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第六章 サルヴァンテの魔術師
70 奇跡は起きない
しおりを挟む「それは……」
どうしたら、こんな嵐を作り出すほど荒れた精神を落ち着かせられるか?
それは魔術師の基礎中の基礎。そして、長い時間をかけて練習するものだ。今ここですぐに習得させられるものではない。
けれど、無意識でも、魔術残滓が落ちなくても、魔術の一つだ。より強い魔力で抑え込むことはできる。変化術を受けた物に、より強い変化術をかければ対象への支配権を奪えるように。
(それができるほどの魔力が残っていれば、わたくしは今ここに留まっていない……)
悔しさを飲み込む。従者たちの中にいる魔術師に掛け合ってみようかと様子を窺ったとき、フェリータの目の前に一匹の犬が走り出てきた。使い魔だ。しかも、大きく開いた口からは、良く知った声が聞こえてきた。
「フェリータ、無事だったか!」
「パパ! そちらこそご無事で――」
安堵して声を弾ませた瞬間、犬の体が解ける氷のように崩れかけ、瞬時に持ち直した。
「パパっ、魔力が!!」
「加勢に来れるか!? ヴィルジーナだ!!」
悲鳴のような娘の叫びを無視した父が寄こした簡潔な要件に、フェリータは声を失った。
「……い、」
答えは、今まで経験したどんな薬よりも苦く舌を引っ搔いていった。
「いけません……」
「……お前、まさか」
つぶらな目の犬から繰り出される父親の声を、今度はフェリータが遮る。何かに気づき、恐れた声を、聴くのが辛かった。
「少し前にロレンツィオが向かいましたわ。魔力が使えなくても、彼は筋肉バカですから、こき使って差し上げて」
「……わかった」
そこで、犬は真珠粒に成り代わった。
転がって水たまりで止まったそれを力なく見つめていると、「カヴァリエリ夫人」とレオナルドの従者から固い声がかけられた。
「今、連絡がありました。ロエネ島は島全体が高波に襲われた影響で、リカルド殿が直接着地できないとのこと。応援に向かわれますか」
フェリータが返事に窮していると、通りから突然飛び出してきた人影があった。
若い騎士だった。フェリータたちに気が付くと「ぺルラ様!!」と、旧姓であることも気が付かないほど切羽詰まった様子で叫んだ。
「大運河の警戒に当たっていた班の者です! 港に向かわれていたカヴァリエリ様が、堤防決壊に巻き込まれてっ、救助にご助力願えませんか!?」
目の前が、真っ暗になる。
(ロレンツィオが、まさか――)
皮肉にも、遠ざかりそうになる意識を引き留めたのは、動転したフィリパの慟哭だった。
我に返ったフェリータはフィリパを抱きしめ、いやに大きく聞こえる自分の鼓動を聞きながら、つとめて平静を保とうとした。
「……カヴァリエリ卿のもとにも、ロエネ島にも、わたくしは向かえません。宮廷番の魔術師に連絡を」
意識してゆっくりと話すさまは、そっけなく、冷たく見えていた。頼ってきた魔術師たちはショックを受け、なおも食い下がろうとする。
「ですが」
「早くなさい」
ぴしゃりと言い放ち、口を噤んで顔を背ける。魔術師たちは諦めて使い魔を準備し始め、騎士は居ても立っても居られないのか王宮の方向へと走っていった。
(どうして)
震えるフィリパをきつく抱きしめる。
そうしていないと、恐怖でどうにかなりそうだった。
(どうしてこんなにも無力なの)
できないことなど何もないと思っていたのに、今は自分から伝令のための使い魔すら出せない。
ここで、仲間たちが力尽きるのをただ人づてに聞くことしかできない。
空は厚い雲がひしめくばかりで、切れ間はどこにも見つからない。
