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case7 自白の鑑定
5 ロジカル・デス・ルーム
しおりを挟む「じゃ、まずは三人の殺し屋のうち、誰に古志川さんの暗殺が可能だったのかを順に検証してみよっか」
禊屋は講義でもするかのように説明を始めた。
「とりあえず、フクミミから遡って考えてみよう。彼は鍵を無理やりこじ開けて古志川さんの寝室に入り、マカロフで撃って殺害したと証言している。証拠としてわざわざ現場の写真を撮って、更には生首まで送りつけてきたけど、彼は本当に古志川さんを殺害できたのか?」
禊屋はそこで一呼吸置いて、続ける。
「答えは、ノー」
それを聞く灰鷹は、眉一つ動かさないで禊屋に尋ねる。
「ふむ……その根拠はなんでしょう?」
「彼の証言通りに考えると、現場の状況と矛盾する点があるの」
「それは?」
「フクミミは、部屋に入った直後、古志川さんを至近距離から撃って殺害したって言ってたんだよね?」
「ええ。フクミミが銃を持っているのに気づいた古志川は、それを押さえようと向かってきた。そこを逆に撃ち殺したと」
「だったら、やっぱりおかしいね」
禊屋は小さく笑って言った。
「その話が本当だとしたら、フクミミは寝室の扉近くから古志川さんを撃ったということになる」
右手でピストルの形を作り、撃つ真似をする――BANG!
「古志川さんは顔の右頬を正面から撃たれた。当然、即死だったはず。そのまま後ろに倒れたと考えられるわけだけど……扉近くにいたフクミミに近づいたところを撃たれ、倒れたら――そのとき足は、どの方向を向いていると思う?」
「……そうか」
灰鷹は禊屋の言わんとしていることを理解したようだった。
「その場合、古志川の両足は扉の方向を向いていなければおかしい。しかし、フクミミの写真では足は窓側を向いている。これでは、古志川は窓側を向いているときに撃たれたということになってしまう」
「うん。フクミミの証言通りのことが起こったとすると、この死体の向きは明らかに矛盾している。おそらくフクミミが部屋に入ったとき、既に古志川さんはこの状態で死んでいたんだよ。それをさも自分が殺害したかのように話をでっち上げたはいいけど、嘘だから綻びが出てしまった」
「しかし、それだけではフクミミが意図的に嘘をついたと断じることもできないのでは? もしかしたら、フクミミは古志川と多少揉み合ってから殺害したのかもしれない。そうであれば、二人の位置関係が変化していた可能性もありますし、結果的に問題なく古志川を殺害できたのなら、フクミミも証言を一部省いたとしてもそう不自然ではない。まぁ、個人の感覚次第と言うところではありますが」
灰鷹の反論ももっともではあると思われたが、禊屋はまったく動じなかった。
「フクミミが部屋に入った時点で古志川さんは既に死んでいた、そう判断できる根拠がもう一つあるとしたら?」
禊屋はフクミミの写真に写っている、ベッドのヘッドボードのあたりを指し示す。
「ここに、時計が写ってるでしょ?」
ヘッドボードの上に置かれた、デジタル式の卓上時計だ。液晶面には『7:58』と表示されている。
「この時計、フライの映像にもちょこっとだけ映ってたんだけど、その映像中とこの写真では、明らかな違いが一カ所あるの」
「……確認してみます」
灰鷹はテーブルの横側に置かれたノートPCを操作してフライの映像をもう一度見直す。時計が確認できるところで一時停止して、灰鷹はハッと気がつく。映像中にある時計の液晶面は、『19:46』と表示されていた。
「これは……二十四時間表記だったものが、十二時間表記になっている……?」
時計の表記形式の違い。あの時感じた違和感の正体は、これだったのだ。
十二時間表記の場合、午前午後の区別が付くようになっているのだろうとは思うが、時刻以外の表示が小さくて写真では判別できない。
禊屋は説明する。
「じゃあ、どうして時計の表示方法が変わっていたのか? それはもちろん、この短い時間の間に誰かがこの時計を操作したから。では、何のために操作したのか? あたしは、時刻合わせをしたんじゃないかと思ってる。その操作の途中、うっかり二十四時間表記から十二時間表記に変更してしまった。あたしは機械が得意じゃないからよくわかるんだけどさ。デジタル時計の中には、説明書がないとどこをどう操作して時刻合わせすればいいのかわからないようなのってあるでしょ? そういうとき、手っ取り早いのは一度中に入ってる電池を取り出しちゃう方法。電池を入れ直せばたいていは時刻合わせからスタートするからね。フクミミも同じようなことをしたんだけど、時計のデフォルトの設定では十二時間表記になっていたから、こうして齟齬が生まれてしまった……と、こんな感じじゃないかな?」
灰鷹は顎を触りつつ考え込む。
「そうなのかもしれませんが……誰が、なぜ、時計の時刻合わせなど?」
「フクミミが、証言との整合性を図るためにやったとしか考えられない。その行為が必要だったのは、彼だけだから」
「証言との整合性、とは?」
「フクミミは花火の音に紛れて古志川さんを撃ったと証言していたんだよね。だから屋敷の中には人が沢山いたはずなのに、銃声はバレなかった。そのためには、花火が打ち上がっている七時五十五分から八時までの間に犯行を実行しなければならない。でも、フクミミはその時間よりだいぶ……おそらく十分以上は遅れて寝室に入ったんだと思う。そこで古志川さんが死んでいるのを発見したんだけど、現場の状況から、自分が殺したように偽証することを思いついた。そこで暗殺した証拠として写真を撮ろうとしたんだけど、その写真に入りこんだ時計に本当の時間が表示されていると都合が悪い。殺害が花火に乗じてということになっている以上、時間が空きすぎているとその間なにをしていたのかと疑問を持たれてしまうから。いっそ時計を写さないアングルで撮影するという選択肢もあったんだろうけど、フクミミはそうせずに、逆に時計の時刻表示を弄ることで、より証言に説得力を持たせようとした。だからフクミミがやったことは正確には、時刻合わせというより、“時刻ずらし”だね。まぁ、そっちにばかり気を取られてしまって、死体の向きっていう単純な矛盾には気がつかなかったようだけど」
禊屋は続いてテーブルに置かれた古志川の生首を指して、
「フクミミがこの生首を送るにあたって、頬の傷口から流れた血を拭き取った理由も、そこに関係しているんじゃないかな。ワシバナやフクミミの写真では、頬の傷口から一本の線みたいに血が流れ出していたよね。おそらくフクミミが部屋に入った時点で、古志川さんの出血は止まっていて、血液は凝固し始めていた。首を切断して持ち運ぶとなると、かなり頭を揺らすことになるはずだけど……それなのに、送り届けられた生首に、写真に写っていたように頬に赤い血の線が一本残ったままだったらおかしいでしょ? それだけ揺らされても形がはっきり残っているってことは、首が斬られた時点でその血液は固まっていたってことになるから。で、首を斬られた時点で血が固まっていたとなると、殺害されてから血が固まる程度のラグがあったということになってしまう。そこをつつかれるのを恐れたフクミミは、回収した生首の頬に付いていた血を拭き取ってから送りつけることにした。どう?」
灰鷹は話を聞いて、頷く。
「なるほど、たしかに筋は通っています。しかし……一つだけ納得がいかない点があるのですが」
「なに?」
「フクミミは花火に乗じて古志川を殺害したと証言するために、わざわざ時計を弄ったという話でした。しかしそれでは本末転倒というか……そもそも花火に合わせて殺害する計画であったのならば、それに遅れて寝室へ向かうというのはあり得ないのではありませんか?」
