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第六章 サルヴァンテの魔術師

67 再来

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 残酷な現実に、愕然とした。

 フィリパ・チェステは魔術師だった。魔術師を何よりも欲した侯爵家で、魔術師のふりをするための生贄として搾取され続けた彼女が、それそのものだった。

 なんという皮肉だろう。

「……あたしが、魔術師ですって?」

 固まるフェリータを抑えつけたまま、フィリパは吐き捨てた。

「そんなわけないわ。あたしは呪詛なんてしてない。どうせお兄様がまた……」

 そこで言葉が止まった。何かを探すように瞳が揺れる。
 そうして焦点の合わなくなった目が、やがて声なく見開かれた。何かに思い当たったようだった。

 あの本、と息だけが形作った言葉は、一層大きく揺れたゴンドラのせいでかき消えた。

 大きな波が立った。煽られて、ゴンドラは傾いて坂道を滑るように流された。
 あっけなく体勢を崩したフィリパを、フェリータは抱きとめた。異様に軽い体を抱えて身を起こし、運河を見渡す。
 転覆への恐怖より強く、肌を悪寒が駆け抜けたのだ。宮廷付き魔術師として覚えがある感覚だった。

「……呪獣!!」

 フェリータの叫びと同時に、波の下から巨大な蛸の脚が飛び出してきた。屋根を遥かに越える高さから先端が振り下ろされて、ゴンドラのすぐ横の水面をうち叩く。

 翻弄されるゴンドラは、子に弄ばれる木の葉のように無力だった。フェリータがフィリパを抱え、燃えていないゴンドラのへりにしがみつく。そうしているうちにも、脚は二本三本と水中から姿を現していく。

 そのうちの一本が、再び天高く伸び上がった。狙いは明らかだった。
 赤黒い吸盤のついた触手が、勢いよく頭上に迫る。衝撃を予想して息を飲んだ。

 そこへ、運河の沿岸から伸びてきた黒く長い紐のようなものがぶつかり、しなってぐるりと巻き付いた。そのまま捉え、引き絞るようにして獲物の動きを封じる。

 鞭だ。この怪物を捕らえるからには、魔術で作られた鞭だ。
 
「ロレンツィオ!」

 鞭の出どころにいた男に気がついて名を呼ぶ。

 だが安堵したのは一瞬だった。ロレンツィオは遠目に見ても明らかに消耗していた。当然だ、王国最高峰の魔術師の同僚とやり合い、教会の加護を受けた場所で親友とやり合い、ついさっき呪獣を一人で倒した。

 もし今、この呪獣が標的を河岸の男に変えたら――。

 恐ろしい想像に急かされて、フェリータはとっさに内なる魔力に働きかけた。自分の状態も忘れていた。
 そこへ、頭が真っ白になるほどの激痛と、心臓を引き絞られるような痛みが容赦なく襲いかかる。

「――っ!」

 フェリータは思わず胸を抑えて、前のめりに倒れ込んだ。
 
 魔術薬による回復効果は、蝕まれた生命力にまでは作用しないのだと、身をもって知ってももう遅い。
 
 雨で霞がかる視界に、同じように横倒しになっている侯爵の姿と、そこへ近づく女の足が映り込んだ。

「フィ……ま……」

 見上げた先にいる、女の瞳は暗かった。薄笑いを口元に浮かべながら、深い悲しみとやるせなさに沈んでいた。視線が向かうのは、フェリータが一瞬前まで見つめていた河辺だ。
 届かなかった思いを、最後に見納めようとしているかのように。

「よくわかったわ。どんなに祈っても、どこからも救いが来なかった理由が」
 
 雨とも涙ともつかない雫が頬を伝う。床の上の、未だ意識を取り戻さない父親に視線が戻される。

「結局、あたしも悪魔のひとりだったからなのね。……あんたたちと、なんにも変わらないということを、神様はご存知だったからなのね」
 
 か細い手が、男の体を引きずりあげる。ゴンドラのへりの炎など見えていないかのように、そこへ足をかける。
 動かされた拍子に、侯爵の口が薄く開いた。その奥に、フェリータは細い糸状のものを垣間見た。
 それが何なのか、わからないはずもない。

 フェリータはもう一度フィリパに掴みかかろうとした。
 しかし体は波に揺れ、疲労に蝕まれ、頭の中から足先まで余すことなく痛みに苛まれていた。

 実際には、腕の一つも上がらなかった。

「やめて……!」

 絞り出した懇願に、フィリパは一瞬微笑んだ。ぶざまねと、その口が動いたように見えたが。
 次の瞬間、父親の体を抱えたまま、ゴンドラのふちを超えて水音とともに落ちていった。



 波が、ひときわ大きく荒れた。



 絶望とともに背後を振り返る。目玉が八つある蛸のような魔物は、ロレンツィオの鞭を引きちぎり、こちらに触手を伸ばしていた。パンドラの操る金の鎖が水中から飛び出したが、巻き付くのはもう間に合わない。

 呪獣の叫びが、人生で最後に聞く声になるのか。

(こんな、人も王都も助けられないまま、無駄に死ぬなんて)

 無力な己を憎んでも、ただ怪物を見上げることしかできない。せめてと思っても、河辺にかの男の姿は見つけられなかった。大きな脚が、鞭のように振り下ろされるのを、ただただ待つしかなかった。
 

 待つしか、なかったのだが。
 ほんの一瞬、まばたきをしたのを境に、フェリータの周囲は様変わりした。

 耳をつらぬく呪獣の悲鳴。
 目の前には、視界いっぱいに広がる、白く薄い膜のようなもの。
 呪獣の吐く毒霧かと思ったが、すぐに違うとわかる。顔に触れたのは、薄いレースの布だった。

