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第四章 魔力なき呪い

39 (出た……)

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 どうりで、部屋に見覚えがないわけだ。

 不作法に焦るフェリータを、ヴァレンティノは宥め、場所を移るよう促した。

「この部屋は母の寝室で、病がちなので……それより、一体何があったのですか。レオナルド殿が他人を傷つけるようなところに出くわしたのは始めてですよ」

 歩きながら聞かれて、フェリータの首にあの指の感触が蘇った。焦りと戸惑いが、怒りに取って代わる。

「あの男に、騙されましたの。お祝いだなんて言って、あの宝石を差し出してきて!」

 それを受けて、ヴァレンティノが思案げに呟く。

「“ゴルゴンの鎖”ですか。でも、あの呪具は動きを奪うだけで、対象を命の危機に晒すようなものではなかったはず」

 その言い方が、フェリータには否定されたように思えて、きっとまなじりを吊り上げた。

「改悪したのですわ! おのれレオナルドめ、どんな禁術を」

「そうでしょうか。……どこか、他にも原因が」

「わたくし死にかけたんですのよ!?」

「…………そうですね。今のは、浅はかな言動でした」

 ――しまった。

 男の引きつった笑みに、怒る相手をまちがえていることを思い知らされた。

「い、いえ、わたくしこそ、助けていただいたのにとんでもない態度でしたわ。侯爵夫人にもご無礼を働いてしまいまして」

 恥じ入るフェリータに、ヴァレンティノは今度は優しく微笑み、「構いませんよ。お元気になられたなら良かった」と返した。

「こちらこそ、勝手に連れ出してしまって申し訳ありません。その場で“ゴルゴンの鎖”の呪いは解きましたが、弱った体そのものを回復させるのに薬がそろっている自領域の方が都合がいいので、つい」

「そうでしたの……あのクソや、ンンッ、レオナルド・バディーノはどうなって」

 すると、ヴァレンティノはやや不可解そうに眉をひそめて答えた。

「レオナルド殿は、手から出血なさっていましたが命に別状はないようですよ」
 
 血?
 自分は無意識のうちに一矢報いていたのだろうか。よくわからないことばかりだ。

 不意打ちを食らったばかりのフェリータの胸に、不安と不審感が去来する。それは目の前の男に対しても例外ではない。

「助けてくださってありがとうございます。でもヴァレンティノ様は、どうしてあの場に? 事前のご連絡はされてませんよね?」
 
 隠しきれなかった警戒感に気づいてか、ヴァレンティノは困ったように微笑んでさり気なく一歩離れた。

「すみません、なんだか妙な夢を見てしまって、なんとなく行っただけだったんです。学生時代から、ロレンツィオとは互いの家を先触れなしに行き来していたもので」

「あの人、わたくしが仕事部屋でそれをしたときにはひどい礼儀知らずのように言いましたのに?」

 男の紳士的な態度は崩れない。たたみかけながら、疑うことへの罪悪感が芽生え始める。
 ヴァレンティノは気を悪くすることなく目を細めた。

「それは、学院でバカやった男友達と同じようには迎えられませんよ」

 屈託のない笑顔に、フェリータはとうとう己の猜疑心を恥じた。
 気まずさを誤魔化して、わざと唇を尖らせる。

「予告なしで来てはいけないのは、きっとこのサルヴァンテで唯一わたくしだけなのです。女友達だって先触れなくあのお屋敷にいらしたもの」

「……それはロレンツィオを怒っていいですよ、フェリータ様」

 手のひらを返すように真顔になったヴァレンティノに、今度はフェリータが笑ったが、当のヴァレンティノは至極真面目な様子を崩さなかった。誠実さが見てとれた。

 こうなると、警戒したのがばからしい。フェリータは隣を歩きながら、「妙な夢とはどんなものです?」と舵を雑談に切り替えた。

「フェリータ様が襲われる夢でした。悪夢ですよ」

「ま、はぐらかして」

「本当ですよ。魔術師たちはオルテンシア殿下の周りばかり気にしていますが、コッペリウスはあなたに化けた。どうぞ、身辺お気をつけて」

「ええ、今日痛いほど実感しましたわ」

 心の底からの深いため息が出た。
 それを見て、ヴァレンティノは気遣わげに眉尻を下げた。 

「今日のことはすでにカヴァリエリ邸から王宮へ伝わっているかもしれませんが、私からもロレンツィオに伝えます。すぐにはバディーノ家と距離を置けないでしょうが、彼はきっとあなたのために怒り、心を痛めるでしょうね。身が裂けるほどに」

