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第四章 魔力なき呪い

44 呪いのねらい

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 夜の運河をオルカがはしっていく。

 波を裂き、無数のゴンドラの間を縫って、やがて白い壁をブーゲンビリアが覆う豪邸の前につくと、オルカは河川敷へと跳ねるように上がった。その体がすぐに黒い靄に覆われ、晴れたときには人間の男の姿に変わっていた。
 手には、蓋つきの空の瓶が大切そうに抱えられている。

「カヴァリエリ様!」

 水音を聞きつけて、屋敷から使用人たちが現れ、門を開けた。
 ロレンツィオは前髪を撫で上げた手で『構うな』と彼らを制すと、持っていた瓶の蓋を開けて口を下に向けた。

 空っぽのように見えた瓶から、もわもわと黒い煙が溢れ、地面に溜まり、寄り集まって塊となる。

「ママは!?」

 五秒もかからず、黒い靄はピンクの髪の女をその場に残して消えた。

 瓶に封じられていた実体を取り戻したフェリータは、使用人の返事を待たずにジーナのいる寝室へとなだれ込んだ。

 中ではフランチェスカが寝台で目を閉じて横たわるジーナの胸に手を当てていたが、その顔は涙でぐちゃぐちゃだった。

「お姉様、どうしよう、ママが死んじゃう!!」

「代わる! パパはどこ!?」

 オルテンシアと同じように、寛げたジーナの胸元には痣が浮かんでいた。オルテンシアのときよりももっと色が濃く、壺から這い出た獣は全身を表し、二匹目の獣が鼻先をのぞかせていた。
 発現から時間が経過している証拠だ。

「使い魔を出してますけど、私の魔力じゃ探知しきれなくて……夜警に出てて、後が追えないのです」

「なんで夜警!? 今日はパパの番じゃ……あああそう、わたくしの穴埋めね!!」

「違う、オルテンシアの一件で巡回の人数と頻度を増やしたから――あんたは魔術を使うな!!」

 追い付いたロレンツィオが止めたときすでに、フェリータは妹に代わって青白いジーナの胸元に手をかざし、力を込めていた。その目には“あの時もできた”という自信があった。

 あのときと同じように、魔力を流し込み、かけられた呪いを順番に解いていく。これでうまくいくはず。

 ――なのに、解いても解いても呪詛が消えない。
 フェリータの頭が急速に冷えていった。恐怖で固まった指先を愕然と顔の前にかざす。

 オルテンシアにかけられたものと違う。これは、もっと複雑な呪いだ。

 それでももう一度、とフェリータが再度母の胸に重ねた手を、ロレンツィオが強く掴んで引きはがした。

「邪魔しないで!」

「ジジイに言われただろう、使うなって! 変身もできなくて瓶で運ばれたくせに解呪ができるか!」

 確かに、レリカリオが戻ってくるまで魔術は使うなと言われている。
 けれどそんなことを、今この状況で守れるはずがない。両手の自由を奪われて引き立てられても、フェリータは暴れた。
 
 しかし、魔術なしの二人には絶望的なくらい力の差があった。部屋の入り口付近まで引きずられ、母のか細い息と苦しげな眉間のしわを目にし、フェリータは恐怖と無力感とロレンツィオへの憎しみで涙をあふれさせた。

「放しなさいっ、放せ! 殺すわよ!! グィード、こいつを殺して!!」

「ああ殺せよ! 解呪してからならいくらでも! グィード、おまえの仕事はこいつをここで持ってることだ!」

 そう叫んでロレンツィオは部屋の入り口にいたグィードにフェリータを押しつけた。顔面蒼白の護衛騎士は一瞬迷うような顔をしたが、すぐに元主人の肩を寝巻越しに抱えこんだ。