 いったい何が起きているのか。
 上を見上げれば、曇天が広がるばかりのはずの上空は、レースのカーテンが降りた天蓋で遮られている。
 波も雨も、レースのカーテンに弾かれている。

 呪獣の脚に至っては、触れたそばから焼けた鉄に触れたかのように焦げて、逃げるように離れていく。

 魔術だ。ゴンドラが天蓋で覆われて、それが防御盾になっている。

「ロレンツィオ……?」

 呟いてから自分で否定した。今の彼にこんな繊細な魔術は作れないだろう。なら魔術師長か。王都じゅうが混乱にあえぐ中、責務を果たせないフェリータたちを助けに駆けつけたというのか。

 いや違う。

 天蓋の中で立ち上がりかけたとき、波の向こうで、呪獣が再び悲鳴を上げた。脚を何本も空に向かって上げ、水面に浮上した本体をよじらせている。
 まるで恐怖し、暴れ、この場から逃げ出そうとするかのように。

 フェリータはレースカーテンに手をかけた。防御盾の外に出ようとした、そのとき。

「まだ開けちゃだめ」

 背後からの声に、手が止まった。耳に感じた吐息と体温に振り返るが、そこには誰もいない。

 確かに声がしたのに。
 フェリータに、理解より先に服従を覚えさせた、恐ろしく身勝手な、優しい声が。

 フェリータの意識を引き戻したのは、呪獣の断末魔だった。

 開けるなと言われた天蓋のレースの向こうで、呪獣の体がみるみるうちに石に変わっていった。ものの数秒で、大きな魔物の形の石像が、ずっしりと運河の真ん中に顔を出すこととなった。

 その石像の頭頂部に、人がいた。残っていた街の光が映したのは、淡い色の髪だ。

 その人物は何もない空中に右手を突き出し、何かを掴んだ。細長い物だった。それを両手で持ち構え、先端を下に向ける。
 それはちょうど、マスケット銃で足下の呪獣に狙いを定めるかのような動きであり。

 少し億劫そうで、けれど流れるような、迷いのないしぐさだった。

 フェリータは口を開いた。

 同時に、雨風の中で破裂音がかすかに響いた。魔術だからこそ、雨をものともしない火薬の働き。

 石像に亀裂が走ったあと、粉々に砕け散るまでは一瞬だった。体液も肉片もただの瓦礫となり、呪いを外に漏らすことなく転がって運河に落ちていく。

 それらからも守られたゴンドラの内側で、フェリータは焦燥感に駆られた。

「どうして……」

 呪獣とともに、頭頂部にいた人物も消えていた。
 フェリータはカーテンに手をかけた。今度は止める声もない。

 それどころか、天蓋そのものが煙のように消失した。――まるで、術者が力尽きたかのように。

 ざっと血の気が引いた。舞い散る魔術残滓を払って視線を巡らせる。河岸を見上げれば、ロレンツィオが切羽詰まった顔でこちらを見下ろしていた。

「た、助けてロレンツィオ……!」

 ロレンツィオ、お願い。
 あの人を、助けて。

 痛みと息苦しさと焦りで、すがる言葉は極端に短くなった。

 ――それは、ゴンドラの船尾から届けられた「ふーん」という相槌を、いまだかつてないほど冷たくさせた。
 フェリータは心臓を飛び上がらせて振り返る。

「この状況で、そっちの、へろっへろの脳筋を頼るわけ。いや、別にいいけどさ、弱い者同士助け合うのは美しいんでしょ。僕にはわからないけど」

 男はずぶ濡れでしゃがんでいた。足元には、同じように水に濡れ、倒れ込む男女が一人ずつ。

 フィリパとチェステ侯爵だった。咳き込むフィリパの横で、男のしなやかな指が、意識のないチェステ侯爵の口の中へためらいなく差し込まれる。

「……ど」
 
 どうして、という言葉をフェリータが形にする前に、魔女の心臓を回収した男が再び口を開く。苛立ちをあらわにした声は、かつてフェリータがこの世の終わりのように恐れたもの。

「それによく聞く話だよね。男ができたらそれまでの友達は捨て置かれるって。まさかフェリータがそうなるとは思わなかったし、そうならないように育てたつもりだったんだけど。いや別にいいよ、僕もレオナルドに引っ張られて、ここに来ただけだもの」

 男は繊維質の呪物を手で包み込み、不機嫌そうに目を閉じる。ややあって手と目を開いたときには、むき出しだった呪物はつるりと輝く金のロケットに包まれていた。
 途端に、呪物を前にして感じていた不快感が激減する。

 冷ややかな声を受けて、フェリータはぶわっと涙を盛り上がらせた。違う、誤解ですわと、思ったがしかし口には出てこない。
 それを見て、男はようやく目元を緩めた。口元は相変わらず尖っていたが、緑の目には泣かせた気まずさが浮かんでいる。

 それはフェリータが、今までにあまり見たことのない表情だった。

「……ひとことお礼くらい、なんて、思うほうが図々しかったかな」

 拗ねたような口ぶりのかたわら、即席のレリカリオに封印の紋様を描く男に、フェリータは全力で抱きついた。 

 ゴンドラの床に、荒れる運河に、はらはらと鷲の羽が舞う。

「ありがとう、リカルド!!」

 抱き返す腕ににじむ戸惑いも、いつも余裕綽々の彼らしくなかった。







「……おい、さっさと上がってこいよ。俺からも礼をするから」

 たっぷり十秒抱き合ったあたりで、雨音と風を押しのける地響きのようなド低音が小舟の上に降りかかる。
 二人はしばし、石のように固まった。

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