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第2話

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「泥棒だ! 誰かそいつを捕まえて、鞄を取り戻してくれ!」

 唐突に大声が湧いて京哉きょうやは振り返った。霧島きりしまも足を止めて背後に目をやる。叫んだのは出勤途中のサラリーマンらしきスーツの男、その十数メートル先をジャンパーの若い男がアタッシュケースを抱えて猛然と走っていた。二人共、京哉たちの方に向かってくる。

 ごく落ち着いた素振りで霧島は小柄な上に武道も苦手な京哉を下がらせ、ジャンパー男の前に立ち塞がった。そのままジャンパー男は自ら霧島にぶつかってくる。霧島の身長は百九十近くあるがオーダーメイドスーツに包んだ身体は着痩せして見えた。お蔭で目算を誤り、跳ね飛ばして逃げ遂せようとしたのだろう。

 突っ込んできた男に対し霧島は寸前まで自然体でただ立っていた。次には長身を屈めて男の懐に飛び込む。同時に片袖と胸ぐらを掴んだ霧島は相手の勢いも利用して身を返すと腰に体重を載せて背負い投げ、アスファルトの地面に叩きつけた。
 鮮やかな一本背負いを食らい、ジャンパー男は背中を強打して気を失ったようだ。

「わあ、しのぶさんってば、格好いい~っ!」
「称賛は有難いが所轄に連絡はしたのか?」
「はい。真城ましろ署の盗犯係にコール済みです」
「そうか。だが遅刻は免れんな」

 ようやく追いついてきたサラリーマンに頭を下げられたが、ひったくりのマル害として真城署に出頭を願うと一転してリーマンは酷く面倒臭そうな顔をする。民間の方が遅刻に厳しいのだろうが、不満をぶつけられても仕方ない。
 だが霧島も京哉も警察官である以上、こんな対応をされるのにも慣れていた。涼しい顔で真城署刑事課員の現着を待ちつつリーマンの前で、

「まあ、盗まれた物が全て揃っていたらいいですね」
「ああ、署まで行かずとも盗犯係の裁量によっては後日任意でもいけるからな」

 等々、民間会社の勤め人にわざと聞かせ、遅刻を最短で済ませる裏技伝授である。

 ジャンパー男が道路で伸びているため事件は明らか、何事かと出勤や通学途中の通行人が足を止めて幾人かは携帯で画像まで撮ろうと奮闘していた。野次馬は輪を形成し、その真ん中に関係者四名は囲まれている状態だ。
 そうして大勢から眺められること約十分、イヴェント感の溢れる空気を緊急音で震わせてパトカーが一台やってきた。降りてきた二名の私服は霧島を見て身を折る敬礼をする。

「これは霧島警視殿、おはようございますっ!」
「早朝から機動捜査隊長殿のお手を煩わせ、申し訳ありませんっ!」

 一般人の前でツバが飛ぶような大声を出されキッチリ頭を下げられて、霧島と京哉は溜息をついた。これでは伸びたひったくり犯以上の晒し者である。できるだけ早くお引き取り願うため簡単に状況説明すると所轄の私服が男を揺さぶり起こした。そこで京哉は気付く。ひったくり犯はジャンパーの下に学生服を着込んでいたのだ。霧島に囁く。

「あ、このボタンって真城市立第二中学の制服ですよ」
「中学生がひったくりとは穏やかではないな」

 だがそれ以上は所轄の仕事で首を突っ込めない。この業界で管轄破りは御法度なのだ。目覚めて連行されるマル被とサラリーマンの背を見送る。イヴェント終了を見届けて満足した野次馬もパラパラと去り、霧島と京哉は愛車を駐めた月極駐車場まで歩いた。

 白いセダンの前でコートを脱ぐと京哉は片手を差し出した。運転手を賭けたジャンケンが毎日恒例になっているのだ。けれど霧島は微笑んで首を横に振り、運転席側に立つ。

「私がする。明け方までお前を攻め抜いてしまったからな、まだつらい筈だぞ?」
「あ、はあ。じゃあ、お願いします」

 見破られ頬を赤くしたのを隠そうと下がってもいないメタルフレームの伊達眼鏡を押し上げるふりをする京哉が愛しくて、霧島は灰色の目を僅か眇めてから運転席に収まった。昨夜の帰りは京哉の運転だったため霧島はシートの位置を調節してからエンジンを掛けた。ローンで購入した二年落ちの中古だが素直な走りで気に入っている。

