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第50話

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 気付くとミルク色の霧が薄らいでいた。まだ一枚の紗を通しているように視界はぼんやりしていたが、誰かが至近距離から自分を覗き込んでいるのは分かった。

「おう、本当に気が付きおったわい」

 その声で覗き込んでいるのが父親の御前だと知り、霧島は非常に腹を立てる。目覚めて最初に目にするのは京哉に決まっているではないか、どうしていきなりこいつの顔を拝まなければならないのかと思ったのだ。だがそこで鳥肌の立つような恐怖に襲われる。

「京哉……京哉はどうした、生きているのか?」

「ぴんぴんしておるわい。飛び込んだ時に誰かが抱き込んで護ったお蔭で鳴海は僅かに泳いだだけで、すぐに自力で岩場に這い上がったらしいからの。じゃがあれから今日で三日目、ずっと眠ろうとせんから医師と図って一服盛ったんじゃ」

「そうか、生きているならいい」
「もうそろそろ起きてくる。それにしてもおぬしは頭を打って二時間も漂流しておったんじゃぞ。じゃが元々高熱だったのが幸いして凍え死なずに済んだ。運のいい奴よのう」

 それでも海保だけでなくマリーナと漁港の船までが総動員され、ようやく漁船に発見されて引き上げられたのはいいが、病院に運ばれた時は極度の低体温症で、そのあとも危険な状態が続き、皆が覚悟したのだという。

 話を聞かされながら霧島は辺りを見回し、紗幕一枚を隔ててここが保養所の自分の部屋だと見取った。弾痕だらけで壊れた京哉の部屋はまだ修繕が終わっていないのだろう。
 左腕にはまた点滴の管が繋がれていた。だが暢気に寝ていていいのだろうかと思う。しかし灰色の目の動きで考えを読んだか、御前が笑いながら告げた。

「ここの周囲は社で雇ったガードに囲ませておる、取り敢えず心配は要らん」
「ふん。霧島カンパニーとしても本気になった、そう捉えていいんだな?」

 笑って頷きつつ御前が和服の袂から携帯を取り出す。

「今、医師を呼ぶからの。欲しいものはあるか?」
「水と情報だ。あのヒットマン三人はどうした?」
「残念ながら。わしが通報したが、警察が駆けつける前に撤退したわい」

 メールを打ちながら御前は言い、ナイトテーブル上の水差しからグラスに水を注いだ。まだ痛む頭を宥めつつ霧島は上体を起こして渡された水を飲む。立て続けに二杯飲み干して喉が潤った。グラスを返すとまた御前が笑う。

「たっぷり海水を飲んだあとでも喉は渇くのじゃな」
「そうだな、新発見だ」

 そこで廊下のインターフォンが物音を拾った。チャイムも鳴らさずに荒々しくドアが開けられる。飛び込んできたのはスーツ姿の京哉だった。所轄の貝崎署や県警にも出たのだろう。だが一服盛られて寝ていたからかスーツはしわくちゃだった。

 そんな恰好でベッドに駆け寄ってくると霧島に縋りついて大声を上げ泣き始めた。

「すまん、京哉。心配かけた」

 だが幾ら長めの髪を撫でてやり、宥めるように声を掛けても京哉は泣き止まない。数ヶ月間を共に過ごしてきたが、ここまで身も世もなく泣きじゃくる京哉は珍しく、驚きながらも愛しくて堪らなくなり、右腕で抱き締めると自分の胸に押しつける。

 そんな二人を見て御前は和服の裾を捌き、静かに部屋から出て行った。
 静謐ともいえる部屋で京哉のしゃくりあげる声が霧島の身を通して響く。

「しっ、忍さんが、し、死んじゃうって……僕を、忍さんが置いて逝くなんて――」
「少し落ち着け。私は生きてここにいる、分かるな?」

 身を震わせながら京哉は霧島の胸で頷いた。寝巻きの合わせが少しはだけた隙間に京哉の髪が入り込み、さらりとした感触が霧島の肌を撫でる。それで思い出し京哉に訊いた。

「おい、京哉。お前が私に乗っかったのはいつだったんだ?」
「き、昨日の夜……貴方がもう起きないかもって聞いて、が、我慢できなくて。すみません。みんなに、言って……二人だけにしてって、頼んで……ごめんなさい」

「いや、謝らなくてもいいんだが……」
「そ、そのあと、ここに移送できるくらい回復して……で、でも、病院で、忍さんが危篤状態だからって、みんなが集まってて……だから、たぶんみんな、知ってる」

 皆が承知した上の行為だったと知ったが霧島は動じなかった。京哉こそ恥ずかしかっただろうに、あれで生き返った気がしたのだ、京哉が生気を分けてくれたのだろうと思う。

「もういい。それよりお前、躰は大丈夫なのか?」
「は、はい……もう、平気。忍さんは何処か痛い、ですか?」
「少し頭痛がするくらいか」
「じゃあ、寝てて、下さい。あ、チャイムだ。お医者さんかも」

 ドアを開けると医師に看護師、今枝と食事の載ったワゴンを押したメイドまでがぞろぞろと入室してきた。霧島の興味はいい匂いの湯気が立ち上るワゴンに向けられていたが、まずは医師の診察である。医師はライトで霧島の目を照らしたり、聴診器で胸や腹の音を聞いたりしたのち、問診を行って頭痛と視界の悪さは時間が経てば治ることを告げた。

 検査用の採血をしてから点滴も抜いて貰うと食事の許可が下りる。

「忍さま、誠に、誠にようございました」

 涙ぐみながら今枝はワゴンを引き寄せ、ベッド脇に椅子を一脚用意してくれた。それだけで皆は去り、霧島と京哉の二人きりにしてくれる。ワゴン上の行平の蓋を京哉が開けると、二人分のうどんが肉や野菜、玉子などと共にくつくつと煮立っていた。

「食べられそうですか、忍さん?」
「ああ、胃袋がその鍋に飛び込みそうだ」

 早速京哉はうどんを小鉢に取り分けて冷ましながら、霧島に食べさせてやる。霧島はしっかりと出汁の利いた旨いうどんを素直に「あーん」された。しみじみ味わいながら食べてしまったが、京哉はワゴンを廊下に出しただけで煙草も吸わず、霧島の傍を離れようとしない。固まったように椅子に座ったままだ。

「そんなに見張っていなくても、私は消えたりせん」
「いいんです。貴方は眠っていいですから、今はこうしていさせて下さい」
「そうか。ところで襲撃では他に誰も怪我はしなかったのか?」

「ええ、幸い。貴方がマンションに帰りたがった理由が分かりました。すみません」
「巻き添えが出なかったならいい。親父も本気になったようだ、今日はお前も寝ろ」

 頷いて京哉はパジャマに着替え霧島の隣に潜り込む。互いに腕枕と抱き枕になると二人は肌の温かさを沁みるほど嬉しく感じた。今度こそは互いに離すまいと思いながら目を瞑る。
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