっ……フェリータなに言って」

「突然のことでご迷惑でしょうが、どうか結婚式を執り行っていただきたいのですわ!!」

 意気込む女と二の句が継げない男を前に、盲目の神父は穏やかな笑みで頷いた。

「迷惑なわけがありますか。思い合う二人の誓いを見届けさせていただけるなら、これ以上の喜びはありません。ただ、差し出がましいとは思いながら、ご夫君のほうはこの状況に戸惑っていらっしゃるご様子」

「戸惑うっていうか……」ロレンツィオはこめかみを押さえた。

「いいえ、彼はわたくしのことが好きで好きで仕方なく、今日にも二人の家にわたくしをさらっていくつもりに違いないのです! 今この場でちゃんと夫婦になっておかないとかえってふしだらですわ!!!」

「あんたな……」

「ではもうプロポーズがお済みで?」

「もちろ……」

 諦めたように黙ったロレンツィオの前で、小気味よく続いていた応酬が止まった。

 ――ない。
 プロポーズなんて、されてない。

 思い至った事実に、フェリータは凍り付いた。
 それは当然だ。結婚に至る事情が事情だったのだから。
 でもこの男、最初から自分のことが好きだったのだ。
 なのに、口説く努力も父を説得する苦労もせずに、やすやすと自分を妻にした。

 フェリータの脳裏に、もはや“なぜそうなったのか”なんてことに思考を及ばせる余裕は塵ほども残っていない。 

「……ロレンツィオ」

 赤い照準を、神父から隣の男へと移し、無言で訴えかける。

 聞きたい。
 求婚の言葉が聞きたい。

 老後に孫へ何度も聞かせてうんざりされるような、ロマンチックな決めゼリフが。

 何が何でも聞きたい。

 フェリータの熱い眼差しに炙られたロレンツィオは、冷や汗を流しながら「マジか……今ここでか……」と口元を手で覆い、呟いた。

「……お前な、そういうのは男にだって準備ってものが」

 憔悴を滲ませた言い訳に、フェリータはカッと目を見開いて牙をむいた。

「それを言うなら、花嫁の準備はなんにもできなかった! ドレスも宝石も新調するつもりだったのに、ぜんぶおさがり! 特にドレスなんて、体系に合わせてデザインもこだわって新郎とのバランスも考えて作った、わたくしのための最高の一着を着たかったのに、結局間に合わせるのが最優先だったからママのを幅出し……お直ししたんですのよ!!? 何年も前からいくつもイメージしてたデザインがあるのに」

「……あれ似合ってたのに」

「えっ!」

「背中の編み上げがかわいくて」

「……背中?」

「なんでもない」

 ロレンツィオが腰に片手を当て、もう片方の手で目元を覆って俯いた。真剣に考え込む姿勢が雰囲気で伝わったのか、神父が見かねたように助け舟を出す。

「お若い方、こういうのはかえってストレートな言葉が一番ですよ。凝った台詞はかえって」

「このわたくしを娶るにふさわしい特別な文句でなきゃ嫌」

 遮られた神父が驚愕の表情でフェリータを見た。予期していたのか、ロレンツィオは姿勢を変えない。 

「だって人生でたった一度しか聞けないのよ! 二度と聞けない愛の表現なら、それこそ金の板に彫って額縁に入れて家訓の横に飾ってもいいくらいのものでなくては! それに、真に愛していれば、言葉は自然と胸の内からあふれ出てくるものでしょ?」

 拳を握り、期待に胸を膨らませ。
 残酷なほどハードルを上げる女を、神父は見えない目を見開いて震え、恐れおののきながら見つめる。

「……何も絶対に男性から言わないといけないわけではありませんよ」
 
 その一言で一転、「えっわたくしが言うの!? 何の準備もしてないのに!?」と、フェリータがしたたかにブーメランを食らったとき。

 突然、袖と手袋の間の白い腕を掴まれた。あ、と思うやいなや、小柄な体は男のそばへ力強く引き寄せられる。
 床から足が浮いて、日傘が床に落ちる。抱え上げられたと本人が認識したとき、耳朶を打つ低い声が直に脳へと流し込まれた。

