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13:お弁当箱

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「今日は本当にありがとうございました。乃蒼も凄く喜んで、今部屋を見に行ったら枕元にリュックサックが置いてありました」
「良かった。乃蒼ちゃん、リュックサックを背負って何度も鏡の前に立っていたんですよ」

 リュックサックを背負う自分を鏡で見て、かと思えばくるりと回ってリュックサックを見て、更に自分とリュックサックを横から見て……、と、鏡の前でくるくると回っていた。そのうえ何度も凪咲に「どう?」と聞いてくるのだ。そのたびに「可愛い」と返していた。
 その時の姿を思い出して笑いながら話せば、武流も表情を柔らかくさせた。


 乃蒼との買物を終えて凪咲の家で武流の帰宅を迎え、間宮家に移動して三人で夕食を取った後。
 既に乃蒼は自室で眠っている。普段から早く寝る子だが、とりわけ今日は買物とその後のリュックサック披露で疲れたのか早く寝に行った。

「そういえば、朝話している時に、俺が以前に間違えたことがあると話しましたよね」
「違うキャラクターのものを買ってきちゃったんですよね?」
「そうなんです。まだ乃蒼と過ごし始めてすぐのことで、あの時は幼稚園で使う弁当箱でした。乃蒼は猫のキャラクターが良いと言っていて、俺が仕事帰りに買ってくる事にしたんです」

 当時の乃蒼が欲しがったのは、今回のように幼児向け作品の弁当箱だったという。
 だがそれもまたキャラクター数が多く、仕事一筋で生きてきた武流に判別は難しかっただろう。

「それで、一つ前のデザインの弁当箱を買ってきてしまったんです。だけど乃蒼は俺が間違えたことも言わず、お礼を言って使い続けていたんです。恥ずかしい話、しばらくして幼稚園の先生と話をしていて違う弁当箱を買っていたことに気付きました」

 だが買い替えると言っても乃蒼は首を横に振り「これで良い」と言い張っていたらしい。
 きっと幼いながらに武流を気遣ったのだろう。暮らし始めてすぐというのなら、もしかしたら我が儘と思われ他所にやられるかもと案じていたのかもしれない。
 結果、武流は「予備のお弁当箱も必要だから」と乃蒼を連れて買い物に行き、ようやく乃蒼が元々欲しがっていた弁当箱を彼女に渡す事が出来たのだという。

「だから今日、乃蒼が不満を言ってくれて嬉しくもあったんです」
「今朝の乃蒼ちゃん、凄いふくれっ面でしたもんね。抱っこされながら武流さんの背中も叩いてたし」
「普段は抱き上げて話せば落ち着いて聞いてくれるんですが、たまにああやって背中を叩いて訴えてくるんです。でも本気で叩いてるわけじゃなくて、きっとうまく言葉に出来ないジレンマからなんでしょうね」

 そんなジレンマの訴え方も愛おしいのか、武流が表情を柔らかくさせて乃蒼の部屋がある方へと視線をやった。

「……希望や不満を訴えてくれるようになって良かった」

 深く息を吐きながら武流が安堵の言葉を口にした。
 乃蒼が武流を気遣って不満を言えずにいた時、同じくらいに武流もまた乃蒼を気遣い、そしてきっとそんな生活を乃蒼に強いてしまう自分に負い目を感じていたのだろう。
 次いで彼は改めて凪咲に感謝の言葉を口にしてきた。帰ってきてからもう何度もお礼を言ってきているが、とりわけ過去の話をした今は感謝が募るのか。

「今日みたいなことがあったらいつでも言ってください。乃蒼ちゃんが不自由なく暮らせるのが一番ですし、そのためなら協力します」
「柴坂さん……」
「私は病院関係の事では手伝えませんが、家のことなら出来ますから」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると凄く心強いです。……俺は柴坂さんにあんな事をしてしまったのに」

 武流の言葉が気まずそうな声色を含み始めた。
『あんな事』とはあの晩のことだ。酒に酔い、体を重ねてしまった……。
 明確な言葉にこそしないが武流の口から一線を越えた夜のことを言われ、思わずドキリとしてしまう。凪咲の胸に緊張が湧く。
 だが一つきちんと言わなくては! と考え「武流さん!」と些か気合いが入るあまり声高に彼を呼んだ。まさかこうも強く呼ばれるとは思っていなかったのか、武流も「はい!」となぜか不自然に声をあげて返してきた。

「一つ言っておかないといけない事があるんです!」
「は、はい。なんでしょうか」
「私……、別にああいう事に慣れているわけじゃないので、そこだけは勘違いしないでください!!」
「…………え?」