 この車の前にも同じく白いセダンに乗っていて、これで三台目だ。先代も先々代も素直だったが、走っている最中に前後からダンプに挟まれ、激突されて潰された。

 助手席に座った京哉はエアコンを入れる。徐々に春めいてきているが、まだコートなしではいられない。出発して暫くは住宅街で、他人の庭の梅がほころんでいるのを眺める。

 ここは真城市、二人の勤務先の県警本部は隣の白藤しらふじ市にあった。

 白藤市は首都圏下でも特筆すべき大都市で、そのベッドタウンである真城市の住宅街を走り抜け、霧島はセダンをバイパスに乗せる。まだクローズしている郊外一軒型の店舗を目で追うのに飽きた京哉は霧島の方を向いた。ステアリングを握る指が長くエロティックで、数時間前まで二人して耽っていた快感を華奢な身に蘇らせる。

 酷使した腰は重たいが満たされた想いを噛み締めた。見つめた霧島の左薬指に京哉と同じプラチナのペアリングが光っていて、笑みが洩れるのを止められない。

「京哉、あまり私を見るな。穴が開くぞ」
「幾ら僕がスナイパーでも、そこまでの技は持っていませんよ」

 笑ったまま返した鳴海なるみ京哉は二十四歳、県警の機動捜査隊・通称機捜で隊長及び副隊長の秘書を務める巡査部長だ。故に所属は刑事部だが非常勤ながら警備部機動隊に属するスペシャル・アサルト・チーム、SATサットの狙撃班員でもあった。

 SAT狙撃班員になったのは県警トップの本部長に呼び出され、直々に指名されたからだ。本部長は京哉が元々スナイパーだったことや、小柄な身に似合わず狙撃に関し天才的な腕を持つ事実まで知っていて指名した。幾ら警察官でも職務以外での狙撃など合法である訳がない。警察庁でもトップテンにランクインしているだろう機密事項である。

 女手ひとつで育ててくれた母を高二の冬に犯罪被害者として亡くした京哉は、天涯孤独の身になり大学進学を諦めて警察学校を受験した。その入校中に抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、課程修了し配属寸前になって警察庁の幹部から呼び出され脅されたのだ。

 顔も知らない亡き実の父が生前強盗殺人の重罪を犯していたとは真っ赤な嘘だったが京哉は嵌められた。母の事件の捜査で知った刑事たちに憧れていた京哉は警察官を辞めるより言われるがままに『悪だ』とされた人々の粛正に加担する方を選んだ。

 そうして政府与党の重鎮や警察庁サッチョウ上層部の一部に巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した、当時は『暗殺肯定派』と闇で呼ばれた者たちに陥れられて警察官をする傍ら五年間も政敵や産業スパイの暗殺をさせられていたのだ。

 だが霧島と出会って『憧れていた警察官』の姿を見た京哉は心を決め、『知りすぎた男』として消されるのも覚悟の上でスナイパー引退宣言をした。しかしやはり暗殺されそうになって間一髪、霧島が部下を率いて飛び込んできてくれて九死に一生を得たのである。

 京哉救出は殺人未遂事件として明るみに出た。それをきっかけに暗殺肯定派も瓦解し、世界中に支社を持つ霧島カンパニーはメディアに叩かれ、株価が暴落して窮地に陥った。暗殺肯定派に名を連ねた議員やサッチョウ幹部は、のちに警視庁が電撃検挙した。

 しかし現役警察官が数十名も暗殺してきたスナイパーなる事実だけは拙すぎた。
 故に警察の総力を以て隠蔽されたため今こうしていられるのだ。けれど京哉は自分が撃ち砕いてきた人々を忘れない。忘れられなかった。自分でも知らずに抱えたPTSDは霧島に指摘されるまで気付かなかったが、今なら気付かなかったのではなく目を逸らし、一発として外したことのないスナイパーとしてのプライドで覆い隠していたのだと分かる。

 そんなものは本物のプライドではないと霧島が分からせてくれたのだ。
 偽物のプライドの殻を破られた生身の京哉は、自らが撃った人々の墓標を心の中に立てていた。墓標は京哉の心の一部を壊してしまうほど無数に立ち並んでいた。霧島が観察し分析するに、明らかに京哉の心が壊れていると感じる時があるらしい。

 例えば稀にだが場違いなほど非情な言動を無意識に取ってしまう。それに自分の意志ではなく命令での狙撃で殺人に至った際には高熱を出すのだ。注射も薬も効かず、時間が経たなければ治まらない症状は霧島の予想通りなら、やはり心の傷が原因だという。

 けれど壊れた心も『傷』程度にはなった。所轄署にいた京哉を異動させてまで自分の傍に置き、四六時中見守れる所にいてずっと癒してくれた霧島のお蔭である。
 相棒バディであり、一生、どんなものでも一緒に見てゆくと誓ったパートナーとなってから、もう一年がすぐそこまで近づいていた。あっという間だったが濃い一年だった。

 何せ乗っている車を前後からダンプで潰されるような生活をしている。
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