「               」

 男の唇が耳元から離れ、足が床についた直後こそ、フェリータは言葉も忘れて相手の顔を見上げていただけだった。

 だがすぐに、耳まで真っ赤になって、男から顔を逸らし頬を抑えると、「やだもうそんな」だの「そういうところよ怖いっていうのは」などとぶつぶつ言いながら身をよじらせ始めた。

「……まったく、元家来ふぜいが生意気な」

 かつて、憎しみとともに投げつけた言葉を、照れ隠しに独りごち。
 そしてようやく、無表情のまま、じっと答えを待つ男へ視線を合わせる。
 体は離されたが、華奢な手はまだ掴まれたまま。

「……ええ、喜んで。ロレンツィオ殿」

 貴婦人らしいすまし顔に取り繕ったのは一瞬で、またすぐに嬉しさが蜜のように溢れる表情になって、こくんと頷いた。取られた手を、自ら繋ぎ返しさえする。

 ――その顔を見た男が、しばし固まり、物も言わずに見つめ続けてくるので、『えっ! 返事間違えた!?』と、フェリータは一瞬表情をこわばらせたが。

「あんたもたいがい俺のことが好きだな」

 青い目がほどけ、頬が緩んだ幸せそうな笑顔に、フェリータはまた固まった。本当に、初めて見た心からの笑顔だと分かってしまった。

 放っておけば順番に相手に見惚れるカップルへ、寛容な老神父はゆっくりと「お二方とも、前へ」と優しく呼びかけた。
 
「新郎、ロレンツィオ殿」

 名乗っていないのに、フェリータが呼びかけたのを覚えていたのだろう。

「はい」

 素直な返事の新郎を盗み見る。横顔は、あの時と同じようにまじめくさった顔だった。
 でも、目元の冷たさはなりをひそめ、油断すると浮かび上がってくる笑顔を必死に抑えているように見えた。
 
「汝、この女を妻とし、病めるときも健やかなるときも、彼女を愛し、支え、守り抜くことを、誓いますか」

「誓います」

 神父が満足げに頷き、その隣へ向き直る。

「新婦、フェリチア殿」

「……フェリータです」凍り付いた本人に代わって、新郎が震えながら訂正する。

「オッホン。フェリータ殿。汝、この男を夫とし、病めるときも健やかなるときも、彼を愛し、支え、守り抜くことを、誓いますか」

 もう一度、横に立つ新郎の方を見上げれば、今度は目が合った。
『なんだよ』と口の動きだけで問われて、フェリータもまた忍び笑いを漏らした。
 この期に及んで、何に遠慮して声を消しているのか。

 神様の前で私語を慎もうとする、意外と本当に真面目な一面を持つ男に「別に?」と罰当たりな女は堂々と返して、正面に向き直る。

「はい、誓います」

 断言して微笑めば、見えないはずの神父も口元をほころばせた。

「では、誓いのキスを」
 
 向かい合ってから、フェリータは上げてもらうベールもないからと手早く髪を整えた。するとさんざん撫でいた前髪を、また大きな手櫛でかされる。本当に髪が好きねと、照れながら口元が緩んだ。

 列席者も、美しいドレスも花もない、光と静寂だけが埋め尽くす空間で、互いだけを目に映す。

 あの時とは、何もかも違う。祝祭の日にひっそり式を挙げていた二人の方が、まだそれらしい装いだったほどに。
 だがこれが、本当に自分たちの結婚式だと思った。

 見上げる先の、少し目尻の垂れた青い目。真剣に見つめてくる瞳。
 フェリータは緊張と少しの高揚感に包まれながら、ものも言わずに見つめた。
 新郎の顔を。
 ――その先の、高い天井を支える壁を飾る、わずかに開いた薔薇窓を。

 窓枠に、ちょこんとくっつく小さな影を。

 燕のような大きさの、真っ黒いカラスを。
 

「……リカルドッ!?」


 あと一歩というところで教会が揺れ、ロレンツィオが表情を凍りつかせた。

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