6 / 92
第一章 天敵婚姻譚
6 【十日前】一時撤退
しおりを挟むさらに近づこうとしたフェリータを、ロレンツィオが手のひらを掲げて制止する。
「すんごい盛り上がってるところ悪いんだが、言いたいことがそれだけならもう帰ってくれないか。そもそもオルテンシア様とリカルドの婚約なんてとっくに俺の手から離れた話だし」
「ふざけないで、まだ話は……手を離れた?」
「聞いてないのかよ。公爵家はもう婚約宣誓書を法務省に提出してる。とっくにな。……まさか、宣誓書の存在を知らないのか?」
「知ってますわ! 知ってます、けど……は、早くありません?」
フェリータは、自分の顔が蒼白になっていることに気が付かなかった。
婚約宣誓書。この国の貴族が婚約の手続きとして国に提出しなくてはいけない、当主のサインが入った書類。免除されるのは教会や外交問題が絡んだときなど、ごく稀なケースだけだ。
これが無事承認されると、国中に婚約が周知されて、以降いつでも二人は式を挙げて夫婦になることができるし、勝手に他の人間と結婚することが認められなくなる効力を持つ、実質的な契約書面。
フェリータたちは、この作業を余裕こいて後回しにして、結局出しておらず今の事態を招いた。
戸惑うフェリータの横をすり抜けて、ロレンツィオは部屋の奥へと進みながら「別におかしくないだろう」と口にした。
「お互いその気があるなら、こんなの早く出したってなんの問題もない。式の準備は時間をかけてもいいんだから」
「そうですけれど……って、なんであなたが知って」
そこでフェリータはあっと気がつき、シガレットケースから煙草を取り出す男に再度詰め寄った。
「あなたがリカルドと公爵を急かしましたのね! 無理やり出させたんですのね!?」
「急かしたさ、それの何が悪い。俺の女友達が幸せになるための必要書類なのに。そんくらい常識の範囲内の行動だし、無理やりとは言わない。そもそもできるわけないだろ、一魔術師に過ぎない俺が名門貴族に何事かを強制するなんて」
「……っせ、急かすのだってマナー違反ですわ! 他人が口出すことではありませんのに、何様のつもりです!」
「ほう、じゃあ王太子殿下も同じ意見だったって言えば満足か。花嫁の兄貴だからな」
その言葉に、こつん、と軽い音が続いた。床に扇が落ちた音だった。
「お、王太子殿下も、そちらの味方なの……」
扇は、床の上で小さく揺れ続けた。持ち主のショックを映したように。
オルテンシアが敵対的なのはわかる。フェリータはずっと彼女にとって邪魔者だったはず。
でもその兄である王太子は、むしろ妹である王女を諌める側だった。フェリータ自身が王太子の護衛任務について個人的に話したこともあるし、リカルドとの仲ももちろん知っている。その上、最近は離婚が原因で兄妹の仲は悪化していたのに。
ロレンツィオはわななく客人から目をそらし、作業机の上で探し物をしながら素っ気なく追い打ちをかけた。
「まあそういうわけで、この話はもう終いでいいだろ。言いたいことが沢山あるんだろうが、俺に言うのは筋違いだし、なんなら一年前のこともあんたが思うほど引きずってない。そもそも、これはおたくらの怠慢が招いた事態だし、何よりこっちは夜勤明けで疲れてんだよ」
ぞんざいな物言いに、傷つくよりも怒りが勝った。魔力を込めた指先を、フェリータは相手の顔に向けた。
「火、ご入用ですこと?」
マッチを探す男の鼻先に、ボッと火球が生じる。人の頭と同じくらいの大きさのそれを、一瞬目を見開いた男が素早く手袋越しにわしづかむ。ものの一瞬で、火球はろうそくサイズまで縮んだ。
炎を指先に乗せて煙草へと運びながら、怒りを灯した碧眼が向けられる。それを、フェリータは冷ややかに顎を上げて受け止めた。
「礼を言っていただけるなら、言葉遣いにお気をつけなさい。誰に向かって口を」
