エンゲージ~Barter.2~

志賀雅基

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第53話

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 三連休の初日。

 京哉は朝五時半に叩き起こされて着替えさせられ、寝惚け眼に寝ぐせ頭のまま衣服と煙草の入ったショルダーバッグを持たされ、すっかり左腕も治った霧島に担がれ運ばれて白いセダンに乗せられた。霧島が運転して向かったのは貝崎市方面だった。

 茫洋と霧島を眺めると急な呼び出しに対応するため休日でも殆どドレスシャツにスラックス姿の男が今日は珍しく洗い晒したダンガリーのシャツにコットンパンツで、生成の麻ジャケットを身に着けている。淡くブレナムブーケの匂いも漂わせていた。
 ちなみに京哉も綿シャツとジーンズに紺色のパーカを着せられている。

 海岸通りに出ると初夏の海が眩くて京哉もやっと目が覚めた。煙草を二本吸い思考力も取り戻したところで霧島がコンビニの駐車場にセダンを駐める。

 だがてっきり朝食を調達するだけと思っていたのに霧島は食料や飲料に調味料まで次々とカゴに放り込み始めて京哉を戸惑わせ、山積みの買い物をレジに持ち込んでバイトの兄ちゃんを仰け反らせた。
 大きな袋ふたつを提げて車に戻ると再び海岸通りを走り始める。更に霧島カンパニーの保養所も通り過ぎ数分で左折した。

 そこはマリーナだった。護岸まで進入し突端近くでセダンを駐めて二人は降りた。

「忍さん、そろそろ種明かししてくれてもいいでしょう?」
「前に言ったプレゼントだ。今日から三日間お前は私とクルーザーで過ごす」
「えっ、海の上で二人きりですか?」
「そうなるな。ただ……お前がクルーザーを嫌がるなら別コースにするが」
「嫌じゃないです! 忍さんと一緒なら無人島でも月面でも嬉しいですよ!」

 本当に嬉しくて霧島に抱きつきたいくらいだったが、見事な好天でヨットハーバー利用者が他にも少なからずいたので今は我慢する。代わりに率先して荷物を出した。

「ラミア号も直ってるみたいですけど、どっちの船に乗るんですか?」
「男の子はやはり大きな方に乗るべきだろう。エキドナ号を出す予定だ」
「じゃあ早く食料品を載せないと暑さで傷んじゃいますよ」

 二人で荷物をエキドナ号のキャビンに運び食料を小さな厨房の冷蔵庫に収めプラグを繋いでしまうとセダンをヨットハウスの駐車場に駐め、エキドナ号まで駆け戻ってもやいを解く。アンカーをオートでガラガラ巻き上げるといよいよ出航だ。

 操舵室で見事な操舵を披露する霧島に訊くと一級小型船舶操縦士の資格を持っているという。何でもできるのを京哉が羨ましがると「空は飛べん」らしかった。

「何処まで行くんですか?」
「取り敢えず事件の呼び出しが掛からない所までだ」

 マリーナを出て堤防が見えなくなると京哉はもう我慢できずに霧島の背に抱きついた。海は凪いでいたので霧島はオートパイロットをセットし、振り向いて京哉を抱き締める。
 キスを交わした二人だったが朝食も抜きだったので同時に腹の虫が自己主張し顔を見合わせて笑った。

「飯でも食うか。そのあとで約束を果たしてやる」
「約束って何ですか?」
「忘れたのか? 獲物を釣って見せろと夫に要求したのはお前だぞ」
「あっ、そうでした。僕にも釣り方を教えて下さい。先にご飯の準備してきます」

 近海は船舶が多く衝突の危険があるので霧島は操舵室に居残りだ。

 キャビンを経由して京哉が駆け込んだ厨房は非常に狭かったが小綺麗で使いやすかった。最近は主夫業も霧島と同じくらいスマートにこなせるようになっている。購入した食料があるので今はインスタントコーヒーを淹れるだけだが。

 水道水も舐めてみて塩辛くなく新鮮なのを確認してから小鍋で湯を沸かした。銀のトレイに各種サンドウィッチとコーヒーカップふたつを載せて操舵室に戻る。

「お待たせしました、ご飯ですよ」

 操舵しながらでも食事を取れるよう小さなテーブルとチェアを操舵席に寄せ、トレイを置いて自分はチェアに腰掛けた。
 食事を始めたはいいが霧島の左腕が使えなかった時の癖で食べたい物をいちいち聞いてはセロファンを剥がす京哉を霧島は笑う。