たしかにそうだ。計画に織り込むくらいなら花火のことは事前に知っていたであろうから、その時間に合わせて行動していたはずだ。花火の打ち上げが終わってから古志川を殺しに行くのはおかしい。
「良い質問! たしかに事前にそういう計画を立てていたのなら、フクミミは花火の時間に遅れて寝室へ向かうことはあり得ない。じゃあ、そこで発想を逆転させてみよーか」
禊屋は右手の指をパチンと鳴らす。
「“そういう計画じゃなかったから花火の時間に遅れた”としたら、どう?」
「花火は元々、フクミミの計画にはなかったことだと?」
「そう。きっと、フクミミは自分でなにか別の武器を用意してたんだと思うよ。花火で誤魔化す必要なんてない、大きな音が出ないもの……例えば、首を切断するのにも使ったであろうナイフとかね。でも、フクミミが寝室に入ったときには既に古志川さんは死んでいた。そこで自分で古志川さんを殺したと偽証することにしたんだけど、とある事情から、花火を利用した方法で殺害したとあなたに証言することにしたの」
「とある事情、とは?」
「それについては後で説明するよ。今はとりあえず、現場の状況に関係する何か……とだけ言っておこうかな」
「ふむ……まぁ、いいでしょう。フクミミの供述が疑わしいということはわかりました。続きをお願いします」
禊屋は軽く頷いて、話を続けた。
「では次の検証に移るとしようか。フクミミと同じく古志川さんを銃殺したと主張する、ワシバナの犯行について考えてみよう。ワシバナの犯行において他の二人と明らかに違う点、それは、証拠として提出された二枚の写真が、それぞれ生前と死後の古志川さんを撮影していること。つまり、ワシバナは古志川さんが死ぬ瞬間もその場にいたと考えられる」
「そうなると、ワシバナが古志川を殺した可能性もかなり高くなりそうですが」
「そうだね。でも残念なことに、彼の犯行はたった一つの物証によって否定されちゃうんだ」
「ワシバナにも犯行は不可能だったと?」
「うん。その物証というのが、これ」
禊屋は、脇に置かれていた古志川の生首をテーブルの中央にどんと置く。その顔を灰鷹のほうへ向けて、
「頬の傷口を見て。その傷口に沿うように黒い焦げ跡があるでしょ? 銃は発砲する際に高熱のガスを銃口から吹き出すっていうのはわかるよね。つまりこの焦げ跡は、かなりの至近距離――おそらく十センチにも満たない距離から発砲されたという証拠。そこで問題になるのが、ワシバナの証言なんだけど……彼は、警備員が近寄ってきそうだったから急いで古志川さんを殺害したんだったよね。窓の外――予めガラスを外していた部分から、銃を撃って。でも、そうだとするとワシバナは部屋に入らず窓を挟んで射撃したことになるから、距離は離れていたはず。十センチ以内ってことはまずあり得ない。本人が寝室に入っていないと主張している以上、彼に犯行は不可能だったんだよ」
「傷口の焦げ跡……なるほど。この小さな痕跡からそのような推理が成り立つとは」
灰鷹は満足そうに言った。
「すると、銃殺を主張するフクミミとワシバナの二人とも、犯行は不可能だったことになります。古志川の顔に銃弾を撃ち込んだのは、偽装のためということで良いのでしょうか?」
「そのことについては後で説明するよ。まず先に、残る一人の検証を済ませてもいい?」
「わかりました。禊屋さんのお好きなようにどうぞ」
禊屋は一呼吸置いてから続ける。
「じゃあ、次はフライだね。彼は古志川さんを金槌で殴り殺そうとする瞬間を映像で撮影していたけど、あの殴打によって本当に古志川さんの命を奪えていたかという点において、疑問が残る。んで、結論から言うと……フライにも古志川さんは殺せなかったはず」
「……なんですって?」
灰鷹は驚くというより怪訝に思ったような声で禊屋に言う。それもそのはずだ。フライにも古志川を殺せなかったのだとしたら、容疑者である殺し屋三人、全滅ということになってしまう。
「あの映像に映っていた殺人は、失敗だったんだよ」
「いや、しかし……」
「まーまーまー、言いたいことはわかるけど、先にあたしの話を聞いてくれる? さっき好きなようにしてって言ったよね?」
「…………」
灰鷹は黙ったまま、手を差し出すようにして続きを促す。
禊屋は頷いてから話を続けた。
「フライが古志川さんの殺害を失敗していたとあたしが判断する根拠……それは、ワシバナの写真の二枚目と、フクミミの写真に写っていた、少しだけ開いた引き出しだよ。フライの映像中では、あの引き出しは全段きっちり閉まっていたよね。それが古志川さんの死体が写った二枚の写真では、引き出しの上から二段目だけが少し開いていて、家具のカタログが乱暴に突っ込まれている。つまり、この引き出しの変化はフライの襲撃後に起こったということ。ここまではいい?」
「……いいですよ」
「じゃあ次は、ここに突っ込まれたカタログが何を意味するのかを考えてみよう。そもそもこの引き出しを開けた人物は、何のために開けたのか? 引き出しを開けてやることといったら二つしか無い。ものを仕舞うか、仕舞っていたものを取り出すかの二つ。この引き出しを開けた人が何かを取りだした可能性はもちろんあるとして、それ以上に確実なのは、カタログを仕舞おうとしたということ。この時点で、引き出しを開いた人物は古志川さんに特定されるの。だって、部屋の持ち主以外の人がこの状況でわざわざサイドテーブルの上にあったカタログを仕舞おうなんてするはずがないよね」
灰鷹は少し考えて、
「部屋を訪れた殺し屋のうち誰かが、引き出しに入っていた何か……例えば金品の類などを盗み出して、それを誤魔化そうとして適当に近くにあったカタログを突っ込んでいったとは考えられませんか?」
「それは無いと思うよ。だってそれって、何の誤魔化しにもなってないじゃん? 何かを盗み出したのなら引き出しはむしろきっちり閉めていくはずだよ。何の変化も起こっていないように見せるためにね。カタログが中途半端に飛び出した状態で放置しておいても、無駄に引き出しに注目させるだけでしょ? それで何かメリットを得られる人物なんて、いないんじゃないかな? というかそもそもの問題、殺し屋たちが現場から何を持ち出そうが、彼らにそれを誤魔化す理由があるとは思えないよ。元々、古志川さんとはまったく無関係な人たちなんだし。それに警察はどのみち徹底的に調べて、何がなくなっているかくらいは調べるだろうから、尚更そんな小細工をする理由は無い」
「ああ……それもそうですね。おかしなことを言ってしまいました」
「現場に無意味な工作をして、警察に対する攪乱をしたというのも同じ理由で否定される。第一、それだったらあなたにそう申告しているはず。だからやっぱり、ここは引き出しを開けたのは古志川さんだとしか考えられない。すると、フライに殴られた後も古志川さんは生きていたことになる。殴られた直後は気を失っていたんだろうけど、しばらくして起き上がったというわけ。ただ、殴られたことで大きく動揺はしていただろうから、そのせいで引き出しにカタログを仕舞おうとしてあんな状態になったんだろうね」
カタログが半ば飛び出ているのに引き出しを閉め直さなかったのは、精神的に緊迫していてそうするだけの余裕がなかったからなのか。
禊屋のこれまでの推理は筋道が通っている。だが、その過程で新たな謎が生まれてしまった。
フライも古志川を殺せてはいなかった。しかし、事実として古志川達夫は死亡しているのだ。古志川が顔を撃たれた状態で倒れている写真が存在する以上、彼の生首がこの部屋に存在する以上、その事実が覆ることはない。
では、古志川達夫を殺したのは誰なのか?