直後、フェリータは足元の空気が動く気配に背を冷やし、とっさに一歩後退った。
次の瞬間、眼の前の床から黒い鉄柵が現れた。瞬く間に天井近くまで伸びたそれは、フェリータがそれ以上部屋の主に近づくのを阻んでいた。
ふう、という息遣いと共に、紫煙が吐き出される。串刺しになる危機を回避したフェリータの額に向かって。
「……呪獣の件といい今回といい、火をどうもありがとうございます。ではどうぞお引取りを、ペルラの姫君。お父上と歴史あるご家名に泥を塗る前に」
据わった目と慇懃な言葉でフェリータを追い出しにかかったロレンツィオは、煙草を持たない方の手で恭しく扉を指し示した。
フェリータはあらゆる意味で悔しさに震えたが、ここは相手の私室。魔術師が己のテリトリーから敵を本気で追い出そうとすれば、魔術の腕に自信がある者でも怪我の一つ二つでは済まされない。
なにより、宮廷付き魔術師がその力を本格的な私闘に使うなんて、許されているわけがない。
結局フェリータにできたのは、視線に精一杯の嫌悪を込めることだけ。
「身の程をわきまえなさい。……元、家来ふぜいが」
去り際、憎しみを込めて吐き捨てれば、部屋の外に出たところで背後から愉しげな声が追ってきた。
「元、が頭について離れないのがなんとも魅力的な呼び名だな。……次に人を訪ねるときは、ちゃんとお顔を洗ってお着替えして、先に遣いのものを出してから行くんだってことをパパに教えてもらうんだよ、“苺ミルクちゃん”」
「!!」
化粧が崩れドレスがしわくちゃなのも、先触れを出していないのも確かにみっともない。だがそれは、フェリータから言わせれば全部相手のせいだ。
ピンクがかった金髪は父からの遺伝で、目立つ色だが、これに関して笑われるいわれはまったくない。
――フェリータは察した。おそらく、それがオルテンシア一派の中でのフェリータ・ペルラのあだ名なのだと。
頭の奥で何かがちぎれる。
廊下の窓が、不自然にみしりと鳴った。
“子ども向けの甘い飲み物のような”髪をなびかせ、今しがた出てきた部屋を振り返る。身の内から湧き上がる魔力を研ぎ澄まさせ、部屋の奥に矛先を定めた。
が。
「フェリーーータ!! お前、カヴァリエリの息子と二人きりになるなとあれほど言っただろーーーーがっ!!」
「ぎゃっ、パパ!?」
怒りを爆発させた遺伝の主に首根っこを掴まれたはずみで、放出間近だった魔力はあっという間に霧散した。
「離してパパっ、あの男もう絶対許せない! 切り刻んで、呪獣さながら心臓以外焼き尽くして、二度とここに来られないようにしてやりますわ!!」
「アホかお前が二度と外歩けなくなるわ!! だいったい、カヴァリエリの若造には近付くなとあれほど、あれっほど言っただろうがァ!!」
フェリータは抵抗もむなしく引きずられ、部屋から引き離された。開いていた扉もひとりでに閉まっていく。
来るときとは比較にならない父との舌戦と共に、フェリータは宮殿を後にした。
「……ホントにバカなんだな。ここで暴れたら、解任どころじゃ済まないだろうに」
静かになった部屋で煙を吐き、男は空いた左手で床に落ちていた扇を拾う。嘲笑は一瞬で、表情はすぐに歪んだ。
苦いものを噛みしめるときのように。
床には、扇の他に小さな白い粒も落ちていた。光に当たって虹色の艶を帯びる、まるで真珠のような粒。
それはぺルラ家に伝わる魔術の名残だ。客人が冷静でいようとして、そうできなかった証。
ロレンツィオは扇と白い粒を机に置くと、再び懐中時計を取り出し針を見つめた。自分を落ち着けるために。
精神の乱れを、これ以上周囲に及ぼさないように。
――本当に救いようのない馬鹿はどっちだろうな。
ため息とともに、灰が床に落ちた。
20
お気に入りに追加
1,297
あなたにおすすめの小説
ほらやっぱり、結局貴方は彼女を好きになるんでしょう?