 大げさな。照れとともに一蹴しようとして。

 ――そうだ、この人、王太子にロレンツィオの思慕を教えた人だ。彼の、そういう感情を踏まえて言っているのだ。

 フェリータはまた、胸の奥がむずむずするような感覚に襲われた。

「……べ、別に、ロレンツィオにそんなことしてもらわなくてもいいですわ。レオナルドを痛めつける邪魔さえしないでくれればそれで」

「痛めつけ……」

 ヴァレンティノはまた頬をひきつらせながら金のロケットを取り出し、その場で犬の形の使い魔を作り出した。
 犬が壁をすり抜けて去った後に、白い花びらのような魔術残滓が落ちる。

(このお優しい方が、本当にあの口の悪いロレンツィオのお友達なのかしら。リカルドと仲がいいと言われたほうが、しっくりくる)

 フェリータを一切責めない男の穏やかさは、どこか幼馴染みに通じるものがあった。

(フランチェスカは本当に惜しい縁談を逃しましたわ)

 家格、性格、おそらく能力に欠点なし。容姿もさわやかな彼に口説かれたフランチェスカの高揚感はいかばかりだったろうか。

 それが姉のせいで潰えて、どれほど失望しただろうか。

「迎えが来るまでお休みになっていて下さい。ちょうど口うるさい父は、大司教の警護で不在ですから。お酒は飲まれますか? 紅茶のほうがお好みでしょうか」

 気が付くと、二人は細工の美しい大きな扉を前にしていた。南向きの応接間だろう。

 フェリータが妹への罪悪感に浸っていたとも知らず、ヴァレンティノの手が扉の取っ手に伸びる。――が、扉は動かずに、ヴァレンティノの眉がきゅっと真ん中に寄った。

「……誰かいる。すみません、もしかしたら妹が人を招いたのかも」

 ヴァレンティノが声の大きさを落としたとき、代わりのように、中から不機嫌極まりない高齢男性の声が響いてきた。

「なんという不遜な態度! 聖守護士が優先すべきは王族より教会だと、ご存知ないのですかな!?」

 フェリータとヴァレンティノは、互いに顔を見合わせた。
 知っている声だ。

「大司教殿こそ、何を勘違いしておいでで? 家長が“教会付き”といえども王の臣下に変わりはなく、したがってあたくしがここでくつろぐのを阻めるものなど、この島にはおりませんのよ」

 さらに続いた、聞くからに高飛車な女性の声。
『信じられない』と互いの目が伝え合った。

「教会付きではなく“聖守護士”! 侯爵の働きは教会への献身っ、あなたのような罪深い民の許しを彼らのような一部の敬虔な魔術師が贖っているのですぞ、王女殿下!」

「はいはい、教会の便利屋も家長と長男だけでしょう。早く大好きな教皇の姪とやらに挨拶にでも行きなさいな」

「べっ……、その態度が問題だと何度言えば! ええい言われなくともこんな部屋出ていきますとも!!」
 
 男の声が近づいて来る。
 ヴァレンティノがフェリータの腕を引いて背後に隠そうとしたが間に合わず、応接間の扉は音を立てて開いた。

「わたしは呪詛が天罰と言われても驚きませんよ、オルテンシア殿下!! ……おや」

 中から勢いよく出てきた老人が、二人を前に驚いたような声を上げる。

「あら大変、天罰を魔術師が打ち破ってしまったわ、しかもとんでもない裏技、で……まぁなんてこと」

 奥にいた女も、部屋の前にいた二人を見て目を見張った。

「……父上も、フィリパも。お連れするなら言っておいてくれないと困るんだが」
 
 ヴァレンティノの苦々しげな声は、大司教のそばに渋い顔で控える帯剣した壮年男性と、オルテンシアのいるソファの後ろで立ち尽くす黒髪の令嬢に向かった。
 
「わ、わたくしもそうしたかったのですお兄様、でも、王女様が今行きたいすぐ行きたいとおっしゃるので、止められなくて、そうしたら大司教様がお母様のお見舞いにといらして」

「フィリパ、余計なことを話すな。……このようなところでお目にかかるとは。ごきげんいかがですかな、若きカヴァリエリ夫人」

 つっかえながら答えた娘に父がぴしゃりと言い放ち、そしてフェリータを見下ろして流麗な礼をした。娘の方も慌てて腰を折る。

 けれど冷や汗をだらだら流すフェリータは、ろくに返事もできなかった。
 目の前の大司教が向けてくる呆れを隠さない目と、奥でソファに座っているオルテンシアの意地悪く笑って開く薄い唇を、なすすべなく見つめる以外には。

 ヴァレンティノの手が、ぎこちなくフェリータから離れるのを、二対の目がじっと追い。

「……サルヴァンテの苺は罪の味、不倫の味ってところかしら、フラゴリーナ?」

「本当に、あなたも殿下も誰もかれも、貞淑とは程遠いのだから……」

 フェリータの「違いますが!?」の叫びが、チェステ邸に響き渡った。

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