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第一章 天敵婚姻譚

8 【三日前】奇跡の逸話

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 オルテンシアは、同性のフェリータから見ても美しい女だった。蜂蜜のようなブロンドに小さな顔。見るものを引き込む紫の瞳に、細く長い腕。美麗にして傲慢な、女王のような佇まい。

 リカルドと並ぶと、まるで宗教画のようだった。

「……」

 花火が消えて、他の魔術師たちが水量を調整している運河へ水が緩やかに戻ってくる。空からは水滴と一緒にパラパラと白い粒が落ちてきた。

「降ってきた、“サルヴァンテの真珠”だ」「きれい」と、今度はうっとりとした声があちこちであがった。

 サルヴァンテの魔術師は、現場に痕跡を残す。エルロマーニの魔術は羽、カヴァリエリの魔術は煙。

 ぺルラの魔術は小指の爪程度の大きさの、輝く白い粒を残す。

 なんの魔術的効果もない魔力の燃えカスだが、真珠によく似たそれを人々は面白がり、幸運のお守りだと信じて集めるらしい。

 それが一粒、フェリータの仮面に当たって運河にぽちゃんと落ちた。

 役目を終え、ゴンドラは岸へと戻っていく。
 その間も、フェリータは呆然とバルコニーを見上げたままだった。

 オルテンシアは術者の乗ったゴンドラにも白い粒にも興味を示さず、退屈そうに首を後ろに巡らせた。応えるように背後でカフェの内部に続く扉が開き、その奥へ向けて王女が何ごとかを言った。

 リカルドの視線が運河から王女へ移る。そのままごく自然にオルテンシアの手を取り立ち上がらせて、二人は扉の奥へ引っ込んでいった。

 波に揺られながら見届けて、フェリータはもう二度とあの場所にはいかないと胸に誓った。

「真珠のお姫様、ばんざーい」

 小さな女の子の声がした。「こっちにも落ちてたぞ!」と、いい年の大人がはしゃぐ声がした。
 浮かれた雑音を、海の風が運んでくる。

「残念だな。せっかく『海の総督』が華やかな若い魔術師なのに、今回で交代だろ。以前は毎年おじさん魔術師だったらしいから、戻っちまうのかな」

「いやそれが、噂じゃ次の『総督』も若手らしい」

「お、世代交代するのか。なら、五年後の閉会式に、またあの子が出てきてくれるといいんだがな」

 ゴンドラが着岸すると、フェリータは黒いカラスの仮面をつけたグィードの手を待たずに地上へ上がった。
 近くに立っていた見物客たちからぱちぱちと拍手を贈られたのを、早足で振り払う。 

「フェリータ、良い仕事ぶりだった。あとはゆっくりしていると良い」

「……パパ」

 人ごみの向こうに猫の仮面をつけた父親らしき人物がいた。髪の色と出っ張った腹部で判別しやすい。
 近づくと、貴族たちが各々張ったテントがひしめいていた。フェリータはその下に入るとローブを脱いで女中に渡し、代わりに冷えた果実水を受け取った。

「いやご苦労ご苦労。グィード、お前も日陰に入って何か飲みなさい。ところでフェリータ、お前フランチェスカを見ていないか? チェステ侯爵のご長男と一緒にいるはずなんだが」

「パパ、わたくしもうこの役やりません」

 仮面をつけたままの伯爵は少しの間黙って、羽のついた仮面姿の娘を見つめ、「そうか」とだけ言った。

「……怒りませんの。ぺルラ家の魔術師として情けないと」

「なんの、わしはまだ数十年現役でいるつもりだからな、問題ない。それに、わしが言わんでも閉会式を見れば、お前はきっと心変わりする。絶対次は自分が勤めるとな」

 へっと笑った父の顔は数日前に追い回したときよりいくらか落ち着いて見えた。ヤケクソ気味ともいえた。

(閉会の演技まで、まだかなり時間がありますわ)

 祭りは始まったばかりだ。本当は、このあと閉幕の時間が来るまで二人、カフェのバルコニーから式典を楽しむはずだった。

 それがずいぶん早くに撤退していた。オルテンシアが飽きたと言ったら、リカルドはそれに従うのか。それとも初めての閉幕演技に、若き天才といえども準備が必要なのだろうか。

 どうあれ、彼のことだから、きっと素晴らしいものを披露するだろう。

(……その後に、婚約の発表があるのね)

