塀のうちの字余り

蕚ぎん恋

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—彼の伏せた横顔—

もらした笑い

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 兄が、私を見ている。
 それまで、法廷内で兄が私へその眼をくれることは、一度もありませんでした。
 その兄が、私を視ている。
 退廷するため歩きながらのことですから、ほんの刹那ひとときだったと思います。

 兄の瞳が、かつて、じっとひとを見つめると、その湛えるような黒瞳が潤んで、星の囁きのような煌めきがちらりとさざなむのですが、
そのひかりの囁きを宿した瞳をして、私を見つめている。
 あの激昂して黒い泉がいた白眼に蒼い稲妻が走る怒りでもなく、
睫毛を閉ざした翅のように伏せ、うちにある黒い源を明かしもしなかった拒絶でもない、
本来の、昔から知っている、私が兄だと認める瞳をして見せていました。

 その黒瞳が、微かに弛められた目蓋と涙袋の間で、憂うような潤みと翳りを滲ませ、挟まれている気がしました。
 歩いていたから、その潤みの軌跡は流れています。
 もたらした波紋の空気を連れて、その軌跡は私の前を通過するさなか、
私の頬を、 ほんの少し撫でさすった気がしたのです。

 束の間です。兄の瞳の軌跡はまた前へと繋がり、
すべてを解脱したような後頭、それを乗せた白いうなじ、痩せた肩と背がひとの陰にうずもれ遠のいてゆき、
法廷の波紋の外へ、その奥へと、吸いこまれていってしまいました。


 遠い昔、同じ局面で立眩みをおこした千景が、弁護士に支えられ必死に気つけの言葉をかけられていた姿が掠めた。
 それと、彼女の姿が重なりそうで、なされずわかたれて霧のように散っていく。
 彼女の哀しみは、替えのきく筈もなく彼女自身しか味わうことのない、血潮を啜りつくすようなくるしみだ。
 それを、受けとめる存在はあったのだろうかと、また思いを巡らすほど量れはしない彼女に課す重みがしれて、路傍の泥土をただ苦くるしかなかった。

「……控訴は、しませんでした。弁護士先生が懸命につよくつよく兄を説いて、私も先生を通じ、訴えましたが。
……正直、兄が法廷で放った本意を翻すとも思えず、背を向けた兄の遠さや、与えられた罰の重みや現実味を、受け容れられてなかった、理解しきれず呆然としていた状態だったと思います……。
……控訴の期限が切れてしまって、兄は未決囚となり、拘置所へ移送されました。
ますます兄が遠い存在になって、けれども
、判決から半年経つ頃には、……やはり怖かったです。
刑事訴訟法では、判決確定から半年以内に執行との規定があって、でも現状実例はないし大丈夫だろうと自分も周りも言い含めていましたが、……怖かった。
その頃が近づくと落ち着いて学校で過ごすことが出来ませんでした。
強引に面会に繰り返し行って、兄に拒否されたり職員の方に諭されてしまいました。
当日は、怖くて一日部屋の隅で震えていました。
きっと何も起こらない。でも"絶対"はない。その絶対が私を強く苛み、私に纏わりつく『時間』というものの過ぎるのもまたやって来るのも、ただ怖ろしかった。
——結局何も起こらず、その日を過ぎても、また過ぎても何も起こらず、でも、暫くは胸のふるえが消えてくれることはありませんでした」

 天川の罪という黒い水を被った覚悟、咽許に突きつけられた、いつその皮膚を破るか判らない、この脈を止め得るものとの隣り合わせの恐怖は、共に解ったつもりでいた。
 けれども、その周りの塀の外で息づく者の、俺たちが与えた量り知れない怖れを、これほど身に沁みるように胸に迫られたことはあっただろうか。
 改めて俺たちの撒いた、罪深さと課してしまった重みを知る。

「何の『報せ』もなく過ぎ去りましたが、いつか"その"時が訪れる。いつ訪れるか判らない。
濁ったもやに常に胸を掴まれている心地は、怖ろしかったです。……兄もそうだったと思います。
けれども、時は平穏と呼べるような単調さで流れていき、やがて兄は塀のなかで成年を迎えました。
訪れれば、変わらず兄はアクリル窓の向こうで眼を伏せて座っている。
手紙の返信は、あったりなかったり。面会に行っても、互いに喜ばしい話題もなく、無言のときを消費するのが息苦しくなるばかりで。
そうすると、だんだん処された罰の輪郭が希薄になっていって、
拘置所に行けば兄に会える。このまま、時が過ぎていってもしかしたら兄の罪、罰も、霞のように薄らいで、やがて消えてくれるのかも知れない、なんて夢想も抱きはじめてしまって……。

『その』時に怯えて、いつまでも神経を擦り減らすように研がらせて、こころを震わせていることに、
素直に、疲れてしまって……」
「……」

「生きていて欲しい。でも、何もしなくてもこのまま何も生じず生涯を終えるのではないだろうか。なら、それで良いのではないか。
……周りのおとなたちが言うように、もう兄はいなくなったものだと思えばいい。
いくら私が呼びかけても応えてくれない。酷い。そもそも、酷いことをして沢山沢山傷つけられた。私だって、うちのめされるのはもう厭だ。
散りりな想いが浮標ぶいみたいに顔を見せては消え、それだから自然兄に会いに行くのも、手紙をしたためるのも、
繋がっていた糸が切れたように、やがて、遠のいてしまって…………」

 そこで顔を上げた楓の瞳には、黒い泉にさざなみのような煌めきが淡く囁いて、
それは、やはり誰かを想わせた。

「酷い、身内だとお思いでしょう……?」

 ここで酷いと断じられる背景も、俺に価値も資格も持ち得ないのは明白で、小さく首を振った。

「…………だけど、変化が現れたんです。
片指にも満たないほど兄と通わなくなって、また兄が歳をとって、……執行の、前年でしょうか」

 執行の前年……、とたぐるように俺は憶えに馳せた。

「…………ふふっ、」

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