濁流は勢いと量を増すばかり。ここの堤防が用をなさなくなるのも、時間の問題かもしれない。それよりはやく、討伐から逃れた呪獣が現れすべてを食らい尽くすのかもしれない。
朝は、本当に来るのだろうか。
「フェリータ様」
フィリパの小さな声に、フェリータは顔を向けた。相変わらず青ざめ、震えていたが、しかしその声には何か閃いたような含みがあった。
「この天候が、わたくしの力によるものならば……」
見上げてくる薄青の目が、異様な光を帯びている。フェリータは雨粒とは異なる冷たいものが、背中を這うのを感じた。
「わたくしが死んだら、嵐は収まりますか」
返すまでに、ほんの数秒の間があった。
フェリータはフィリパから手を放した。
力を制御できないフィリパは、死んでこの嵐を収めようとしている。それしか方法がないと思っている。
フェリータのことは、見限ったのだ。小さな教会で呪詛に苦しみながら、ロレンツィオを呼んだオルテンシアと同じように。
怒りが、腹の底から突き上げてきていた。
「……分かりませんわ。そのような状況に遭遇したことはありませんもの」
「でも可能性はあるのですね」
「ないわ!!」
否定の言葉をどうにかして肯定に結びつけようとするフィリパに、フェリータは怒鳴った。いったいどこにそんな力が残っていたのか、フェリータは立ち上がり、何かに追い立てられるように言葉を繰り出した。
「あなたが死んでこの嵐が止むかですって!? そんな保障どこにもない! 確実なことはたった一つ、罪人を死なせた罪でわたくしが罰を受けるだけ!!」
「でも!」
負けまいと毅然と見上げてくるフィリパの両頬を、フェリータは片手で力強く掴み、その鼻先へ顔を近づけてまくし立てる。
「そんなことを考える暇があるなら、次に父親が目を覚ましたときに投げつけてやる罵倒の順序でも練り上げてなさい!! 父親だけじゃないわ、あの大噓つきの兄も、無神経な第一王女も、おめおめと騙された教会の連中のことも――」
そこで突然、フェリータの頭をかすめるものがあった。
(教会……)
――運河のすぐ先、海に流れ込む地で“神の意志”が発現したことがあるのを知っていますか。
剣幕に青ざめて黙り込んだフィリパと従者たちは、真顔で静まり返ったフェリータにさらに怯えていたのだが、当人は気が付かない。
視線は横殴りの雨の向こうの、運河の下流へと向いていた。
――海の怒りによる大波に襲われ、この街が水没しかけたときのことです。
ありがたそうに語られるその話に、フェリータは内心呆れ、嗤っていた。
力ない者の自己犠牲の魔術を、教会が体よく利用しただけだと。
けれど今、それが天啓のように思えた。
「フィリパ様」
フェリータはフィリパに向き直り、頬を解放した。フィリパからの肩にすがりつく手もゆっくりと外した。
そしてその手に、リカルドから渡されたレリカリオを握らせる。
「お話の途中ですが、わたくし急な仕事を思い出しましたわ。申し訳ないのだけれど、これはあなたがリカルドにお返しになって下さる?」
「……仕事って、でもあなた、力が」
フィリパの言葉は、体を離したフェリータの耳にはもう入っていない。
どちらに、と止めようとしたレオナルドの従者を一睨みで牽制すると、そのままフェリータは最後の力を振り絞って駆けだした。
きっと体には、“これ以上動いてはいけない”と判断して動きを止めるストッパーがある。
でももう、そんな余力は残さなくていい。
最後の最後の、一滴まで、使い切っていいのだと言いきかせれば、存外、体は動いた。
運河沿いに建つ、慣れ親しんだカフェの扉の、窓を壊して鍵を開ける。人も明かりも無い中を記憶を頼りに進み、階段を上がる。
(おじい様の意図が、ようやくわかった)
――ぺルラ家を継ぐお前にだけ、特別に。
力が必要なのに、それに恵まれなかったフェリータにだけ。
