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07:「おかえりなさい」

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 二時に終わる幼稚園に合わせてマンションの前で待ち、バスから降りて来た乃蒼を迎える。
 預かって三週間が過ぎると迎えも慣れたもので、最初こそ不思議そうにバスの窓から見ていた乃蒼の友人達も今では「乃蒼ちゃんのお姉さんバイバイ!」と元気よく手を振ってくれる。――姉ではないと一応説明はしたのだが、やはり子供には複雑な事情は分からないのだろう――
 幼稚園の保育士には初日に武流が説明をしてくれていたおかげで直ぐに受け入れてもらえたし、同じように迎えを待つ保護者達も挨拶と共に事情を話せば理解してくれた。

 今日も発着場所で待っていると、黄色い車体に花や兎の絵柄が描かれたバスがゆっくりとマンションの前で停車した。
 扉が開き、出て来た保育士が保護者達に挨拶をした後に車内の子供達に声を掛ける。その中には乃蒼の姿もあり、彼女はタラップをトントンと跳ねるように降りると凪咲の横にちょこんと立ち、保育士に対してペコリと頭を下げた。

「先生、ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう。また明日ね」

 どうやら幼稚園でも乃蒼はお嬢様を目指しているようで、そんな乃蒼に対しての保育士の表情は「可愛い」と声に出さずとも訴えている。
 そうして再びバスが出発するのを見送った。



 乃蒼が戻ってきた後は基本的には間宮家で過ごすが、その日は自宅に荷物が届くため乃蒼を家に招き入れることになった。
 もちろん武流には事前に連絡をして帰りに寄ってもらう事にしている。
 といっても、所詮は隣なので『寄る』というほどの距離でも無いのだが。

「凪咲お姉様のおうち、乃蒼の家と似てるのね」
「同じ階だし隣だし、間取りは殆ど一緒だね。あ、でもクローゼットの位置とかは反転してるかな」
「なんだか間違い探しみたい」

 乃蒼が楽しそうに笑う。
 キョロキョロと周囲を見回すのは興味があるからだろう。だが事前に武流から詮索しないように言われているらしく、周囲を探るのはあくまでソファに座ったままでだ。
 そのいじらしさが可愛く、凪咲は乃蒼の前にジュースとお菓子を差し出した。間違い探しをしていた乃蒼が一瞬にしてテーブルの上に釘付けになる。その分かりやすさも可愛らしい。

「何が好きか分からないから適当に買ってきちゃった。嫌いなのがあったら言ってね」
「乃蒼、お菓子ならなんでも好き。幼稚園ではクッキーがよく出るし、静香おば様お煎餅を持ってきてくれるの。武流おじ様はチョコレートが好きだからチョコレートをいつも買っておいてくれるのよ」
「そういえば、おうちにはいつもチョコレートが置いてあるもんね。武流さん甘いもの好きなんだ」

 凛とした佇まいと涼やかな顔付きをしていたが意外と甘党らしい。
 チョコレートを多めに買っておいたから武流にも渡そうか。そんな事を話せば、さっそくとお菓子を頬張っていた乃蒼が「おじ様きっと喜ぶわ」と笑った。


 しばらくは幼稚園についての乃蒼の話を聞き、その最中にインターフォンが鳴って立ち上がった。
 予定していた荷物が届いたのだ。中を確認してくると乃蒼に告げて仕事部屋へと向かう。
 乃蒼がそわそわとしだしたのはきっと凪咲の仕事が気になっているからだろう。だが武流に言われたことを守るために何も言わずにむぐと口を噤んでいる。それがまた愛おしく、思わず小さく笑って乃蒼を呼んだ。

「乃蒼ちゃん、仕事部屋に入ってみる?」
「良いの!?」

 凪咲が誘えば、乃蒼がぱっと表情を明るくさせて跳ねるように近付いてきた。
 そうして仕事部屋へと乃蒼を案内すれば「乃蒼の部屋と同じ場所」と嬉しそうに話し出した。同じ間取りで、隣家では凪咲の仕事部屋が乃蒼の子供部屋として使われているからだ。広さやクローゼットの位置もほぼ同じだろう。
 だがさすがに内装は違う。凪咲の仕事部屋は一角に大きめの仕事用デスクが置かれ、背の高い本棚が二つ並んでいる。それとガラスキャビネットが二つ。

「普段はもう少し綺麗なんだけどね。今日はちょっと調べものをしてて、それで気付いたら乃蒼ちゃんのお迎えの時間だったの」

 そんな言い訳をしてしまうのは、床に数冊本が詰まれたままだからだ。
 だがそれを気にしている凪咲を他所に、そろそろと部屋に入った乃蒼は足元の本には目もくれずに一角に置かれたガラスキャビネットへと吸い込まれるように近付いていった。