「そう世話を焼かずとも、もう自分で食える」
「分かってますけど、勝手に手が動いちゃうんですよ」
「心配しなくてもお前の立ち位置は確立されているぞ?」
「それも分かってます。でもこれも結構愉しくて」
「だが愉しいところに水を差して悪いが、どうやらあとをつけられている」

 口調も変えず告げられて京哉はそれを脳ミソに染み込ませるのに時間が掛かった。

「あとを……海の上なのに尾行されてるんですか?」
「まあ、そういうことだな」
「何を暢気に……新・暗殺肯定派の最後の悪足掻きだったらどうするんですか!」
「私もお前も本部長特令で銃は持っている。そう心配は要らん」
「どうしてそんなに落ち着いていられるのか、謎なんですけど」
「仕掛けてきたら返り討ちにするまでだ。一人か二人れば逆に脅しになるだろう」

 淡々と言ってのけた霧島の顔を京哉は凝視する。まるで常態の男に静かに訊いた。

「忍さん。貴方が人を殺すんですか?」
「殺したいくらいだが積極的に殺しはせん。これでもサツカンだからな」
「殺したい相手はいるんですね?」
「当然だ。私はこれでも本気で怒っている。今更蒸し返して悪いがお前をあんな目に遭わせた奴ら全てを撃ち殺したい。分かっている。これは義憤でなく私怨だ」

 霧島の本気は京哉にも伝わる。光の加減で薄い灰色になった切れ長の目が煌めき、形のいい唇の端が吊り上がって思わず見入ってしまうほどにその笑みは凄絶だった。
 だが京哉はその右頬を無造作に摘んで引っ張る。

「はにふふんだ、京哉!」
「僕の知っている忍さんはそんな笑い方しません。いつもの忍さんに戻って下さい」
「戻るも何も私はいつもと変わらん」
「機動捜査隊長の霧島警視はいつも誰かに殺意を抱いているんですか? 正直、僕も貴方がそこまで怒ってくれて嬉しい。でも自らが信じる警察官としての存在意義を懸けて機捜のみんなと僕を助けてくれた、あの時の貴方に殺意はなかったでしょう?」
「誰しも心に黒い部分くらいあるだろうが」

 今度は京哉に対して腹を立てたらしい。溜息をついて京哉は言葉を重ねた。

「貴方が僕を助けた件は貴方の計画の一部に過ぎなかった。懲戒を食らうという大きなハンデは背負いましたが、それすらも貴方自身の計画のうちでしたね、巨大な敵を油断させるために」
「……分かっていたか」
「貴方自身がヒントをくれたじゃないですか。とにかくあれだけの大ごとを最初から最後まで全て事前に計算し全幕思い通りに動かしたのは貴方でした。そんな驚異的な頭脳と実行力を持ち合わせた人間がその気になればれちゃうんですよ、誰にも知られず何人でも。おまけに加減を知らない。それが僕は怖いんです」

 単に説得するための詭弁ではなく、京哉は何のフィルタも通さずに霧島を見て冷静に判断した結果を語っているのだ。真摯なそれは霧島本人にも伝わる。

「そうか……なるほど」
「だから防衛本能以外、特定の相手に対する殺意なんか捨てちゃって下さい。そうじゃないと僕も機捜の皆も貴方を信じるより監視しなきゃならない。そもそもご自分が警察キャリアになった理由を忘れていなければ殺意なんてものは不要、むしろ邪魔でしかないとお分かりになる筈です!」
「すまん。悪かった、目が覚めた」

 語気も激しく言い切った京哉に霧島は頭を下げた。誰より復讐心に燃えてもおかしくない被害者の京哉に逆に諭されて、改めて四歳下の小柄な男を手放すまいと思う。冷静にこの自分が通るべき道を見極め、踏み誤る前に軌道修正してくれる鳴海京哉という男を。

「やはりお前は私の選んだパートナーだな。自慢の妻だ」
「今更何を……それより本当に仕掛けてくるまで放置ですか?」
「ああ。こちらの航路をずっとトレースしているらしいが、たっぷり一海里は離れているからな。仕掛けるそぶりを見せれば分かるだろう。大して心配は要らん」
「じゃあ、食べたら予定通りに魚釣りですね」
「約束を守ってやる、大物を期待していろ」
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