灰鷹が軽く手を上げ、禊屋に質問をする。
「疑問があります。古志川以外の人物に、カタログを引き出しへ仕舞う理由がないということは理解できました。しかし、それと同様に古志川がカタログを仕舞う理由もないのでは? 古志川はフライに殴られたばかりだった。その後に取る行動として、誰か助けを呼ぶとか、そういうことならばわかりますが……テーブルの上のカタログを仕舞うというのは些か違和感があります」
「古志川さんがカタログを仕舞う理由なら、あるよ。それが古志川さんを殺した真犯人にも関係してるんだけど」
「どういうことですか?」
「その前に、確認。現場に残っていたけど、殺し屋三人ともがまったく言及していなかった証拠があったよね。そう――現場で発砲されていた、『第二の弾丸』だよ。フクミミの写真に薬莢が二つ映り込んでいたのは、単に撮影者が見落としたんだと思う。二つ目の薬莢は奥のベッドと引き出しの間に落ちていて、目立たなかったからね。本人の証言でも、発砲は一発だったようだから、気づいていたら回収していたはず。その二つ目の薬莢から明らかになった『発砲は二発以上あった』という事実、そしてさっき言った『古志川さんがカタログを仕舞おうとした理由』――その二つが、彼らが隠そうとしたある真実を照らし出してくれる」
灰鷹は要領を得ない、といった様子だ。禊屋は続けて饒舌に話す。
「順番に説明しよっか。古志川さんは、フライに殴られ気絶してしばらく経ってから、目を覚ました。灰羽根旅団の指図であると認識していたかはともかくとして、自分が命を狙われていることを知った古志川さんは、自分の身を守るためにまず寝室の鍵を内側から閉めた。ワシバナの写真に写っているのは、おそらくこの時の姿だね」
そう言って、ワシバナが証拠として提出した写真の一枚目を指さす。古志川が扉のノブに向かって手を伸ばしている姿が写った写真だ。フライが戻ってきてトドメを刺されることを恐れた古志川は、部屋に誰も入ってこられないように扉に鍵をかけた。これは写真を見たときから推測できた内容ではある。
「次に古志川さんは、身を守るために第二の手を打った。寝室に隠していた武器を出すことにしたの」
「武器?」
灰鷹は禊屋を疑うように言う。
「古志川がそんなものを持っていたというのは、ここで初めて出る話ですね。少々、想像に依りすぎではありませんか?」
「古志川さんが暗殺者に対抗する何かを隠し持っていたことは、既に示されているよ。フライの映像の序盤、古志川さんが部下のような人と廊下で話していた内容を覚えてる?」
灰鷹は思い当たる節があったようだった。
「……そういえば、少し気になることを言っていましたね。確認してみましょう」
そう言って灰鷹はノートPCを操作し、フライの映像から該当の部分を再生した。
古志川の寝室前の廊下、古志川と部下らしき男が立って話をしている。
『――なぁに、気にすることはない』
古志川はおおらかに笑って言う。
『例の件ならもう片付いたと言っただろう。心配するな。それに、部屋には四、五年前に仕入れたアレが……いや、まだ使えたかな……? だいぶ前に仕舞ったきりだったが……』
『あのう……?』
『ん……ああ、気にするな!』
灰鷹はそこで映像を止めた。
「『四、五年前に仕入れたアレ』……これが、古志川の隠し持っていた武器であると?」
禊屋は力強く頷く。
「そう。それこそが……古志川さんの命を奪った凶器、マカロフ」
「マカロフ……ワシバナとフクミミが使用したと言っていた銃と同じですね。凶器は古志川の持ち物だったということですか?」
「うん。おそらくマカロフは寝室のどこか――例えばあの引き出しとかに隠してあって、古志川さんは自衛のためにそれを持ち出した。でも、その銃を使うにあたって不安なことがあったんだと思う。古志川さんはその不安を解消するために、ある実験をしようとした。そのためにサイドテーブルの上を片付けようとして、カタログを引き出しに仕舞ったんじゃないかな」
「実験のためにサイドテーブルの上を片付けた……ですか。でも、辞書は残っていましたよね?」
「それは、あの辞書も実験に必要だったから」
「……いったい何を実験したのでしょう?」
「銃がきちんと撃てるかどうかのチェックだよ。ほら、言ってたでしょ? だいぶ前に仕舞ったきりだって。まだ使えたかどうかを心配しているようでもあった。そこで、古志川さんは実験――すなわち、試し撃ちをすることにした」
たしかに、長いことメンテナンスをしていなかった銃がちゃんと使えるかどうか不安になる気持ちはわかる。自分の身を守るための大切な武器なのだから、当然だ。そのメンテナンスをナイツに任せっきりの自分が言うのもなんだが。
「古志川さんが試し撃ちをしたという痕跡だって残ってる。それが写真に写っていた何かがめり込んだ辞書。あの穴はやっぱり弾痕だったんだよ。古志川さんはあの辞書をサイドテーブルの上に立てて、そこへ向けて銃を撃った。壁や天井に向けて撃つわけにはいかないし、たったいま殺し屋に殺されかけたということもあって、外に向かって撃つのも躊躇われた。せっかく鍵を開けて部屋に閉じこもっているのに、窓を開けることになるからね。弾丸を撃ち込んでも簡単に買い直すことができるものとして、一番近くにあったのが辞書だったんだと思う。あれくらいの分厚さがあれば普通の拳銃弾なら貫通する心配もないし、試し撃ちの標的としては最適だったかもね。辞書の向きが二度変わっているって話があったけど、そのうちの一度目の変化――フライの映像に映っていた辞書と、ワシバナの写真二枚目に写っていた辞書との違いは、このときに生じたってワケ」
古志川が銃の標的にするために、辞書は動かされていたのだ。
「そして試し撃ちを実行したのはおそらく、八時前の花火が上がっている間。発砲した際の銃声は、花火の音に紛れたから騒ぎにもならなかったんだろうね」
古志川がフライに殴られた時間が七時四十六分であるから、時間的には問題ない。古志川は十分ほど気を失っていたのだろう。
「でも、試し撃ちをするというその選択は古志川さんにとってマズかった。そもそも、ろくにメンテナンスもされていない銃を使おうとしたことが間違いだったんだけどね」
灰鷹はそこで怪訝そうにする。
「マズかった? 辞書には弾丸が撃ち込まれているのだから、銃は問題なく使えたということだ。その試し撃ちというのは成功したのでしょう?」
「写真にも写っていたとおり、弾丸の一発目は問題なく発射され、辞書に命中した。でも古志川さんはそれだけじゃ安心できなかった。偶然上手くいっただけかもしれない。だから用心深く、もう一発撃つことにしたの」
「もう一発……」
「そしてアクシデントが起こった。銃だけじゃなく、弾薬のほうも古くなっていたんだろうね。それで、遅発を起こしちゃったんだと思う」
保管方法にもよるが、長期保存されていた弾薬は湿気や劣化により、通常より火薬が燃焼しにくくなってしまう場合があるという。それが原因で起こる動作不良が遅発である。
銃は引き金を引くことで連動して撃針が動き、薬室内にある弾丸の雷管を叩いて着火、発射させる仕組みになっている。弾丸の火薬が燃焼しにくい状態だと着火されても火が燻ってしまい、火種が正常な火薬部分に行き着いて発射されるまでにラグが発生してしまうのだ。遅発という文字通り、引き金を引いてから遅れて発射されるのである。
「古志川さんは辞書に向かって二発目の弾丸を撃とうとして、引き金を引いた。でも、弾は発射されなかった。きっと、銃の扱いには不慣れだったんだと思う。頭を殴られたばかりで、冷静な判断が出来なくなっていたのかもしれない。だから彼は……思わず銃口を覗いてしまった」
「ということは、まさか……!」
灰鷹もさすがに驚愕したようだった。こんな真相が予想できたはずもない。
禊屋は頷いて、続けた。
「古志川さんが銃口を覗こうとした瞬間、弾丸は発射された。弾は右頬を貫き、脳に達して即死。つまりこれは、古志川さんの自滅。事件の真相は、事故死……ってことになるね」
遅発のアクシデントの際、素人が不発と勘違いしてつい銃口を覗き込んでしまうというのは、銃に関係する事故の中ではかなり多いらしい。冬吾が銃の扱いに少しでも慣れておこうと思って読んだ本だけでも数冊、同じような注意が書かれているのを見た。
