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とある男の手記〜両手足のない少女との介護生活記録〜
EP01 少女記録
しおりを挟む3 11月8日
昨日のあの衝撃から実に十時間が経過した。
昨日は初回だからとあのあと本物の介護士が来て1日に行うルーティーンを叩き込まれた。
確かに言葉ほど簡単ではなさそうだと正常な考えをしている裏で、彼女の痛々しい姿を思い出しては被りを振っていた。
じいさんやばあさんの介護だと勘違いしてしまっていたこともあり、あんなに若い子だとも想像つかなかった。
ましてやあんな悲惨な状態の人間の介護を知識もない奴に任せていいのだろうかと昨日あった介護士に質問したが、免許を持ってなくても介護職についている人間もいると言われたきりそれ以上は答えてくれなかった。
にしてもあれだけのサインを最初に書かせてから仕事を教えるのってアリなのか、まあ躊躇いもなくサイン印鑑を使った私も大概間抜けなのだが、それでも疑問だ。
そして今日から私一人であのマンションに行き、一人で彼女の介護をしなければならない。昨日みたいに介護士がサポートしてくれるわけでもないし、なんだかんだであの男が部屋にいたことは私にとって安心できていたのだと男が消えてから気づかされた。だが今日からは私一人だ。
どうしようかと頭を抱えながら電車を降りた。ここを降りてしまえばあのマンションは目と鼻の先である、もう考える時間などないのだと悟るとため息をこぼす。
(当たって砕けろ精神でいこう……)
相変わらず家族連れと多分会社勤めの男性とすれ違った。毎日この人達とすれ違って挨拶することになるのだろう。私がこの時間から仕事を始めるようにこの人たちもこの時間が出勤だったり各々のルーティーンにつくのだ。
階段を上がって四〇三号室を目指す。昨日のは何か幻覚や白昼夢に騙されて見せられたもので本当は四○三号室など存在しない、もしくは別の人間がその部屋に住んでいるということは有り得ないだろうか。
(昨日はしっかりポケットに印鑑を入れた筆記用具ポーチを入れていた。夢ではない、私は昨日もここに来てあの現場を目撃して家に帰ったのだ)
幻想や白昼夢であっては金がもらえないということ、それはあの現場よりも悲惨な未来が見えてくるようで想像したくなかった。
当たり前に四〇三号につき、鍵をポケットから出す。この鍵はあの男と私しか持っていないらしくここで毎日働く私が預かるのは当然のことだった。
自分の家以外の鍵を使うのは久しぶりだと思いながら鍵を開けてドアノブを回して、あの廊下に続く闇に入っていった。
「ああ、起きていたんですね」
例の少女は何をするわけでもなく車椅子に座って真っ暗なテレビの画面を見ていた。こうして見ていると人形に見えなくもなく…………いやそれは体のせいではなくもっと雰囲気というか風格で感じるのだ。
私が話しかけると彼女は驚いたように振り返って、安堵の息を出す。
「まだ、八時です。ルーティンまでも時間はありますから寝ていても構わないんじゃ…………」
どう対応していいのかわからず、無難にそう言おうとするのを彼女は話を遮った。
「学校に通っていた時は六時には起きて七時三十分には登校していたんです。こんな時間に目が覚めること自体珍しいのですよ」
思っていた反応と違った。
そういえば私もよく早起きをしていた。“あいつ“が朝弱くて毎日起こしに行っていたことを思い出す。てっきりどの女性も同じ考えなのだと思っていたが的外れだったようだ。
「はあ、そうですか。それは失敬」
担いでいた肩掛けバックを地面に置いた。
すると彼女は私を睨みつける、そしてその風貌には見合わない大きな声でこう言ったいたのである。
「ちょっとっ!! そんな邪魔になるとこ置かないでよ。もしそのバックが車輪が引っかかってこの私が転けたらどうするのよっ!? あんたなんかお父さんに…………」