――他の人間には、絶対教えてはいけないぞ。
これは権利と義務のある者だけが全うすべきことだから。
祖父が意固地になったのは、地位や栄光のためじゃない。
自分たちの役目を、誰にも奪わせないためだ。
テラスに続く扉を開ける。端に、濡れたテーブルや椅子が風で流されている。踏み出せば、板張りの床がいつもより大きく音を立てて軋んだ。
手すりの下では、濁流が竜のように走り、轟音を立てている。
「――神でも、海でもどっちでも」
フェリータはまっすぐ前を見つめた。美しい街は別物のように荒れ果てていた。
息を一つ吸って吐く。無様は見せられない。
これが最後の大舞台だから。
順風満帆の人生だった。
ぺルラ家の跡取りに生まれ、早くに宮廷付き魔術師として認められ、大好きな幼馴染みとずっと一緒にいられた。
今はどうだ。
家督は妹が担ってくれるし、停職になっても宮廷付きの誇りは残り、大好きな幼馴染みには少し歪ながら人生の伴侶もできた。
未練はあるが、ためらいはない。
「花嫁でもなんでも、好きな名前で受け取って」
スカートが捲れるのも構わず、フェリータは手すりに足をかけた。
水が流れる音に、誰かが名前を呼ぶ声がした気がした。フィリパか、レオナルドの従者か、走り去って行った騎士か。
でも、何も気にならなかった。よく晴れたあの日と同じように、心はたった一つの目的に集約していた。
「――でも吞み込むのは、わたくしの方よ」
奇跡は起きない。
ここは魔術師が守る国なのだから。
信じるのは、己の力と決断のみだから。
手すりを越えて、足が床を離れる。
二度目の飛び込みは、誰にも引き上げてもらわなくていいから、かえって何も怖くなかった。
***
「カヴァリエリ様!」
「ご無事で!!」
オルカへの変身を解いたロレンツィオとその腕の中の憲兵へ、決壊した運河のそばの民家の屋根から、いくつもの手が伸ばされる。
波にのみ込まれかけたところを捕まえた憲兵を先に押し上げてから、自分も向けられた手を掴もうとして、止まった。
糸で引かれたように、視線は上流の一点へと向く。
「……なんだ?」
何か。
何か、悪寒がしたような。
呟いたその次の瞬間、視線の先で大きな水柱が立った。
すわ呪獣かと身構えたところで、波間からあふれだしたものは光だった。
日の出に似たその輝きが、運河から始まって街に広がり、照らす。突然のことに恐怖し、目を覆う者の中で、ロレンツィオは雷にでも打たれたように硬直し、光を直視していた。
血液とともに全身を駆け巡る戦慄に襲われながら。
やがてロレンツィオ以外にも光の正体に気がつくものが出始める。
「金鯨だ!!」
大きな体が水の中から現れ、雨風を薙ぎ払ってまた頭から運河に潜っていく。最後に上がった尾も、嵐を払うように大きく振られた。
星の血統と呼ばれる魔術師の一族に伝わる大魔術。
戦争に明け暮れたぺルラ家が、海上で、敵も味方も恐怖させた必殺の術。エルロマーニ家の精緻で静かで素早くて、対象に逃れられない死をもたらすそれとは対極の、大雑把で派手でゆったりとした、取り逃すこともあればやりすぎることもある、傲慢な一族らしい奥義。
波の間からいでて、黄金の体で闇を裂き、雲をも飲み込む巨大な鯨。
当然のように、大量の魔力を必要とする大技。
(ばかな、誰が――)
誰が?
決まっている。
「あ、カヴァリエリ様!?」
手を伸ばしていた憲兵の声を振り切り、ロレンツィオは再び濁流に飛び込んだ。
***
重くて冷たい闇の中、全身から力が抜けていくのを感じながら、目を閉じる。
三代続く天敵と、お友達にはなれなかったけど。
好きになれたから、良かった。
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