「事故死……しかし……」
「そう判断した根拠はもちろんあるよ。フクミミの写真を見て」
禊屋は、写真に写った古志川の右手を指し示す。
「ここ、中指から小指にかけて、第二関節のまわりに点々とした血が付いてるよね。一ミリ程度の小さな飛沫血痕。これはかなりの高速度で吹き出た血液が付着したということを意味するの。血の出た場所を手で拭ったり、鈍器で殴られての出血だったら、こんな小さな飛沫血痕にはならないんだよ。こういう形で血痕が残るのは、例えば拳銃で撃たれたとき。そして、血液の量自体はごく少量であるのにも関わらず、この形状の血痕が古志川さんの右手の指にだけはっきり見られるということは、出血したとき傷口の至近距離にこの右手があったということ。殺し屋三人、誰も古志川さんから反撃を受けたという申告はない――そもそも、三人には銃を持った古志川さんと間近に相対するチャンスがなかったんだから、この血痕は、古志川さん本人の血液だと考えるしかない。以上のことから考えると、古志川さんは自分で自分を撃ってしまったことになる。ちょうどこんな形でね」
禊屋は右手に銃を握る真似をしてから、銃口を覗き込む。たしかにこの形で自分を撃ったのならば、グリップを押さえている中指から小指にかけて傷口から吹き出した少量の血液が付着する可能性は高いはずだ。
「だからこの血痕は、古志川さんが自分の右頬を撃った際に付着した返り血ってことになる。それと、さっきも言ったように、ワシバナはこの時の光景を窓の外から目撃していたはず。外から殺害のチャンスを窺っていたんだろうけど、まさか目の前でターゲットがこんな死に方をするとは予測できなかっただろうね。ワシバナは事故死であることを隠蔽しようとして、古志川さんの右手がサイドテーブルの陰に隠れるアングルで写真を撮った。右手にはマカロフを握ったままだったから。本当は窓から部屋の中に侵入して、マカロフを持ち去りたかったところだろうけど、本人が言っていたように警備員の巡回が邪魔でそんな暇が無かった。だから写真だけ撮って退散したんだろうね」
あの写真でさりげなく隠されていた古志川の右手には、そういう意味があったのか。古志川が凶器の拳銃を握っていたとわかれば、事件はあっさり解決していただろうに。
しかしそうして古志川が右手に持った銃をテーブルの陰に隠すことは出来ても、テーブルの上の辞書を隠すことまでは出来なかったのだろう。弾痕の位置が位置だけに、注意深く見なければ気づかれないだろうと踏んでいたのか。実際、あの写真ではガラス越しだった上に、嫌でも死体に目が行くわけで、禊屋が気がつかなければ最後までわからなかったかもしれない。
禊屋は更に説明を続ける。
「フクミミが寝室にやってきたのは、ワシバナがいなくなった後。現場の状況を見て、これがただの事故死であることを推察したフクミミは、自分が殺したように見せかけることを思いつく。凶器と遺体を一緒に写した写真、そして凶器に一致する弾丸が残ったままの生首を証拠として提出すれば、間違いなくクライアントを騙せると踏んだ。でも、そこで一つ問題が。現場に残されていたマカロフにはサイレンサーが付いてなかったの。凶器を写真に写せば、銃声の問題をどう解消したか訊かれるかもしれない。そのために、その少し前に上がっていた花火を利用して殺したというストーリーをでっち上げることにした。それがさっき言った『とある事情』ってワケ」
そのストーリーに合わせるために、フクミミは時計の時刻表示を弄ったという話だった。
「ちなみに、このときフクミミはもう一つ現場に偽装工作をしている。古志川さんが試し撃ちに使った辞書を、ひっくり返していったの。撮影した写真に辞書が写っていて、それに銃弾の痕が残っているのがバレたら、そこから疑問を持たれてしまうかもしれない。ワシバナの場合は部屋に入れなくて隠せないという事情があったけど、フクミミはただ本をひっくり返しておくだけで弾痕を隠すことができた。これが、辞書の向き二度目の変化」
辞書の向きが二度変化しているという謎は、それぞれ別の人物が別の意図によって動かした結果生じたものだったのだ。
禊屋は続けて、締めに入る。
「古志川さんが事故死だとすると、最も大きな疑問にも説明がつく。それは、どうして殺し屋の三人が古志川さんを殺したと主張してきたのかということ。偽証がバレたらニヴルヘイムに指名手配されてしまうことはわかっていたはずなのに、それでも嘘をついた。証拠の提出が求められている以上、本当にターゲットを殺した相手よりもそれらしい証拠を用意するのなんて、普通に考えたら無理だとわかるはずなのに。最初から自分が古志川さんを殺したと勘違いしていたフライは別だけど、残りの二人がそんなリスクの高すぎる賭けをするとは思えない。でも、二人が古志川さんの事故死を知っていたのなら話は違ってくるよね。だって実際に犯人はいないんだから、それに自分が成り代わるのは難しくないと考えたとしても、おかしくないってこと」
本物が存在しないことを知っていたからこそ、偽者が本物になろうとしたわけだ。ワシバナにしろフクミミにしろ、まさか同じことを考える相手がもう一人いたとは予想できなかったことだろう。
「さぁ、こんなところでどう? 納得してもらえた?」
禊屋は自信に満ちた笑みで灰鷹に尋ねた。灰鷹はしばらく考え込んでから、やっと答える。
「……お見事です。感服しました。それにしても……とんだ喜劇ですね。三人も殺し屋が出向いて、結局誰も殺せてはいなかったとは」
灰鷹は苦笑する。
「敢えて誰が殺したと決めるなら、事故死の原因を創り出したフライということになるのでしょうか」
「そのへんどうするのかはあたしの知ったことじゃないし、勝手にしてよ」
「はい。三人への処遇をどうするかは後ほどゆっくり考えることにします」
禊屋は真剣な顔つきになって、灰鷹に言う。
「で……あたしはこれで役目を果たせたんだよね? 上手く真相を突き止めることが出来たら、解放してくれるって約束だったはずだけど」
「……ええ、そうしたいと思っています。禊屋さん、あなたは期待以上の働きを見せてくれた。その働きに報いるのは当然だ」
灰鷹は不気味な微笑みを浮かべた。事件の検証中は鳴りを潜めていた冷酷さが再び表出したかのような笑み。
「しかし残念ながら――約束を守ることは出来ないのです」
そう言って、灰鷹は右手に持ったリボルバーの銃口を禊屋に向けた。
「あなた方には、死んでもらわなければならないので」
冬吾は、心臓が大きく拍動するのを感じた。
もしかしたら――とは思っていたが、やはり灰鷹は約束を守るつもりなどなかったのだ。それどころか、完全にこちらを始末する気でいるらしい。
禊屋は驚いたようなそぶりも見せず、ただ大きくため息をついて、
「……まぁ、すんなり上手くいくとは思ってなかったけどさ。いいわけ? ここで約束を破ったりしたら、あなたの信条に反するんじゃないの?」
「たしかに私は約束を破る相手を許しませんが――自分が約束を破る分には気にしないことにしているんですよ」
「ううん、参ったな……予想以上のクソ野郎だったみたい」
禊屋は呆れたように言って、髪をくしゃくしゃと弄る。
こっちも禊屋の意見に同意だった。自分が優位な立場にいるからって、よくもまぁ好き放題やってくれるもんだ。何か……何かないのか? この絶望的状況を打開し、目の前の『クソ野郎』に一発重いのをくれてやる方法は……。
禊屋の言葉に対して、灰鷹は悪びれもせず言う。
「すみませんね。あなた方には悪いが、元より二人ともここで死んでもらうという計画でしたので」
「計画……」
禊屋は呟いてから、何かに気がついたように顔を上げる。
「じゃあ最初に話していた、あたしたちを人質にして逃げるというのも嘘? 伏王会につこうとしていたのも?」
「人質にするというのは嘘ですが、伏王会につこうとしていたのは本当ですよ。準備の途中でナイツにマークされていると知ってからは、計画を変更しましたが」
ナイツにマークされていることは以前から知っていたというのか? いったいどうやって……?