大きな声を出しすぎたせいか途中でむせる。私は正直怯んだ、高校生くらいの少女からこんな張った声が出るとは思わなかった。不意をつかれ驚いたということだ。
「いやぁ、私が押せば良いのでは?」
また睨まれる。
あまり人から睨まれるのは好きではない、だからそんな顔をすぐに見せる彼女は“好きになれなそうな奴“という印象しか持てない。
「車椅子ぐらい、自分で動かせるわ…………」
よく透き通る声でそういう。せっかくこんないい声をしているのに怒鳴ってばかりではもったいない。
そんなこんなで彼女は折れているであろう左腕と、グローブみたいに包帯でぐるぐる巻きにされた右手をなんとか車輪に置いて回そうとする。しかし包帯が摩擦でうまく回らないのと折れている腕に極力力を込めないようにしてほとんど力が加わっていないのも見ていてすぐわかる。
「ああ、そんな無茶しちゃいけませんって…………」
包帯が滑って彼女の体が前に勢いよく落ちようとする。だがギリギリで私は彼女の体を受け止める。
「ほら言わんこっちゃない。見なさい包帯もせっかく綺麗だったのに今ので傷が開きかけている、血が滲んできているではないか。それに私があなたがこうなると予測できずにあのまま落ちてしまっていたらどうしていたんです。見る限りその両腕もうほとんど動かないんでしょう?」
私の説教を聞かされて嫌気がさしたのか彼女は俯いてしまう。流石に女の子相手に、そしてほぼ初対面の人間に言われる筋合いもないか。
「離して……離してよ。もういい、なんであんたここにいるのよっ!?」
みっともない姿を見せた彼女はまぶたに涙を浮かべていた、もしかすると腕の傷が開いて痛いのを我慢しているだけかもしれない。とりあえずは彼女を車椅子に戻す。
「そんなこと言わずに、私も頼まれた側の人間でして……これが仕事なんです」
自分の両腕を見て驚く、手が小刻みに震えていた。それは彼女を受け止めた時に感じたものが怖かったからだ。彼女はとても生きている人間とは思えないほど体重が軽かった。両足がないだけでこんなにも変わるのかと恐怖した。
朝っぱらから嫌な始まりだったが、こうして欠損した両足とほぼ動かない両腕を持つ彼女との介護の一日目が始まった。
†
さっきの出来事で彼女の気に触ってしまったのか、喋らなくなってしまった。今度はしっかり電源の入って映像を映し出すテレビを呆然と眺めている。
相変わらず何を考えているのか読み取れない表情をする人だと思う。睨んだり怒ったり悔しがったり、彼女の第一印象はうまく掴めずにいた。もっと笑っている顔を見れれば変わるものを…………。
(しかしあそこまで体をボロボロにした人間が素直に笑うとは思えんな)
そういえば彼女がなぜあそこまで人間としての部分をなくしてしまったのか私は知らずにいる。これから介護をする人間の事情を何も知らないというのはそれはそれで問題がありそうだ。
そう思い腕時計を見てみる、もうそろそろルーティンの一項目目が始まる。
彼女に近づく、声をかけようとするが振り向いてまた睨まれた。
「なに…………? 私に何か用?」
相変わらず可愛くない反応をする。にしてもそう睨まないでほしい、右目に眼帯を付けているがその白い布から収まりきれないほどの青くなった痣が見える。睨まれるたびにその眼帯から見え隠れする痣を見てしまう、彼女がどんな目にあったのかがその痣から想像できてしまいそうで胸が苦しくなる。
「用も何も仕事として今からあなたのその包帯を交換しなければならないんですけど……」
言い終える前にまた被せてくる。
「いやよっ!! なんで見ず知らずのやつにそんなことされなきゃいけなっ…………」
「それで言ったら私だってあなたとは初対面ですよ。今と同じ言葉返してやりましょうか?」
私ばかり話を遮られるのはなんだか癪だった。やり返してやろうと思いつい言ってしまった。彼女はまた不服そうな顔をして黙り込んだ、勝手にしろと言っているのか。