 運河の上で聞いた噂話を思い出し、フェリータはグラスを煽った。 
 
「フランチェスカを探してきますわ」

 そう言うと、父親は仮面越しにまたフェリータを見つめた。

「くれぐれも、妹の相手を奪うんじゃないぞ」

「……ご安心を、やるならあの子が離島に行っている間にすませますもの」


 

 猫の仮面につけ替え、髪をショールで隠し、供をしようとしたグィードに「フランチェスカを探しなさい」と言いつける。
 そうすれば、石畳の路地を進むフェリータは一人になれた。

 誰もいないところなんてなさそうな祝祭の街で、民家の裏手に建つ古い教会に例外を見つけたのは偶然だった。質素で小さく、大聖堂が太陽ならこれはマッチの先の火種といったところだ。

 フェリータは飾り気のない木の扉を遠慮なく引いた。

「きゃ!」
「っ!」


 中から響いた小さな悲鳴に驚いて足を止める。
 薄暗い教会の奥で、一組の男女と老神父が寄り集まっていた。女が薄布のベールをかぶっているのを見て、フェリータは自分が何の邪魔をしたか気が付いた。

「……ごめんなさい、まさか、け、結婚式が行われてるなんて思わなくて」

「あ、いえ、その」と動揺する花嫁の後ろからゆっくりと声を発したのは神父だった。

「これも神の思し召し。どうぞ一緒に立ち会いませんか」

 言われて、フェリータは少しの戸惑いの後、結局中に入ることにした。思った通り、他に誰もいなかった。

 式は静かに進んだ。二人は神父と乱入者に礼を言って去っていく。少し離れた席からそれを見届けて、ようやくフェリータはショールを脱いだ。

 率直に言って、会場と同じくらい寂しい式だと思った。
 けれど、二人はとても幸せそうで、フェリータは無性に羨ましかった。

「運河の祝祭を見に来た方ですか」

「え、いえ、わたくしは」

 ショールと仮面を外しても宮廷魔術師のフェリータだとわからないのか、と戸惑っていたが、すぐに合点がいった。神父は目が見えないらしい。杖かコツンと床をついた。
 好都合だったので、そのまま観光客のふりをした。

「お嬢さんは、あの運河のすぐ先、海に流れ込む地で“神の意志”が発現したことがあるのを知っていますか。まだ大聖堂も建っていない大昔、荒れた海と結婚した聖女がいた話を」

 もちろん知っているが、あえて「そんなお話があるんですか?」と促した。
 
「ええ。海の怒りによる大波に襲われ、この街が水没しかけたときのことです。少女がひとり、その身を波の中に捧げ、海の鎮静を願われた。そのときに口にした言葉が、海に対して“結婚”を誓うものだったと。それをご覧になった神様が、人と海の婚姻をお認めになられ、波は瞬く間に引き、島には平穏が取り戻されました。祝福された海と花嫁が見守る運河も海も、その後二度と濁ることがなかったという奇跡です」

「まぁ」

 教会の解釈ではそうなっているが、魔術的見地から言えば、それは生贄術だ。
 荒海に飛び込んだ娘には魔術知識があり、そしてそれを生きたまま実行するだけの力と技術がなかったのだろう。

 魔術師と呼ばれる人間は己の身の内の魔力を引き出し魔術を発現することができるが、魔力のない一般人が魔術を扱う方法は、足りない魔力を生贄で補うしかない。

 とはいえ、こんなところで言う必要のない見解なので、黙っていた。そもそも、作り話かもしれない。

「それ以来、『海との結婚』は、決して人が阻害してはいけない神聖な行為のひとつとして教会では伝えられているのです」

「それって、なんだか複雑ですね。自ら命を絶つことを神は嘆かれるのに、水に飛び込む女性のことを、止めればいいのかそのままにすればいいのか判断しにくいですわ」

 初めて説教を受けたときから思っていたことを口にすると、神父はふっふと上品に笑った。

「そうですか? 現実でも愛のもとに相手を求める行為とこの世のすべてを拒む行為は見分けがつくでしょう」

「愛を叫んで飛び込んだら、神様が太鼓判を押した求婚?」

「未来を望み試練に挑む者は、その身に強い決意がみなぎっているものですよ。こんな目にもわかるほどはっきりと」

「情熱的ですこと」

「なりふり構わないとも言いますが。意外といますよ、ここぞというプロポーズで暴走してしまう若い方は」

 さっきのカップル、何かやらかしたのだろうか。
 頭を過ぎる疑念に答えを示さないまま、盲目の神父は「ごゆっくり」と奥へ去っていった。
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