望月 或
恋愛
ベラトリクス侯爵家のセイフィーラと、ライオロック王国の第一王子であるユークリットは婚約者同士だ。二人は周りが羨むほどの相思相愛な仲で、通っている学園で日々仲睦まじく過ごしていた。
ある日、セイフィーラは落馬をし、その衝撃で《前世》の記憶を取り戻す。ここはゲームの中の世界で、自分は“悪役令嬢”だということを。
転入生のヒロインにユークリットが一目惚れをしてしまい、セイフィーラは二人の仲に嫉妬してヒロインを虐め、最後は『婚約破棄』をされ修道院に送られる運命であることを――
そのことをユークリットに告げると、「絶対にその彼女に目移りなんてしない。俺がこの世で愛しているのは君だけなんだ」と真剣に言ってくれたのだが……。
その日の朝礼後、ゲームの展開通り、ヒロインのリルカが転入してくる。
――そして、セイフィーラは見てしまった。
目を見開き、頬を紅潮させながらリルカを見つめているユークリットの顔を――
※作者独自の世界設定です。ゆるめなので、突っ込みは心の中でお手柔らかに願います……。
※たまに第三者視点が入ります。(タイトルに記載)
義妹を溺愛するクズ王太子達のせいで国が滅びそうなので、ヒロインは義妹と愉快な仲間達と共にクズ達を容赦なく潰す事としました
やみなべ
恋愛
<最終話まで執筆済。毎日1話更新。完結保障有>
フランクフルト王国の辺境伯令嬢アーデルは王家からほぼ選択肢のない一方的な命令でクズな王太子デルフリと婚約を結ばされた。
アーデル自身は様々な政治的背景を理解した上で政略結婚を受け入れるも、クズは可愛げのないアーデルではなく天真爛漫な義妹のクラーラを溺愛する。
貴族令嬢達も田舎娘が無理やり王太子妃の座を奪い取ったと勘違いし、事あるごとにアーデルを侮辱。いつしか社交界でアーデルは『悪役令嬢』と称され、義姉から虐げられるクラーラこそが王太子妃に相応しいっとささやかれ始める。
そんな四面楚歌な中でアーデルはパーティー会場内でクズから冤罪の後に婚約破棄宣言。義妹に全てを奪われるという、味方が誰一人居ない幸薄い悪役令嬢系ヒロインの悲劇っと思いきや……
蓋を開ければ、超人のようなつよつよヒロインがお義姉ちゃん大好きっ子な義妹を筆頭とした愉快な仲間達と共にクズ達をぺんぺん草一本生えないぐらい徹底的に叩き潰す蹂躙劇だった。
もっとも、現実は小説より奇とはよく言ったもの。
「アーデル!!貴様、クラーラをどこにやった!!」
「…………はぁ?」
断罪劇直前にアーデル陣営であったはずのクラーラが突如行方をくらますという、ヒロインの予想外な展開ばかりが続いたせいで結果論での蹂躙劇だったのである。
義妹はなぜ消えたのか……?
ヒロインは無事にクズ王太子達をざまぁできるのか……?
義妹の隠された真実を知ったクズが取った選択肢は……?
そして、不穏なタグだらけなざまぁの正体とは……?
そんなお話となる予定です。
残虐描写もそれなりにある上、クズの末路は『ざまぁ』なんて言葉では済まない『ざまぁを超えるざまぁ』というか……
これ以上のひどい目ってないのではと思うぐらいの『限界突破に挑戦したざまぁ』という『稀にみる酷いざまぁ』な展開となっているので、そういうのが苦手な方はご注意ください。
逆に三度の飯よりざまぁ劇が大好きなドS読者様なら……
多分、期待に添えれる……かも?
※ このお話は『いつか桜の木の下で』の約120年後の隣国が舞台です。向こうを読んでればにやりと察せられる程度の繋がりしか持たせてないので、これ単体でも十分楽しめる内容にしてます。
転生おばさんは有能な侍女
吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした
え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀?
転生おばさんは忙しい
そして、新しい恋の予感……
てへ
豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!