「これは罠だったんですよ。あなた方を誘い出すための、ね。ちょうどトラブルの最中だったので、ついでにそれを禊屋さんに解決してもらえれば一挙両得とは思っていましたが、こんなに上手くいくとは……」
罠……ということは、今回の一件は仕組まれていたことだった? 俺たちをおびき寄せて殺すために、始めから……だが……なにか釈然としないような……。
その時、灰鷹の懐で携帯の着信音が鳴り響いた。
「少し失礼」
灰鷹はリボルバーを禊屋に向けたまま服のポケットから電話を取った。目線は禊屋の後方まで用心深く睨みつけており、冬吾も軽率には動けない。
「ちょうど、依頼主からの電話のようです」
灰鷹はそう言ってから、電話に向かって話し始める。今、依頼主って言ったのか……?
「――ええ。今、始末をつけようとしていたところです。問題ありません。すべてあなたのお望み通りに……」
そうか、依頼主! 灰羽根旅団に俺たち二人を殺すよう依頼したやつがいるのか! そいつが、灰鷹が今話している相手……!
「男? ええ、護衛として付いてきている者が一人……たしか、ノラとかいう……合っていますよね?」
灰鷹は冬吾のほうを見ながら答える。そのとき、禊屋の目が驚いたように見開くのを冬吾は見た。
「それなら良かった。では、終わり次第また連絡させていただきますので。それでは、失礼いたします――“代表”」
そう言って灰鷹は電話を切る。すると、禊屋は血相を変えて即座に質問を投げかけた。
「今の相手は……!? 代表って、誰なの!?」
「言ったでしょう? あなた方二人を殺すよう我々に依頼してきた方です。あなた方を殺す代わりに、我々は安全な逃走先を用意してもらうことになっています」
「そんなのを訊いてるんじゃない! その依頼主の名前は!?」
「それは言えませんよ。あの方の名前は決して口に出してはならないことになっているのです。それに、あの方は百の目と耳を持つ。どこで聞き耳を立てられているかわかったものではありませんからね」
灰鷹は依頼主について喋る気はないと見える。百の目と耳を持つ、とはどういう意味だ? どこかで監視しているかもしれない、ということか?
禊屋は鋭く灰鷹を睨みつけ、言った。
「……じゃあ、これだけ教えて。さっきどうして、彼のことを確認していたの?」
そう言って、視線を冬吾に向ける。冬吾もそのことを考えていた。あの電話の最中にわざわざ確認したということは、まさか――
「ターゲットの確認ですよ。依頼主はどちらかというと、あなたよりもそちらの方を殺したがっていたようですね」
やっぱり、そうなのか……! だが、どうして……? 学園祭のキバのときもそうだったが、命を狙われる理由がわからない。
「私はその理由を知らされてはいません。私にこれ以上問いただしたところで、無駄というものですよ。いや……そもそも、このやり取り自体が無駄でしたね。あなた方はここで死ぬのですから」
灰鷹は冷酷に笑って、改めて禊屋にリボルバーを構える。
「さて、お二人のうちどちらを先に撃ちましょうか? 要望があればうかがいますよ。禊屋さんには事件を解決してくれた恩義がありますからね」
よくもまぁぬけぬけと……! 冬吾は灰鷹に掴みかかりたい気持ちをなんとか抑える。
禊屋はというと、なぜか両目を閉じて、深呼吸をしていた。ふー、と、大きく静かに息を吐く。それからゆっくりと目を開くと、灰鷹を真っ直ぐ見据えて言った。
「……じゃあ、あたしを先に撃って」
この状況で、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。驚くほど冷静で、冷めた態度の物言いだった。
「おい禊屋……!」
冬吾が口を出そうとするのを、禊屋は軽く手を上げて制止する。
「――でもその前に、あたしの話を聞いておいたほうがいいと思うよ」
禊屋は挑戦的な笑みを浮かべて言う。灰鷹は興味を示したようだった。
「話、とは?」
「これ、なんだと思う?」
禊屋はコートのポケットから、小さな銀色の紙くずを人差し指と中指でつまみ上げた。
「ガムの包み紙……のように見えますが?」
灰鷹が怪訝そうに答える。冬吾の目にもそう見えた。禊屋が何をしようとしているのかがわからない。
「ゴミに見せかけるためにこうしてあるの。こんな見た目なら、もし発見されても疑われる可能性は低いからね。小さくても集音性はかなりのものだよ?」
そこで扉近くにいた体格の大きな男がハッと息を呑み、慌てたように言う。
「お、おい灰鷹……それ、まさか……盗聴器なんじゃ」
盗聴器……?
「馬鹿な。あり得ない」
灰鷹は馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑って、
「最初に確かめただろう。盗聴器・通信機が仕込まれているかどうかは検知器を使って調べた。この女が付けていた通信機も破壊した。他に反応はなかったから、その類のものはもう持っているはずがない」
すると、禊屋は余裕の表情で割って入る。
「その検知器、通信のための電波を拾うタイプのものでしょ? 悪いけど、あの時この盗聴器は電波なんて出してなかったから検知されるはずないんだよ。この盗聴器のスイッチを入れたのはついさっき。まぁ、さっきって言ってももう十五分くらいは経つけどね」
「十五分……」
扉近くの男の顔に焦燥の色が浮かんだ。禊屋はさらに畳みかける。
「それからのあなたたちとの会話は向こうに筒抜け。時間からいって、ナイツの応援はもうじきここに来る。今から逃げ出しても遅いだろうね。あなたたちはもう詰んでるってワケ」
禊屋はそこで、勝利を確信している――かのようにも見える――自信に満ちた表情で言った。
「んふ、これなら最初にあたしを素っ裸にでもしておくんだったね?」
「おい灰鷹……やばいんじゃねぇのか?」
灰鷹の後ろにいた背の低い男までもが焦ったように言う。リーダーの判断を仰ごうとしているのは、余裕がなくなってきた証拠だ。しかし、先ほどからの禊屋の言動、これは……
「ハッタリだ」
灰鷹は一笑に付した。禊屋に対する丁寧な口調からは一変して、
「簡単に騙されやがって、バカかお前ら。盗聴器なんてでまかせに決まっている。こんな茶番、子供騙しにもならないぞ」
「…………」
禊屋は険しい顔つきで灰鷹を睨む。その額には汗が滲んでいた。禊屋が予備の盗聴器を持っていたなどという話は聞いていない。つまり……これは禊屋のハッタリ。灰鷹の読みは当たっている。あれは盗聴器などではなく、ただの紙くずにすぎない。
灰鷹は余裕の笑みを浮かべて、禊屋を追い詰める。
「見苦しいですよ、禊屋さん? おおかたナイツに我々を見逃させる代わりに、我々もあなた方も殺さないという譲歩案を引きだそうとしたというところでしょうが……聡明なあなたにしては随分と稚拙だ」
「……だったら、確かめてみれば? あたしが嘘をついてるかどうか」
禊屋は紙くずを指で弾いて、床の上――灰鷹と扉の前に立つ男とのちょうど中間ほどの位置に落とす。
灰鷹が扉前の男に目配せをすると、男は扉の前から三歩ほど動いて紙くずを拾い上げた。
――そうか。やっとわかった。禊屋の狙いは譲歩案なんかじゃない。今のハッタリはただの布石に過ぎないんだ。本当の狙いは、この男を扉の前から少しでも動かすこと……! 逃走経路を作るために!
