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第一章 天敵婚姻譚

6 【十日前】一時撤退

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 さらに近づこうとしたフェリータを、ロレンツィオが手のひらを掲げて制止する。

「すんごい盛り上がってるところ悪いんだが、言いたいことがそれだけならもう帰ってくれないか。そもそもオルテンシア様とリカルドの婚約なんてとっくに俺の手から離れた話だし」

「ふざけないで、まだ話は……手を離れた?」

「聞いてないのかよ。公爵家はもう婚約宣誓書を法務省に提出してる。とっくにな。……まさか、宣誓書の存在を知らないのか?」

「知ってますわ! 知ってます、けど……は、早くありません?」

 フェリータは、自分の顔が蒼白になっていることに気が付かなかった。

 婚約宣誓書。この国の貴族が婚約の手続きとして国に提出しなくてはいけない、当主のサインが入った書類。免除されるのは教会や外交問題が絡んだときなど、ごく稀なケースだけだ。

 これが無事承認されると、国中に婚約が周知されて、以降いつでも二人は式を挙げて夫婦になることができるし、勝手に他の人間と結婚することが認められなくなる効力を持つ、実質的な契約書面。

 フェリータたちは、この作業を余裕こいて後回しにして、結局出しておらず今の事態を招いた。
 戸惑うフェリータの横をすり抜けて、ロレンツィオは部屋の奥へと進みながら「別におかしくないだろう」と口にした。

「お互いその気があるなら、こんなの早く出したってなんの問題もない。式の準備は時間をかけてもいいんだから」

「そうですけれど……って、なんであなたが知って」

 そこでフェリータはあっと気がつき、シガレットケースから煙草を取り出す男に再度詰め寄った。

「あなたがリカルドと公爵を急かしましたのね! 無理やり出させたんですのね!?」

「急かしたさ、それの何が悪い。俺の女友達が幸せになるための必要書類なのに。そんくらい常識の範囲内の行動だし、無理やりとは言わない。そもそもできるわけないだろ、一魔術師に過ぎない俺が名門貴族に何事かを強制するなんて」

「……っせ、急かすのだってマナー違反ですわ! 他人が口出すことではありませんのに、何様のつもりです!」

「ほう、じゃあ王太子殿下も同じ意見だったって言えば満足か。花嫁の兄貴だからな」

 その言葉に、こつん、と軽い音が続いた。床に扇が落ちた音だった。

「お、王太子殿下も、そちらの味方なの……」

 扇は、床の上で小さく揺れ続けた。持ち主のショックを映したように。

 オルテンシアが敵対的なのはわかる。フェリータはずっと彼女にとって邪魔者だったはず。

 でもその兄である王太子は、むしろ妹である王女を諌める側だった。フェリータ自身が王太子の護衛任務について個人的に話したこともあるし、リカルドとの仲ももちろん知っている。その上、最近は離婚が原因で兄妹の仲は悪化していたのに。

 ロレンツィオはわななく客人から目をそらし、作業机の上で探し物をしながら素っ気なく追い打ちをかけた。

「まあそういうわけで、この話はもうしまいでいいだろ。言いたいことが沢山あるんだろうが、俺に言うのは筋違いだし、なんなら一年前のこともあんたが思うほど引きずってない。そもそも、これはおたくらの怠慢が招いた事態だし、何よりこっちは夜勤明けで疲れてんだよ」

 ぞんざいな物言いに、傷つくよりも怒りが勝った。魔力を込めた指先を、フェリータは相手の顔に向けた。

「火、ご入用ですこと?」

 マッチを探す男の鼻先に、ボッと火球が生じる。人の頭と同じくらいの大きさのそれを、一瞬目を見開いた男が素早く手袋越しにわしづかむ。ものの一瞬で、火球はろうそくサイズまで縮んだ。

 炎を指先に乗せて煙草へと運びながら、怒りを灯した碧眼が向けられる。それを、フェリータは冷ややかに顎を上げて受け止めた。

「礼を言っていただけるなら、言葉遣いにお気をつけなさい。誰に向かって口を」

 直後、フェリータは足元の空気が動く気配に背を冷やし、とっさに一歩後退った。

 次の瞬間、眼の前の床から黒い鉄柵が現れた。瞬く間に天井近くまで伸びたそれは、フェリータがそれ以上部屋の主に近づくのを阻んでいた。
 ふう、という息遣いと共に、紫煙が吐き出される。串刺しになる危機を回避したフェリータの額に向かって。

「……呪獣の件といい今回といい、火をどうもありがとうございます。ではどうぞお引取りを、ペルラの姫君。お父上と歴史あるご家名に泥を塗る前に」

 据わった目と慇懃いんぎんな言葉でフェリータを追い出しにかかったロレンツィオは、煙草を持たない方の手で恭しく扉を指し示した。

 フェリータはあらゆる意味で悔しさに震えたが、ここは相手の私室。魔術師が己のテリトリーから敵を本気で追い出そうとすれば、魔術の腕に自信がある者でも怪我の一つ二つでは済まされない。
 なにより、宮廷付き魔術師がその力を本格的な私闘に使うなんて、許されているわけがない。

 結局フェリータにできたのは、視線に精一杯の嫌悪を込めることだけ。

「身の程をわきまえなさい。……元、家来ふぜいが」

 去り際、憎しみを込めて吐き捨てれば、部屋の外に出たところで背後から愉しげな声が追ってきた。

「元、が頭について離れないのがなんとも魅力的な呼び名だな。……次に人を訪ねるときは、ちゃんとお顔を洗ってお着替えして、先に遣いのものを出してから行くんだってことをパパに教えてもらうんだよ、“苺ミルクちゃん”」

「!!」

 化粧が崩れドレスがしわくちゃなのも、先触れを出していないのも確かにみっともない。だがそれは、フェリータから言わせれば全部相手のせいだ。

 ピンクがかった金髪は父からの遺伝で、目立つ色だが、これに関して笑われるいわれはまったくない。

 ――フェリータは察した。おそらく、それがオルテンシア一派の中でのフェリータ・ペルラのあだ名なのだと。
 
 頭の奥で何かがちぎれる。
 廊下の窓が、不自然にみしりと鳴った。

 “子ども向けの甘い飲み物のような”髪をなびかせ、今しがた出てきた部屋を振り返る。身の内から湧き上がる魔力を研ぎ澄まさせ、部屋の奥に矛先を定めた。

 が。

「フェリーーータ!! お前、カヴァリエリの息子と二人きりになるなとあれほど言っただろーーーーがっ!!」

「ぎゃっ、パパ!?」

 怒りを爆発させた遺伝の主に首根っこを掴まれたはずみで、放出間近だった魔力はあっという間に霧散した。

「離してパパっ、あの男もう絶対許せない! 切り刻んで、呪獣さながら心臓以外焼き尽くして、二度とここに来られないようにしてやりますわ!!」

「アホかお前が二度と外歩けなくなるわ!! だいったい、カヴァリエリの若造には近付くなとあれほど、あれっほど言っただろうがァ!!」

 フェリータは抵抗もむなしく引きずられ、部屋から引き離された。開いていた扉もひとりでに閉まっていく。
 来るときとは比較にならない父との舌戦と共に、フェリータは宮殿を後にした。




「……ホントにバカなんだな。ここで暴れたら、解任どころじゃ済まないだろうに」

 静かになった部屋で煙を吐き、男は空いた左手で床に落ちていた扇を拾う。嘲笑は一瞬で、表情はすぐに歪んだ。
 苦いものを噛みしめるときのように。

 床には、扇の他に小さな白い粒も落ちていた。光に当たって虹色の艶を帯びる、まるで真珠のような粒。

 それはぺルラ家に伝わる魔術の名残だ。客人が冷静でいようとして、そうできなかった証。

 ロレンツィオは扇と白い粒を机に置くと、再び懐中時計を取り出し針を見つめた。自分を落ち着けるために。

 精神の乱れを、これ以上周囲に及ぼさないように。

 ――本当に救いようのない馬鹿はどっちだろうな。

 ため息とともに、灰が床に落ちた。
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