平民と恋に落ちたからと婚約破棄を言い渡されました。
なつめ猫
恋愛
聖女としての天啓を受けた公爵家令嬢のクララは、生まれた日に王家に嫁ぐことが決まってしまう。
そして物心がつく5歳になると同時に、両親から引き離され王都で一人、妃教育を受ける事を強要され10年以上の歳月が経過した。
そして美しく成長したクララは16才の誕生日と同時に貴族院を卒業するラインハルト王太子殿下に嫁ぐはずであったが、平民の娘に恋をした婚約者のラインハルト王太子で殿下から一方的に婚約破棄を言い渡されてしまう。
クララは動揺しつつも、婚約者であるラインハルト王太子殿下に、国王陛下が決めた事を覆すのは貴族として間違っていると諭そうとするが、ラインハルト王太子殿下の逆鱗に触れたことで貴族院から追放されてしまうのであった。
突然現れた自称聖女によって、私の人生が狂わされ、婚約破棄され、追放処分されたと思っていましたが、今世だけではなかったようです
珠宮さくら
恋愛
デュドネという国に生まれたフェリシア・アルマニャックは、公爵家の長女であり、かつて世界を救ったとされる異世界から召喚された聖女の直系の子孫だが、彼女の生まれ育った国では、聖女のことをよく思っていない人たちばかりとなっていて、フェリシア自身も誰にそう教わったわけでもないのに聖女を毛嫌いしていた。
だが、彼女の幼なじみは頑なに聖女を信じていて悪く思うことすら、自分の側にいる時はしないでくれと言う子息で、病弱な彼の側にいる時だけは、その約束をフェリシアは守り続けた。
そんな彼が、隣国に行ってしまうことになり、フェリシアの心の拠り所は、婚約者だけとなったのだが、そこに自称聖女が現れたことでおかしなことになっていくとは思いもしなかった。
どうせ結末は変わらないのだと開き直ってみましたら
風見ゆうみ
恋愛
「もう、無理です!」
伯爵令嬢である私、アンナ・ディストリーは屋根裏部屋で叫びました。
男の子がほしかったのに生まれたのが私だったという理由で家族から嫌われていた私は、密かに好きな人だった伯爵令息であるエイン様の元に嫁いだその日に、エイン様と実の姉のミルーナに殺されてしまいます。
それからはなぜか、殺されては子どもの頃に巻き戻るを繰り返し、今回で11回目の人生です。
何をやっても同じ結末なら抗うことはやめて、開き直って生きていきましょう。
そう考えた私は、姉の機嫌を損ねないように目立たずに生きていくことをやめ、学園生活を楽しむことに。
学期末のテストで1位になったことで、姉の怒りを買ってしまい、なんと婚約を解消させられることに!
これで死なずにすむのでは!?
ウキウキしていた私の前に元婚約者のエイン様が現れ――
あなたへの愛情なんてとっくに消え去っているんですが?
前世の祖母に強い憧れを持ったまま生まれ変わったら、家族と婚約者に嫌われましたが、思いがけない面々から物凄く好かれているようです
珠宮さくら
ファンタジー
前世の祖母にように花に囲まれた生活を送りたかったが、その時は母にお金にもならないことはするなと言われながら成長したことで、母の言う通りにお金になる仕事に就くために大学で勉強していたが、彼女の側には常に花があった。
老後は、祖母のように暮らせたらと思っていたが、そんな日常が一変する。別の世界に子爵家の長女フィオレンティーナ・アルタヴィッラとして生まれ変わっても、前世の祖母のようになりたいという強い憧れがあったせいか、前世のことを忘れることなく転生した。前世をよく覚えている分、新しい人生を悔いなく過ごそうとする思いが、フィオレンティーナには強かった。
そのせいで、貴族らしくないことばかりをして、家族や婚約者に物凄く嫌われてしまうが、思わぬ方面には物凄く好かれていたようだ。
今、私は幸せなの。ほっといて
青葉めいこ
ファンタジー
王族特有の色彩を持たない無能な王子をサポートするために婚約した公爵令嬢の私。初対面から王子に悪態を吐かれていたので、いつか必ず婚約を破談にすると決意していた。
卒業式のパーティーで、ある告白(告発?)をし、望み通り婚約は破談となり修道女になった。
そんな私の元に、元婚約者やら弟やらが訪ねてくる。
「今、私は幸せなの。ほっといて」
小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる