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第32話

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 けれど危ういところで銃二丁が火を噴くことは免れた。睨み合った薫と恭介の腹が同時に『空っぽ』を切なく訴えたのである。

 一応は旧いヤクザのしきたりで一時期を生きた薫としては、タマのやり取りをするときは空腹の上にキッチリ純白のサラシを巻いて行かねば、腹を刺されたり撃たれたりした場合にハラワタが飛び出しエグいことになると教わっていた。みっともない姿を晒したくなければ空腹が基本。

 だが腹の虫が訴えたことでリアルに舞い戻ったかの如く、二人は唐突にアホ臭くなってさっさと着替え始める。飢えてまで二人でり合ったって何の得にもならない。

「外に食べに出るの?」
「目立ちたくない。ルームサーヴィスでいいだろう」
「えー、ここって最上階に美味しそうな店がいっぱいあったよ。エレベーターの中にも、そこのパンフレットにも書いてあったし。僕、中華が食べたい気分だなあ」

「そうか。お前の最期の晩餐は中華か。ニンニク臭いまま死ね」
「あっ、恭介ってニンニクはだめだっけ?」
「だめじゃない。大体、スナック菓子にもニンニクくらい入っているぞ?」

「なあんだ、そっか」
「心配したんじゃなく弱点探しとはな」

 何れにせよ他人の懐具合を知ってアテにする薫は、高級レストランでの夜食にありつけるものと信じて疑わない目をしていた。仕方なく恭介は薫にグロックを持たせ自分はベレッタをベルトの背に差して、カードキィを手に部屋を出た。

 薫の言う通りにエレベーターで上がった最上階には敷居の高そうなレストランがずらりと並び、この深夜でも宿泊客たちに食事やアルコールを提供していた。腹の減った恭介としては早く飯を出してくれそうな店なら何処でも良かったが、薫は目を輝かせて「あっちだ」「こっちだ」と連れ回してくれる。
 結局は迷いに迷ったクセに「初志貫徹」などと言い中華のナントカ楼に入店した。

「うーわっ、メニューにラーメンとか絶対なさそう」

 薫の呟きは意外に店内に響いて案内してくれるチャイナドレスの女性の肩が僅かに揺れる。これ以上ナニか余計なことを言ったら他人のふりをしてやろうと恭介は思ったが、二言目を薫が放つ前にテーブルについて着席した。テーブルは中華の店ではスタンダードな二段で上が回転するヤツである。それを見て恭介は薫を睨んだ。

 余計なことを言うなという意味だが、恭介自身も何故にここまで薫のコメントを警戒せねばならないのか疑問に思い始めている。当の薫は天真爛漫な風を装って上段のテーブルをグルグル回そうとし、恭介は素知らぬ顔をしつつもテーブルをグッと押さえていた。部屋でのやり取りを未だ忘れていないネチこい二人だった。

 時間が時間なので出来るメニューが少なく、お蔭で却ってすんなりと恭介が二人分のオーダーを済ませる。薫に本格中華のメニュー表など見せて口に出して誤読した挙げ句に自分でウケて馬鹿笑いされては堪らない。

 そんなことまで警戒する恭介はいよいよ薫に振り回されているのを自覚して機嫌を斜めにした。勝手に想像し勝手に腹を立てているのだから世話はないが、大体こんなホテルに逃げ込まなければならなくなったのは薫の考えなし行動のせいである。

 この自分に罪を着せないよう薫が自ら今里をろうとした……そんなことには思い至らないほど恭介の、相棒であり世界一大切だった者を殺された恨みは深いのだ。銃など使わず本当に我が手でくびり殺したいほどに。

 その反面、「あいつだったら、どうしただろうか」とも考えてしまい、当局に情報を洩らしてしまっている。
 思いに耽っていると空腹も紛れてしまった気がしたが、そこに前菜の中華サラダの盛り合わせが来て薫が箸を取る。取り皿に分ける片端から単純に旨そうに食ってゆくものだから恭介も釣り込まれて箸を手にした。薫が取り皿に取り分けてくれる。

「気が利くな」
「だって美味しいんだもん。恭介も食べなよ、旨いって」
「分かったから零すな。それと少し静かに食え」

 念を押してから口に運ぶと急に食欲が復活した。次々と運ばれてくる春巻きや肉団子にあんかけ堅焼きそばなどを薫と競争の如く食う。
 そもそも薫が居着いてからこちら、昼間に起きていることが多くなっている。普段は仕事で仕方ない場合を除いて夜型の生活をしていたのだ。怠惰なのもあるが主な理由は『そういう体質』だからである。