「放しなさっ……!」

 無理やり魔力を使おうとしたが、それは体の内にこもって出力されなかった。なぜと思ったフェリータは、自分の手首に黒い痣が浮かんでいるのに気がついた。
 
「魔力拘束……! 許さないカヴァリエリ! 八つ裂きにしてやる!!」

 金切り声を上げるフェリータに、しかしロレンツィオは振り返らず、ジーナのいる寝台の横についた。

「いつ頃発現した?」ジーナに視線を注いだまま、青ざめてしゃくりあげるフランチェスカに問う。

「に、二十分ぐらい前、急に倒れて、苦しみだして」

 答えを噛み締めるように繰り返しつつ、手袋を外す。むき出しの手が懐中時計を取り出した。
 青い目は呪詛のしるしに油断なく向けられている。

「進行が遅い」

「え?」

「死の呪詛なら、こんなに長くもたないはず。ダミーだ」

 呟いて、ロレンツィオは脱いだ右の手袋を片手で扱える短銃に変化させた。フランチェスカが「ヒッ」と息を飲み、フェリータの絶叫が空気を震わす。

「おまえ、おまえママに何をっ!」

 それらを無視して、ロレンツィオは懐中時計をひっかけた左手だけをジーナの痣の上に浮かべた。
 青い目が一層剣呑な光を帯びる。

 突如、ジーナの体が寝台から突き上げられたようにドンッと跳ねた。

「ママ!!」

 フェリータが叫ぶ。ロレンツィオは振り返らず、左手の下で苦しむジーナに視線を注いだ。
 険しい目元は、魔術が行われている証拠。

 ――その瞬間は突然やってきた。

 ばつんっ、とジーナの皮膚を破るように狼の頭が飛び出してきて、ロレンツィオの頭に大きな顎で食いつこうとしたのだ。

「きゃああああああ!!」

 フランチェスカの悲鳴に、無情な銃声が重なった。

 飛び散った血が壁を汚す。魔狼の咆哮が、居合わせた人間の耳と心臓を揺さぶった。

 けれど、それだけだった。

 口から後頭部に向かって撃ち抜かれた狼の頭は、刺された泡のように弾け、消えた。

 ロレンツィオが立ち上がり、羽交い絞めにされていたフェリータの方に向き直る。

「グィード、なんか拭くもの持ってこい」

 解放されたフェリータが倒れ込むように母の枕元にたどり着くころ、ロレンツィオの手の中で銃が靄に変わって消えた。

「ママ……?」

 窓から、羽ばたく音がした。
 フクロウから姿を戻す途中のレアンドロが、真っ青な顔で部屋に降り立った音だった。


 ***


 眠ったままのジーナから痣が消え、顔に血の気が戻り始めたのを確認して、魔術師たちは女主人の寝室から出た。

「本質は拷問の呪いだったんでしょう」

 応接間の肘掛け椅子に腰かけたロレンツィオの言葉に、四組の紅茶が出されたテーブルを挟んでソファにかけた固い表情のレアンドロが口元をぴくりと動かした。
 父の横に浅く座っていたフランチェスカが「なんてこと」と口を覆う。

「拷問……」

 フェリータは三人から離れた窓辺に立ち、男の言葉を反芻した。

 拷問の呪いは対象をひたすら苦しめることを目的とした呪詛だ。対象を直接死に至らしめるわけではないが、呪われた相手は長い時間をかけて休息も取れず、衰弱してやがて死ぬしかない。

「死の紋様は、それを覆い隠すためだけにかけられていたんでしょう。発現からニ十分もあれば手遅れになってもおかしくない呪詛なのに、進行がゆっくりだったのはおそらくそのせい。逆説的に、強くかけられていた拷問の呪いが、うっすらかけられていた死の呪いの進行を阻んでいた」

 手遅れという単語によろけたフランチェスカの手を、黙ったままのレアンドロが取って支えた。

「あ、あの狼の頭は……」

 震える声で尋ねたフランチェスカに、ロレンツィオは淡々と「俺に対する反撃ですよ」と答えた。

「隠されていた本命の呪いを先に解いてしまえば、死の呪いは土台を失って勝手に消える。けれど苦しみの呪詛は“長く残ること”に重きを置く呪いだから、解呪されそうになるとその術者を襲う防衛機能が付いているんですよ」