「お人形……」

 ポツリと呟かれる。感動の入り混じった声。
 キャビネットの中には愛らしい風貌の人形が綺麗な服を着て椅子に座っている。大小様々、顔も、服も、それぞれ違う。
 合計二十体が綺麗に飾られている様は自室ながら圧巻だと凪咲自身も想う。

「お人形が凪咲お姉様のお仕事なの?」
「人形そのものは趣味と仕事の半々かな。普段は人形についての調べものや文章を書いてるの。それともう一つの仕事でお人形造り」
「お人形作り……。凄い、凪咲お姉様はお人形の神様なのね」

 乃蒼が瞳を輝かせ、一体一体を眺めて「可愛い顔」「素敵な髪」「妖精さんみたい」と褒める。
 その間に凪咲は荷解きをし届いた本を棚へと戻した。……それとさり気なく床に置きっぱなしだった本もしまっておく。

 そうして再びリビングへと戻り、凪咲の仕事についてや乃蒼が好きな人形遊び、一緒に眠るぬいぐるみについて話す。
 しばらくは興奮するように話していた乃蒼だったが、次第に口調が微睡みだし、こくりこくりと船を漕ぎだした。

「乃蒼ちゃん、眠いの?」
「ん……、ちょっとだけ」
「今日は外で遊んだって言ってたから疲れちゃったんだね。いま毛布持ってきてあげるから、武流さんが帰ってくるまで寝てて良いよ」

 ふらふらと頭を揺らす乃蒼の体に優しく触れて促せば、そのままソファに横になった。
 もぞもぞと丸くなる姿はまるで猫のようだ。持ってきた毛布をそっと掛けて優しく頭を撫でれば、すっかり熟睡していた乃蒼がくすぐったそうに笑った。


◆◆◆


「すみません、遅くなりました」

 帰ってきた武流の第一声はいつも同じだ。
 予定していた時間通りの日も、実際に遅くなった日も、それどころか早めに帰れた日でさえも彼はまず最初にこの言葉を口にする。そして今日、戻る先が凪咲の家でも同じなようだ。
 そんな武流に対して凪咲はいつも「お疲れ様です」と向かえている。だから今日も、と口を開いたが、

「おかえりなさい」

 と、間違えてしまった。

「えっ……」
「あ、すみません、自分の家なのでつい」
「いえ、良いんです……。それより、予定があったのに申し訳ありません。乃蒼は?」
「乃蒼ちゃんなら寝ちゃってます」

 武流をリビングへと案内すれば、そこではいまだ乃蒼が毛布に包まって眠っている。
 眠り始めたのは四時頃だろうか。今は七時。疲れていたのか今まで一度も目を覚ましていない。

「乃蒼ちゃん、今日幼稚園のお散歩で公園に行ったらしいんです。そこでずっと走り回って遊んでいたらしいから疲れちゃったみたいです」
「これは完全に熟睡してますね。乃蒼、ただいま。ほら家に帰ろう」

 武流が乃蒼の頭を撫でる。
 だが乃蒼は「んぅ」と返事とも言えない声をあげるだけだ。そのうえ武流の手から逃げるように毛布の中に頭を引っ込めてしまった。

「仕方ないな……。このまま抱きかかえて帰ります」

 無理に起こすよりも抱き抱えてベッドに運ぶつもりなのだろう。武流が乃蒼に合わせるようにソファの高さに腰を下ろし、丸まって眠る小さな体を軽々と抱きあげた。
 熟睡していた乃蒼もさすがにこの振動で目を覚ましたのか、眠たげな声で「おじさま……」と呟く。
 だが完全には起きていないようで、武流が「ただいま」と優しく告げると寝言のように「おかえりなさい」と返して彼の肩にぽすんと頭を預けて眠ってしまった。
 小さな手が武流の服をぎゅっと掴んでいる。全幅の信頼を寄せて体を預けて眠っているのだ、その可愛らしさと言ったらない。

「武流さん、片手じゃ危ないですよ。鞄は私が持ちます。鍵も開けますから、乃蒼ちゃんをしっかり抱っこしていてあげてください」

 乃蒼を抱きかかえたまま荷物を手にしようとする武流を制して、彼の鞄を手に先導するように家を出た。
 そうして隣の家の鍵を開け、眠る乃蒼を抱きかかえたままの武流と別れの挨拶をする。
 眠っている乃蒼の額を撫でて「また明日ね」と小声で囁けば、武流が「明日……」と小さく呟いた。

「柴坂さん、もしよろしければ、明日うちで夕飯をご一緒しませんか?」
「明日ですか?」
「はい。うちで乃蒼を預かって頂いて、そのまま夕食を。俺も明日は早く帰れるし明後日は休みなんです。乃蒼も明後日は休みですし、少し遅くまで起きて居ても良いかなと思って」

 どうでしょう? と武流に誘われ凪咲は頷いて返した。
 この誘いを断るわけがない。きっと乃蒼も知れば喜んでくれるだろう。

「ありがとうございます。楽しみです」

 そう笑って答えれば、武流もまた嬉しそうに目を細めた。


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