「では失礼します………」
そうして彼女の包帯交換が始まった。
私は昨日介護士の人に要点をメモしてもらった用紙を見ながら挙動不審に彼女の前に佇む。彼女は相変わらず俯いたままだった。このまま私がこの子に触れてしまえば側から見れば犯罪に見えなくもないため何か質問をせねばならない、話ながらだと私の緊張もほぐれるだろう。
「そういえば聞いてなかったけど、きみ名前は?」
俯いた顔が私を見上げる。また嫌そうな顔をする。
「私の名前は、佐野雄二だよ。なんの変哲もない平凡な名前さ」
まずは自分から自己紹介を済ます、そして相手の出方を伺った。
「私は、うらら…………橘麗(タチバナ ウララ)よ」
意外にも彼女は素直に教えてくれた。今までの対応なら文句の一つは言われると思ったのだが…………。
「そうか、いい名前だな。麗か、うん綺麗だ……」
そしてまた睨む。一瞬だが心が開いてくれた気がしたが、勘違いだったみたいだ。
「嘘、下手にそんなこと言わなくていいから……さっさと初めてよ」
可愛げのない人だ、心底そう思った。
「はいはい、言われなくともやりますって…………」
再度用紙をじっくりと読み、彼女の顔近くまで手を持って行く。まずは眼帯の交換だ。
「外しますよ……麗さん。痛かったり不愉快だったら言ってくださいねぇ」
「もうすでに不愉快よ………」
彼女の言葉は無視した、いちいち反応してたら身がもたない。
そっと後頭部まで手を忍び込ませ、紐を外す。
そして彼女の顔を眺めた。まぶたを閉じて内側の怪我具合は目視では見えなかった。しかし外側は一目瞭然で右目全体は青くなった痣で埋め尽くされていた。殴られでもしなければこうも酷くはならないだろう、ちょうど私の拳のサイズと合いそうだった。つまりは男に殴られてできた痣ということか。
「これは……」
思わず言葉を漏らす。
彼女はあまりにジロジロとみる私が不愉快に思ったのか顔を伏せて涙を溜めながら薄ら笑いを浮かべる。
「もう私は一生この右目でみることができないの……この中には空洞が広がっているだけ……」
その言葉を聞き私は絶句した。
てっきり痣で腫れてまぶたを閉じているのかと勘違いしてた。まさかもうこの右のまぶたの奥には私の知る人間の眼球は詰まってはいないということなのか。
「なんで……そんな」
私はそっと右のまぶたに触れる、麗も嫌がらずに許してくれた。痣になっているから力は入れすぎないように気をつけた。
「本当だ………ない」
まぶたは確かに眼球が入っている感触ではなかった。空洞で触ってもへこむだけだ。
麗は少し怪訝そうな表情を浮かべた。
「あなた…………泣いてるの?」
麗に言われて初めて気づいた。
私は涙を流していた。彼女のことを憂うように左から一筋の涙がスッと流れ地面の絨毯に落ちシミを作る。さっきから自分の右目が痛い、右目から脳を突かれている吐き気を催す気持ち。
「私の悪い癖なんだ。相手が嫌だとか痛いとかそう思ったのを我慢しているのがわかるんだ。我慢してるから代わりに私がその気持ちを汲んでしまう癖で…………度々こうやって泣いてしまうこともある……………すまない、きみの本当の痛みも知らずに勝手に共感してしまって………」
左目から流れる涙は、今彼女が涙を流したくても流せない右目のことを悲しむ意味もこもっている。必死に溢れる涙を手の甲で拭き取る。気持ち悪いと思われてしまう。
「あなた……変わった人ね」
麗が下した評価は“変わった人“というものだった。気持ち悪いと言われなかっただけまだマシかと笑って誤魔化してみせる。
「ささ、まだ始まったばかりです」
新しい眼帯をつけるとさっきの右目は消えてしまった。私の胸の奥でいつまでもあの閉じてしまって涙も流せない右目のことを覚えていかなくてはいけない。それも私の仕事なのだと決意する。
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