 そう、とうなずいたフランチェスカは、その顔を今度は父親に向けた。

「パパ、なんでこの屋敷で呪詛が働いたんです? ここはぺルラの守りの力がずっと強いはずなのに」 

「……すぐに調べる」

 憔悴した顔のレアンドロからは、そう答えるのがやっとというのが見てとれた。
 けれど、ひとりで母親の危機に直面した娘は、その答えでは納得しなかった。

「調べるって言ってもどうするんです? だってパパの魔術や宝物庫の呪具の力をかいくぐってママを呪える相手なんて、この国にはほとんどいないはずじゃ……パパ!」

「カヴァリエリ殿、ご迷惑をおかけしましたな。休んでいきなされ」

 ソファから立ち上がった伯爵が足早に部屋を出ていくのを、フランチェスカが追いかけた。

 部屋に残された者の間に、しばらく沈黙が落ちた。 

「……一目で、見抜いたの。呪いが二重だと」

 静かに尋ねると、ロレンツィオの顔が自分の方に向いたのを感じたが、暗い庭を見つめるフェリータはそれをわざと無視した。

「……騎士団で魔術の素養がある奴は、敵の攻撃がどんな意図を持っているかを瞬時に判断することを求められる。二つの魔術を重ねて本質を覆い隠すのにすぐ気がついたのは、学生時代、それを魔術科での研究発表の題材にした奴がいたからだよ」

 そうだ、この男は学生かつ騎士という忙しない経歴を経ている。
 家の中で父と祖父、書物からだけ学んできたフェリータとは、圧倒的に経験が違う。

「色々知ってますのね」

「だてに三年早く生まれてないんでね」 

 フェリータはそっと男の方を見た。
 言葉とは裏腹に、ロレンツィオの顔には笑いらしい表情は微塵も浮かんでいなかった。

 男が冷めたカップを口につけたのを見て、フェリータも父が座っていた場所へと向かった。腰を下ろして、自分のカップから一口すする。

「ありがとう、助けてくださって。きっとわたくしじゃ、母を苦しめるばかりだった」

 カップを離した口から、礼の言葉が自然とこぼれ出た。

 同時に、ほとほとと新たな涙も流れ落ちる。顔を隠そうにも、カップが手を塞いで動かない。

 溢れ出す恐怖と安堵で、体が言うことを聞かなくなっていた。

「礼には及ばない。サルヴァンテの魔術師の本分だ」
 
 そう言って立ち上がったロレンツィオが、先程までフランチェスカがいた場所に腰を下ろした。来るなとも言えず、しゃくりあげるしかないフェリータの視界が突如狭まる。

 「持ってろ」と言って頭からかけられたのは、男の上着だった。

 気遣いの下で、しばらくべそべそと泣いた。時折、上着越しに頭を撫でる重みがあったような気がしたが、はたき落とすなんて考えは微塵も浮かばなかった。





 数日前にも経験したような頭痛と倦怠感に襲われ始めたころ、フェリータはようやくカップを置いて口を開くことができた。

「でも、どうしてママが……?」

「ぺルラの人間で、非魔術師で、占術師だからだろう。敵が多くて、自衛手段に乏しいが、稀有な能力者だ」

 いまだ横にいるロレンツィオの答えに、脱いだ大きな上着を(濡らしてしまったわ……)と手元でいじっていたフェリータはかすかに眉を寄せた。

「占術師と言っても、もう何年も未来予知はしていませんのよ。外出しない人だから、恨みを買うこともないと思ってましたのに……何がねらい?」

 苦い顔のロレンツィオが口を開きかけたが、そのとき部屋の外から「ママが起きましたわ!」とフランチェスカの声が飛び込んできた。

「ママ!」

 フェリータは上着を放り投げ、廊下へと走った。

 貸した上着を頭に投げ返されたロレンツィオは、ネロリの香りが移ったそれをずるずると引き下ろして「こーいう家だよなお前らって」とぼやいて、立ち上がった。


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