いや――でも――しかし。俺は立っているから、その気になればすぐにでも部屋から逃げ出せるかもしれないが……禊屋はどうするつもりなんだ? 椅子に座ったままだし、扉前にいた男は動いた結果、却って禊屋に近づいてしまった。それに何より、灰鷹のリボルバーが今も至近距離で禊屋を狙っている。上手く逃げ出せる、何かしらの方策があるのか?
「なんだこりゃ? ほんとにただのガムの包み紙じゃねぇか」
紙くずを拾った男が拍子抜けしたように言う。灰鷹は喉の奥を鳴らすように笑って言った。
「小賢しい時間稼ぎだ。まぁ、気持ちはわからないでもありません。やはりあなたでも死ぬのは怖い、と」
禊屋はゆっくりとかぶりを振った。
「……大事なのは、いつこの命を使うかということだけ。だから、死ぬのはもう怖くない。あたしが怖いのは……あたしのせいで誰かが犠牲になること」
そう言って、彼女は長い髪を払おうとするように左手をうなじへ回す。冬吾にしか見えない位置で、その左手がピースの形を作った。……合図だ。
――『あたしが左手でこうしたら、それが合図ね』
――『そうしたら……キミはあたしのことなんて気にしないで、その場から逃げて』
……禊屋の考えがここに来てやっとわかった。このハッタリを始めたときから既に、彼女には生き延びる気がなかった。始めから、自分の身を犠牲にすることで俺を逃がそうとしていたんだ。だとしたら……彼女が次に取る行動は――くそっ! またあいつは、相談もせずに勝手なことを……!
とにかく時間がない、文句を言うのは後だ! 今は考えろ……! どうやったら、禊屋も助け出せるのかを!
全神経を集中して、それを思考のために注ぐ。オーバーヒートしたとしても構わないというくらいの全力で、脳のギアを回転させる。
今の俺は完全な丸腰、手元にはさっき汚れを拭ったタオルくらいしかない。対して相手三人は全員銃を持っている。タオルで戦えるか? 無謀だ。手の届く範囲に武器になりそうなものはない。どうにかして敵から一丁でも銃を奪えれば、もしかしたらいけるか? だめだ、『どうにかして』とか『もしかしたら』とか、不明瞭な点が多すぎる!
とりあえず、一番近い位置にあるのは灰鷹の銃だ。日頃の勉強の甲斐あって銃の区別はつく。あれはルガーGP100、装填数6発、ダブルアクションのリボルバー……。ダブルアクションなら、手動で撃鉄を起こす必要はなく引き金を引くだけで撃てるが、その分引き金が重たくなるから撃つのにやや力がいる。ルガーそのものが大きく重めの銃だ。灰鷹が銃の達人でも無い限り、咄嗟に正確な射撃は難しいはず……。
考えている間にも、状況は進展していく。灰鷹はリボルバーを持った右手を上げ、禊屋の頭に狙いをつけて言った。
「あなたのせいで犠牲に、ですか。では、これはあなたにとって最悪の結末になりそうですね?」
――まだ考えがまとまっていない。待ってくれ。時間がない。急がないと。失敗すれば、禊屋の覚悟さえも無駄にしてしまう。本当にやれるのか? 本当に? 本当に? 本当に?
禊屋はゆっくりとテーブルの上に両手を出しつつ、自らを奮い立たせるような声で叫んだ。
「そう、だからそんな結末は――変えてみせる……ッ!」
考えるより先に身体が動いた。テーブルに向かって全力でスタートを切る。
――違う! 諦めるのなんか御免だ! やれるかどうかじゃなくて、やるんだ……やれっ!!!
「――やめろバカッッ!!!」
禊屋が灰鷹の銃を両手で掴むより、ほんの僅かに早くタオルを投げ込む。タオルはテーブルの上で広がって灰鷹と禊屋の視界を遮った。
「なっ……!?」
予想外の冬吾の動きと、飛来したタオルによる目隠しで灰鷹は一瞬狼狽える。すかさず冬吾は禊屋の座るパイプ椅子の背もたれを右手で掴み、彼女ごと全力で後ろへ引き倒した。
「きゃあっ!?」
禊屋が悲鳴を上げ床にひっくり返るのと、彼女に向けて発砲されたルガーの弾丸が壁に命中するのはほぼ同時だった。
「チッ……!」
灰鷹は舌打ちし、冬吾に銃口を向け引き金を引く――が、発砲される直前に冬吾はテーブルに飛び乗り灰鷹の右手首を掴んだ。右手で掴んだ手首を固定し、左手で相手の右手の甲を押しこむ――手首が曲がってルガーの銃口が扉側を向いた。冬吾に向けて引き金を引いたはずが、弾丸は、銃口の先にいた灰鷹の仲間である大男の胸に命中した。男が壮絶な悲鳴を上げて倒れる。
「貴様ァッッ!!」
灰鷹が激昂する。テーブルに飛び乗った勢いのまま、冬吾は灰鷹を押し倒すようにして椅子ごと床に倒れ込んだ。
灰鷹の後ろにいた背の低い男が、オートマチック銃を倒れている冬吾に向けて構える。冬吾は灰鷹の右手首を左手で押さえつけつつ、右手で灰鷹の胸ぐらを掴んで引き寄せた。男が銃を三連射したが、咄嗟に灰鷹の身体を盾にして銃弾から身を守る。
「クソが……!」
男が一歩前に乗り出して冬吾に狙いをつける。冬吾は即座に左手で灰鷹のルガーをもぎ取った。
――左手だが、いけるか!?
正確に狙いをつけるという余裕すらなく、完全に感覚任せで引き金を引いた――直後、男の身体が崩れ落ちる。灰鷹の身体越しに撃った弾丸は、男の鼻の下に命中したのだ。同時に、冬吾の耳元で地獄のような唸り声が聞こえた。
「ううゥゥゥァッッ!! 死ね死ね死ね死ネェッ!!!」
憎悪という名の執念が形を成したかのようだった。銃弾を三発背に受けながらも、灰鷹は襲いかかってきたのだ。服のどこかに隠し持っていたのであろうジャックナイフを左手の逆手持ちにして、冬吾の首筋へ向けて振り下ろしてくる。
「こっ……の……!」
すんでのところで相手の左手首を右手で掴んで抑える。冬吾はすかさず灰鷹の左腕に目がけてルガーを撃った。
「がぁァァァァァァッ!!」
高威力の弾丸は灰鷹の左腕を完膚なきまでに破壊し、傷口からは大量の鮮血が噴き出した。灰鷹は痛みでナイフを床に落としながら、床の上をのたうって血のラインを描く。地獄でもがき苦しむ亡者さながらに、灰鷹は冬吾の足下にしがみついた。
「い、嫌だ……! なんで……なんでこんな、ところで……」
「…………」
残るは、この男だけだ。冬吾は横になったままゆっくり呼吸を整えてから、ルガーの銃口を灰鷹の頭へ向ける。
「これくらい覚悟してただろ? クソ野郎」
引き金を引いて、決着をつけた。ほっと息をつく。これで危機は乗り越えた――かに思えた。
「おいなんだ!? なんの騒ぎだ!?」
部屋の奥に繋がる扉から、一人の男が飛び出してきた。坊主頭のチンピラ風の男。しまった――灰羽根旅団は全部で五人……あともう一人いたんだ! ルガーの装填弾数は六。弾はもう五発撃たれている。一発で仕留められるか――!?