 凪咲の言葉に武流が間の抜けた返答をする。
 だが凪咲は今が説明するまたとない機会だと考え、更にぐいと詰め寄って話を続けた。
 確かにあの晩、体を重ねた。それは紛れもない事実で、過去は変えようもないし無かったにも出来ない。もちろん武流を責める気も無いし、彼が罪悪感を覚える必要も無いと思っている。

 だけど……。

「あの後、私凄く落ち着いて対応してしまって、謝る武流さんを宥めたりしましたよね。だからこういうことに慣れてる女だと思われたらどうしようって考えてたんです」

 確かに武流に対して「気にしないで」と言った。
 あまりに彼が謝罪し、責任を自分一人で背負おうとしていたからだ。まるで無理やりに凪咲を押し倒して犯したかのような口調だった。
 だからそれに対して武流に非はないと告げ、気に病まないよう彼を宥めたのだ。

「後々に考えてみると、私、妙に冷静に対応していましたよね。だからもしかしたら武流さんに『こういうことに慣れてる女』って思われたらどうしようって。でもわざわざ自分からあの夜のことを言うのも憚られて、どうしようって考えていたんです」
「そ、そうですか……」
「武流さんの責任じゃありません。それに私、傷ついたりもしていません。だからといって身持ちの軽い女というわけでもないし、一夜の遊びに耽るような性格でもないんです。だからそれを理解してもらいたくて、ずっと話す機会を窺っていたんです」
「そんな、俺は柴坂さんをそんな風に思ったりしていませんよ」
「そうですか? 良かったぁ。もしも乃蒼ちゃんの教育に悪いからって避けられたらどうしようかと思ってたんです」

 ほっと凪咲が胸を撫で下ろした。
 それに対して武流が「柴坂さん……」と凪咲を呼び、次いでふっと軽く息を吐いたかと思えば途端に笑い出した。口元を手で覆い笑っているのを隠そうとはしているがバレバレだ。
 まさか笑われるとは思わず凪咲が驚いて彼を見るも、よほどツボにはまったのか武流は笑い続けている。

「武流さん?」
「あ、すみません、笑ってしまって……。でも、そんな必死になって説明するなんて……」

 笑ったことを詫びつつも、それでも武流は笑うのをやめない。というよりやめられないのだろう。

「そ、そんなに笑わないでください。私、これでも結構真剣に考えていたんですよ」
「そうですよね、申し訳ない……。でもあまりに柴坂さんが力説するから、つい」
「謝るわりにはまだ笑ってますよ。もう、私はあの夜のことよりも今笑ってることをきちんと謝罪してほしいぐらいです」

 今更ながらに自分の力説が恥ずかしく思えてしまい、つい拗ねるようなことを口にしてしまう。といっても本気で謝罪を求めているわけではなく冗談だ。
 この冗談は武流も分かったのだろう「すみません」と柔らかく謝罪をすると、笑うのをやめて深く一度息を吐き、改めて凪咲へと向き直ってきた。笑ったばかりだからか表情は柔らかく、穏やかに目を細めて見つめてくる。

「軽い女性だなんて思っていません。親切で優しい方です。柴坂さんが隣に住んでいて、こうやって知り合えて良かった」

 穏やかな表情で武流が告げてくる。
 その表情に、彼の言葉に、凪咲は己の胸が温まるのを感じた。
 自分もまた武流と乃蒼と知り合えて良かったと思っている。そう答えて彼を見上げ……、武流と見つめ合った。

 瞬間、二人の間に流れていた空気が変わった。

 何も言えずにただじっと見つめ合う。相手の出方を窺い合うような、僅かな動きや言葉でさえも互いを刺激してしまいそうな、なんとも言えない空気。重苦しくは感じないが、僅かな緊張とそして少しの艶めかしさを伴う。
 そんな空気の中、「柴坂さん」と武流が呼んでくる。その声は先程までの会話の中で呼んでいた時とどこか違う。落ち着いた声、男性らしく低く、凪咲の耳に入って胸に染み込む。
 これは『乃蒼の父親代わり』として凪咲を呼んだのではなく、『隣家の住人』として呼んだのでもない。一人の男として凪咲を呼んだのだ。

 トクン、と凪咲の心臓が跳ねた。

「武流さん……」
「柴坂さん、俺……、乃蒼だけじゃなく俺のことも受け入れてもらえて嬉しかったんです。だから柴坂さんを軽い女性だなんて考えていません。親切で優しくて……、凄く、魅力的な女性です」

 真っすぐに見つめながら武流がゆっくりと身を寄せてくる。
 彼の手が凪咲の手に重ねられた。節の太い指が手の甲を撫でる。
 くすぐったいようなもどかしさに、凪咲の胸の内に緊張と期待が浮かんできた。武流の顔が近付いてくる。

 一度目のような『断らなきゃ』という考えは浮かばず、目を閉じて武流からのキスを受け入れた。


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