 無理をすれば疲れやすくなり、補うためには食うしかない。手っ取り早く血を吸うという方法もあるが、薫の血を二回吸っても解消できるほど蓄積した疲労は軽いものではなかった。解消するくらい血を吸えば薫が生きちゃいないだろう。

 ということで食いまくった。負けじと薫も食う。その細い躰の何処に収まるのかと不思議に思えるほどの大食いだ。オーダーした時点では空腹だったので大量に頼んでおいて正解だった。やがてチャーハンの半分をさらえて恭介は紹興酒を追加オーダーする。胃袋に収めた固形物の隙間を液体で埋める作戦である。薫はウーロン茶だ。

 そうしてデザートの杏仁豆腐をつるりと喉に流し込んだ二人は満腹になり、満足の溜息をついた。こうなるとお互いにカリカリすることもなく平常運転である。

「でもこれって、すんごい値段じゃないの?」
「チェックアウト時にまとめてカード払いだ。まともに数字を読みさえしなけりゃ、そう頭に来ることもない」
「八桁だか九桁だかの遺産生活者だもんね」
「羨ましいなら交替するか?」

「ううん、止めとく。あんたのお祖父さんは『使い切ってから死ね』って遺言したんだろ。だからちゃんと恭介が使わなきゃダメだよ。本当はこんなホテル代なんかで無駄遣いもさせたくないんだけど、原因作った僕が言うことじゃないよね」
「ふん。お前がしおらしいと調子が狂う。部屋に戻るぞ」

 大量に食うだけ食ってツケで出るのは暴力団のチンピラながら酒に弱い薫にとって慣れた行為ではなかった。妙な気分でナントカ楼を出ていつもの恭介の左側をキープする。エレベーターまで歩いて開いていた箱に乗り、こんな時間にもいたホテルマンにボタンを押して貰って降りた。だが恭介が指示したのは部屋のある十二階ではなく十四階だった。首を傾げつつも薫は『口は災いの元』と言われた通り黙っている。

 降りて背後のエレベーターが閉まると恭介は階段のある廊下の端の方に歩き始めたが、僅かに左腕を払って薫の手を離させた。恭介の考えは読めない薫だが、恭介のまとう雰囲気がいつの間にか硬質で鋭いものに変化したのは感じ取っている。
 ほんの僅かに恭介が背後を気にしたので薫も振り返ろうとして制止された。

「見るな。そのまま階段まで歩いたら走れ。下だ。振り切れたと確認したら部屋で待機していろ。今度ばかりは言うことを聞け」

 スーツのポケットにカードキィを押し込まれては、薫も敵が現れたと認識する他ない。二丁の銃で対抗するより自分一人の方が動きやすいと恭介は判断したのだろう。あんな馬鹿さえしなければ信用して貰えて恭介独りに何人いるかも分からない敵の相手をさせることもなかったのに……と、薫は唇を噛むが今更だ。

「合図する……三、二、一、走れ!」

 殆ど同時に通路の途中にあった柱の影からマズルフラッシュが迸った。撃発音が広い廊下に反響するも敵は構うことなく連射してくる。恭介はベルトの背のベレッタを抜いた。出来るだけ『組の抗争』で済ませたい思いが強く、弾数も限られているのでバラ撒きたくはない。自分も柱に身を寄せつつ薫が階段に消えたのを確認。

 その瞬間、柱から僅かに出た左腕を熱いものが擦過した。反射的に硬直させた腕に再び銃弾を浴びる。焼け火箸を突っ込まれたかの如き灼熱感。まともに食らったと分かる。しかしやられてばかりでもなくベレッタの二連射で敵の叫びと慌てた空気が伝わってきたのち、敵の気配は無くなった。

 落ち着いて恭介は自分のベレッタの空薬莢二個を回収し、周囲に血が落ちていないのも確認してからベレッタを隠し、階段へ向かって十二階の部屋をノックした。途中の廊下でも血の一滴も零すまいと半ば左腕を浮かせたままだったので、声を掛けて薫が恐る恐る部屋のドアを開けるなり、急いで洗面所に走る。

 衣服に吸わせていた血がたらたらと零れ、更には一発の弾丸が腕の中に入ったまま抜けていないのに気付いて恭介はうんざりした。
 人海戦術で自分たちと特徴の合致する者が宿泊しないか、樫原組はあらゆるホテルにチンピラを張り番でもさせていたのだろうか。分からないが拙い事態だ。

「――恭介、どうすればいい、恭介!?」
「コンシェルジュに救急箱要請。あとは良く切れそうな刃物を上手く調達――」

 一瞬の目眩で目を瞬かせると既に薫はいなかった。恭介は洗面所から傍のドアを開けてバスルームへ移動する。ここなら血は流し放題だが脳内で毒づいていた。

 ――くそう、勿体ない!
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