坊主頭の男は部屋の惨状から状況を察したようだった。
「くそっ、四人もいらねぇっつうから寝てたのによ――!」
男は腰元から銃を引き抜こうとする。冬吾はそれに先んじて、ルガーの引き金を引いた。
――『カシャ』っという音がして、シリンダーが空回りする。体内を巡る血液の温度が一気に下がったような気がした。
弾切れ……!? どうして、まだ五発しか撃ってないのに……!
原因はすぐに思い当たった。そうか、最初から部屋にあったあの死体! 俺たちがここに来る前に、灰鷹が仲間を殺すためにこの銃で一発撃っていたのか!
「くそっ!」
やぶれかぶれで敵に向かって銃を投げつけるが、手が滑ってまるで見当違いの方向に飛んでいってしまった。
「はっ、弾切れかよ! 残念だったな!」
男が構えた銃は、マカロフだった。今日はとことん縁があるらしい。倒れたままの姿勢じゃまず避けられない、今度は盾を使うことも出来ない――どうする!?
「ヘイ、ナイスガイ! こっち見て!」
テーブルの向こうで鈴の鳴るような声がした。男が声の方向へ顔を向ける。
「あ? ――なっ!?」
声の主はもちろん、禊屋だ。彼女はパイプ椅子を両手で持ち上げ、振りかぶったところだった。
「ま、待てっ!」
「だー……めっ!」
男は身構えようとしたが、間に合わなかった。
「がぁっ!?」
上半身にパイプ椅子の全力投球を食らって、男はマカロフを取り落とす。マカロフは床の上を転がって壁にぶつかり、坊主頭と冬吾の間で止まった。いや、まだ相手のほうが近い位置か。普通に飛びついたのでは先を越されてしまうだろうが、他の銃を拾いにいく時間もない。あのマカロフを先に奪えなければ――負ける!
視界の端に、古志川達夫の生首が転がっているのが見えた。テーブルに乗り上がった際に蹴飛ばして落としてしまったのだろう。今はなんでもいい。使えるものは使わせてもらう――!
右手で生首の髪を引っ掴み、男の足下めがけて投げた。
「くぉ……っ!」
マカロフを拾おうとしていた男は古志川の生首に足を躓かせ、派手に倒れ込む。冬吾はその隙にマカロフをかすめ取り――至近距離から男の頭にめがけて二発、撃ち込んだ。
それから数秒――今度こそ、静寂が地下室を支配する。
トドメを刺したことを確認すると、冬吾は糸が切れたかのように仰向けに倒れてしまった。
「はぁ……はぁ…………」
生き残った……のか? 自分でも信じられない。頭の中で興奮物質が今もドクドクと生成され続けているのを感じる。脳がイカれてしまったかのようだ。
ゆっくりと左手を上げると、震えがひどかった。まるで自分の手じゃないみたいで、閉じたり開いたり動かしてみる。
左手での射撃……あの状況で、よく上手くいったもんだ。ナイツの射撃場では利き手である右に比べて、いまいちな結果しか出ないのに。……そういえば、黒衣天狗のときも似たようなことがあったか。咄嗟の際に、この左手は何かをやってくれるのかもしれない……。
「ノラ!」
禊屋が駆け寄ってくる。泣き出しそうな顔をする彼女に向けて、手を伸ばす。
「援護攻撃、助かった」
「ギリギリだったけどね……」
禊屋は差し出された手を不思議そうに見つめている。
「……起こしてくれ。力、入んないんだ」
「あっ。そ、そっか。わかった……」
禊屋に引き起こされて、なんとか起き上がった。
「どこも怪我してないか?」
「うん……ひっくり返ったときに、ちょっと頭打ったけど。キミは?」
「俺は大丈夫。それより……」
冬吾は真剣な表情で禊屋に向かい合う。
「お前……死ぬつもりだっただろ。あのまま灰鷹の銃を押さえて、その間に俺が逃げられるように」
「うっ……」
禊屋は気まずそうに目線を下げる。なんだか生徒を叱る先生にでもなったような気分だ。そんな柄じゃないんだが……。
「……キミを助けるには、ああするしかないと思ったから」
「それは……わかるけど。でもあんな方法で助かっても、生かされても……納得できるはずないだろ!」
禊屋が自分で出来ることを精一杯やろうとしたというのは理解している。そもそも今回は俺のせいで迷惑をかけてしまった部分も大きい。だからこんなことを言って、理不尽なのはむしろこっちのほうなのかもしれない。だがそれでも、言っておかなければ気が済まないのだ。
「自分のために誰かが犠牲になるのが怖い……って言ってたよな。あれは、お前の本心なんだろ?」
禊屋は無言のまま頷く。
「……俺だってそうだよ。俺のためにお前が死ぬなんて結末は、絶対に嫌だ」
「あっ……」
禊屋はショックを受けたように目を見開いた。どうやら、こちらの言いたいことはちゃんと伝わったらしい。それがわかってくれたら、もう言うことは――
「え?」
冬吾は思わず硬直してしまった。禊屋の目から大粒の涙が零れるのを見たからだ。
「あっ、いや……お前が必死だったってのはわかってるんだ! 最後のあれも上手くいったから良いようなものの、一か八かの賭けだったし。俺を助けようとしてくれたことにも、感謝はしてて……だから、その……」
慌てて慰めようとするものの、上手く言葉が出てこない。禊屋の涙は止まるどころか逆に勢いを増して、静かではあるが嗚咽まで漏らし始める。これは……困った。泣かせるようなつもりじゃなかったのに。すると、いきなり禊屋は冬吾の胸元にすがりつくように抱きついてきた。
「おふっ!?」
冬吾は驚いて妙な声を出してしまった。
「ごめん……ごめんね。置いていかれる人の気持ち、わかってたはずなのに。なんでそんな大事なこと、忘れちゃってたんだろ……」
禊屋の過去に何があったかはわからない。でもきっと、忘れていたわけではないと思う。忘れられなかったからこそ、なのではないだろうか。
「……もういいよ。でも、これからは一人であんな無茶しないでくれ。俺のこと、もっと頼ってくれていいんだ。お前の、相棒なんだからさ」
口に出してから、今のは少しかっこつけすぎたかと後悔する。
「……ありがとう」
禊屋の言葉で、その後悔も消え失せた。
「…………」
禊屋は落ち着いたようだったが、抱きついたまま離れようとしない。
またもや困った。これは……どうすればいいんだろう? 空気……というものを読むならば、ここは一つ、抱きしめてやるべきなのか……いやいやいや。本当にいいのか? 読めているのか、空気? そもそも、何かするべきなのか?
冬吾が大いに迷っていると、禊屋は薄く紅潮した顔を上げ、囁くように言った。
「……いいよ?」
いいよ? いいよって?? なにが??? どこまで????
そのとき、部屋の外で小さく、足音が聞こえた。
禊屋を無理やり下がらせると、即座にマカロフをもう一度手にとって扉に向かって構える。
「誰だ!?」
一瞬のうちに、再び緊張が走る。まさか、他にも仲間がいたのか……!?
