上 下
26 / 42

第26話

しおりを挟む
「おい、早く乗れ」
「あ、うん、ごめーん」

 既に到着していたタクシーの後部座席に薫が先に押し込まれ、ドライバーの後部という事故った時に一番生存率の高い位置に座らせられた。その隣に恭介が乗り込むとドアが閉まり恭介の言うアドレスを聞いてドライバーがタクシーを走らせ始める。

 マンションを出る際も薫はボーッと考え事をしてしまっていたが、恭介は周囲の警戒を怠らなかったと見えて未だ切れ長の目に鋭い光を宿していた。
 薫は恭介とドライバーの会話で佐波市内の繁華街で行われる闇オク会場まで一時間と掛からないのを知る。腕時計を見るとまだ十七時三十五分だ。充分間に合う。

 だけど会場には樫原組の連中が多数で見張りを立てている筈だ。何処からか忍び込むならその時間も必要だ。充分と思ったのは甘かったかなと思い直す。

「ねえ、恭介。あのさ、そもそも忍び込めなかったらどうするの?」
「ああ? 誰が忍び込むと言ったんだ?」
「って、もしかして正面突破するつもり? 潜入じゃなくてカチコミじゃんそれ!」
「忍び込みもカチコミもせん。普通に入って闇オクに参加し隙を窺う」

「僕も恭介も今里や周辺幹部に面が割れてるんですけど」
「それがどうした、俺たちはカネを持った上客だ。おまけにお前は今里からUSBメモリを渡されている。つまり『招待客』という訳だ。違うか?」
「うーん……」

 そう簡単に事が運ばない予感がひしひしとしていた。薫はもしかしてこれは自殺、いや、心中の一形態なんじゃないかとすら考え始める。どうしたって今里は闇オクに薫はともかく恭介の参加を期待しちゃいないだろうと思われた。

 だが隣の恭介を窺うと整いすぎた顔はまるきりフラットな無表情で、緊張の欠片さえ感じさせない。……もしかして腹を括っているのか。
 恭介は今里と刺し違えるつもりなんじゃ……と薫が心配し始めた頃、タクシーが減速して路肩に寄り停車した。

 そこは繁華街でも夜になって人口密度が高くなる店舗が並んだ細い通りの入り口だった。それ以上タクシーは交通ルールとしても物理的にも侵入できない。
 恭介が料金を支払うとタクシーのドライバーはわざわざ降りてきて薫の側のドアを手ずから開けてくれた。恭介側は自動で開く。

 途端に喧騒が耳に飛び込んできて薫はミカジメ料の集金当番を思い出し懐かしくなった。だがすぐに梅谷組を飛び出してから十日も経っていないことも思い出し、酷く淋しく心細い気がしてくる。
 しかし目を泳がせるまでもなく恭介がこちらを向いて頷いてくれた。

「この通りの真ん中辺り、確か『ゲートウェイ』とかいうクラブだったな」
「うん。大人の高級クラブじゃなくて、若い人専用のクラブだけど、大丈夫?」
「その『大丈夫?』がどういう種類の疑問なのか、訊いてもいいか?」

「だってクラブだよ? オジさんが……わあっ、ここで抜かないで!」
「言葉遣いには気を付けた方がいい。その『若者向け』クラブは今日に限って樫原組が中を空にして金づるの『オジさん』たち専用に改装している筈だからな」
「うっわ、やっぱり元刑事デカらしくネチこいよね」
「チンピラらしい軽い口を閉じておけ。災いの元だぞ」

 本気で気を悪くしたのかと思い薫は隣を歩く恭介を見上げて表情を窺ったが、相変わらずのフラットな無表情で感情は読めない。そこで嫌がるだろうとは予想が付いたが恭介の左腕に自分の右腕を触れさせてみた。意外にも恭介は左腕を退かず薫が触れるままにさせている。
 今里の許に乗り込む薫の心細さや緊張を宥めてくれているつもりなのだろうか。

「ねえ、ゲートウェイに入店できるかどうかも怪しいけどさ、上手く入れたとして僕らって何しに行くんだっけ?」
「確かに入店が一番の難関だな。だが入店したら今里を探して弾くんじゃなかったのか、お前は」
「へ? 僕は誰かが『今里を地獄へ堕とす』とか言ってたのを聞いたような気がするんだけど、気のせいなのかな?」

「復讐相手が今里だと先に言い出したのは薫、お前だろう? 子供の頃に順番は護れと教わらなかったのか?」
「でも僕が今里を弾いちゃったら恭介、あんたの復讐は成立しないじゃんか」
「お前が上手く今里を弾き切れるとは思ってないさ。俺が復讐する分くらいは残っている筈だ。少しばかり残しておいてくれたらいい。そう遠慮するな」

「僕が少しの方でいいよ」
「グロックはお前のものだ。ヤクザ者らしく銃刀法違反の加重所持及び発射罪と殺人未遂を背負ってこい。まず執行猶予ベントウは付かんから箔が付くぞ」

 無表情のまま言われて薫は恭介が何処まで本気で喋っているのか計りかねる。これでは今里を殺す権利の押し付け合いだ。だからといって恭介はまるでビビっている風でもなく、冷たいまでの横顔は愛した相棒の仇を討ちに行くのにふさわしく思える。

 唐突に、この世にいない人間は何も思わないんじゃないかなと薫は考えた。
 恭介のかつて愛した相棒は、もう何も思わない。罪を犯してまで仇を取って欲しいなんて思わないどころか、存在すら無なのに恭介は――。

 いや、そんなことくらい分からない恭介ではないだろう。きっと相棒の為じゃなく自分のための敵討ちなのだ。自分の心に誓ったことを実行し、自分の心に恥じぬよう生きてゆくための儀式という訳だ。
 ここにきて薫は「ふっ……」と笑みを洩らした。自分のやるべきことが分かってスッキリした気分だった。気分のままに恭介の左腕を取る。恭介は一瞬だけ腕を退こうとしたが意志の力で留め、薫が腕に掴まるのを許す。

「これくらいのご褒美は当然だよね」
「ああ? 何のことだ、褒美とは?」
「何でもありませんよーだ」

 自分のこの手で今里をる。キッチリ殺す。恭介の分なんか残してやるもんか。そして恭介は新たにこの石動薫を一番濃く記憶に刻み付けて生きればいいのだ。今里を弾いて自分も生きていられるとは思っていない。恭介の言う刑務所行きなんて甘いだろう。組長の周囲を固めたガードに穴だらけにされるに決まっている。

 ――そんな僕の血の匂いを恭介に誰より深く記憶に刻んで貰えたら嬉しい。

「相手のこと、全然知らなくても男でも、好きになることってあるんだね」
「あるんじゃないか、たぶん」

 返事をされるとは想定外で薫は心が浮き立った。これから人を殺して自分も死ぬと決めたばかりなのに、いや、決めたばかりだからなのか。嬉しくて堪らず恭介の左腕に掴まった腕を巻き付けてみた。身長差から殆どぶら下がっているような状態で、さすがに恭介の無表情も崩れる。苦く、でも少し笑ったのが薫の心を却って冷ました。

 自分だけの微笑みを貰って肚が据わったのだ。

「ここだ、ゲートウェイ。二階建て、地下一階。地下は倉庫で上の箱が二階とも店舗か。おそらく一階がそれこそゲート、抜けられたら二階の会場にご案内だな」
「今更だけど罠ってことはないかな?」

「薫、お前を誘い出すための罠なら、ここまで手の込んだ仕掛けは要らない。俺の存在は偶然の産物だ。勿論、梅谷の若頭の見舞いから帰って慌てて仕込んだ可能性は捨てられんが」
「そっか。まあどっちにしても第一関門が罠になり得るのは同じだもんね」
「そういうことだ。入ろう」
しおりを挟む

処理中です...