しばらくしてから、扉の向こうで返事があった。
「な、ナイツの者です! 禊屋さんたちから連絡がないので、様子を見てくるようにと……」
禊屋と顔を見合わせる。彼女は頷いて、扉に向かって言った。
「入って」
「は、はい……」
遠慮がちに扉が開いて、癖毛の男が姿を現す。スーツ姿で、背は高いが体格は細い。有り体に言えば、なよっとしている。見た目はかなり若く、冬吾や禊屋と同じくらいに見える。
「シープ君?」
禊屋は彼を知っているようだった。
「知ってるのか?」
「一ヶ月くらい前にうちに入ってきたシープ君。一度廊下ですれ違って、挨拶しただけだけど」
新入り、ということか。一ヶ月前に入ったのなら、冬吾は一応先輩ということになる。シープはかしこまって言う。
「ノラさんにはお初にお目にかかります! シープと申します! 仕事は連絡係とか、雑用とか、色々ですね。ノラさんのお噂はかねがね伺っております……お会いできて光栄です……!」
「ちょ、ちょっと待って」
冬吾は妙な単語が聞こえたような気がして、確認する。
「光栄って……なんで?」
「なんで……って。僕より少し早く入っただけなのに、B級のヒットマン二人を倒す大活躍って聞きましたよ!」
「……ああ、そう」
なんだか頭痛くなってきた……。禊屋は笑いを堪えつつ尋ねる。
「乃神さんの指示で来たの?」
「そうです。様子見をしてくるだけという話だったんですが……」
そう言って部屋に足を踏み入れた途端、シープはギョッとしたような顔をする。
「うわっ……これは……」
「ちょっとトラブルがあったんだ。もう片付いたけど……」
「ノラさんがやったんですね!?」
シープはなぜか尊敬するような目で冬吾を見る。冬吾は困惑しつつ頷いて、
「まぁ……そうだけど」
「一人でこんなに……うはぁ、すごいすごい! さすがは今まで出会った全ての敵を皆殺しにしてきたというだけはありますね! いやぁ、流石だなぁ!」
シープは一人で興奮している。なにかとんでもない誤解があるような……。疲れ果てていて、訂正するのもめんどくさい。
「とにかく、お二人が無事で良かったです。外に車ありますんで、ご一緒に……」
「あ、先に行っててくれる?」
禊屋が言う。
「ちょっと二人で話しておきたいことがあるから」
「話? ……あ、なるほど! 気が利かなくてすみません! ではごゆっくり!」
シープはにこにこ笑って部屋を出ていった。悪い人間じゃなさそうだが、彼はちょっと思い込みの激しいところがあるんじゃないだろうか……。
「――で、話ってなんだ?」
禊屋はシープが遠ざかっていくのを待ってから、小声で言った。
「あのね……灰鷹が言ってた、『依頼主』のこと」
灰鷹が電話の中で、『代表』と呼んでいた人物のことか。灰羽根旅団を操り、俺たちを抹殺しようとした……今回の全てを仕組んでいた、黒幕……。
「誰かを裏で操りつつも、まったく姿が見えてこない用心深さ……。このやり口からしてあたしは、相手は一ヶ月前、キミのところへキバを送り込んできたやつと一緒なんじゃないかと思ってる」
「……俺も、その可能性は高いと思ってた。この裏社会で、わざわざ俺みたいな小物を殺そうとする物好きが二人もいるとは思えない」
問題は、その動機なのだが……やはり、わからない。
「それと、これはあくまで推測なんだけど……」
禊屋はそう断ってから続ける。
「もしかしたら、味方の中にスパイがいるのかも」
「え……? スパイって……」
「灰鷹は、今回の一件をあたしたちを誘い出すための罠だって言ってた。そのためにナイツにオファーを出してきたんだろうけど、それだけじゃ不確定要素が多すぎて、抹殺計画なんて立てられないんじゃないかって思うの。下手すれば、応援を呼ばれて一網打尽にされる可能性だってあるわけだし。ほら、通信機を持ち込んでるのがバレたのだって、今思えば初めから知っていたかのような対応ぶりだった。それに、灰羽根旅団が伏王会と接触していることについて、ナイツがマークしていたっていうことも灰鷹は最初から知っていた」
「それは、ナイツ側から情報を流しているやつがいるからだって言うのか?」
「可能性は、あると思う」
「そうだとして、どうすればいいんだ? スパイが誰なのか、見つける手段ってあるのか?」
「相手も警戒はしているだろうから、簡単にはいかないだろうね。灰羽根旅団が残した痕跡から依頼主のほうを辿ってみるって方法もあるけど、キバのときのことを思えば、望みは薄いかな」
キバに殺しを依頼した人物と、灰鷹に『代表』と呼ばれていた人物が同じであれば、自分に繋がる痕跡は徹底的に抹消している可能性は高い。電話もおそらく、身元の割れないトバシ携帯などを使ったのだろう。
禊屋は髪を弄りつつ少し考えてから、
「うーん……夕桜支社で確実に信用できるのは、薔薇乃ちゃんと織江ちゃん、あとはアリスくらいかな……。その三人には今の話、しておくよ。どう対応するかは、じっくり考えるとして」
『代表』だけでなく、味方に潜むスパイにも警戒しておかなければならないのか……。
「それともう一つ……これはまったく別の話なんだけどね?」
禊屋は少し明るいトーンになって言う。
「今までも考えてはいたんだけど……今回のことでもっと強く決心したよ」
「なにを?」
「キミがさっき言ってくれたこと、本当に嬉しかった。それに反省した。あんな一人よがり、もうしないよ。それでも、やっぱり思うの……キミにはこれ以上危ない目に遭ってほしくない。あたしがキミを巻き込んでしまったから……という気持ちももちろんあるけど、それより強く思うのは、キミには明るい道を歩いてほしいってこと」
禊屋は心の底から冬吾のことを心配しているのだ。その気持ちを否定することは、冬吾には出来ない。
「だからあたし、キミがどうにかして元通りの生活に戻れないか、本格的に考えてみようと思うの」
元通り……とはつまり、ナイツに入る前の生活ということか? 裏社会などとは縁遠い、平凡で平和な学生としての生活。
「俺だって、そうしたいとは思うけどさ……でもやっぱり、難しいんじゃないか? 岸上豪斗が殺されたあの事件で俺は神楽に目をつけられて、脅されてるような状態なんだ。神楽との約束を破って俺が勝手に組織を脱けたら、妹に危害が及ぶかもしれない。そんなことになるくらいなら……」
「もちろんわかってるよ。だから、神楽と交渉できる手段がないかを探してみる。今はまだ、なにも思いつかないけど……でもきっと、そう遠くないうちにキミをこの世界から解放してあげるから」
あの神楽を相手に、まともな交渉など出来るのだろうか……? いや、禊屋ならば、何か良い方法を思いついてくれるかもしれない。少なくとも、一人で考えるよりはずっと心強い。そして彼女の言うとおり、無事にこの組織を脱けることが出来たら、そのときは――そのときは…………。
「まぁ、どうして『代表』ってやつに命を狙われてるのかがわからないとキミも安心できないだろうから、そっちが片付いてからってことになると思うけど。それでも、悪くない話でしょ?」
「ああ……」
「ん……あれっ? 嬉しくない?」
「え? ああいや……嬉しいよ。ありがとう。頼りにしてる」
「にひひ。オッケー、任しといて!」
禊屋は屈託のない笑顔で右手の親指を立てる。冬吾は少し複雑な心境でその姿を見ていた。
足を洗えるものなら洗いたい。こんな危険な裏社会なんて、一刻も早く抜け出したい。そうは思いつつも、禊屋が協力してくれるという話を聞いて、素直に喜べない自分がいることに気がついてしまった。
つい、考えてしまったのだ。元通りの生活とはつまり、裏社会とは完全に縁を切るということ。だが、そうなったとしたら……その後も裏社会で生き続けるであろう禊屋とは、もう二度と会えなくなるのではないか、と。
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