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第20話

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 じっと見つめてくる切れ長の目に薫は訊いた。

「もう県警でシャブが樫原ルートだってことを言っちゃったのかな?」
「いや、証拠もなしにそんなことは言わない」
「そっかあ、良かったー」

 本気で薫は小さく縮んで固まっていた腹の底が溶けた気がした。

「ねえ、それ、暫く言わないでくれないかな?」
「言わないも何も、言える段階じゃない。だが麻取と組対が樫原に目を付けている以上、樫原ルートを当局が嗅ぎ当てるのは時間の問題だぞ」

「分かってるよ。でも僕らは今夜九時のイヴェントを見てからでしょ、方針を立てるのもさ。じゃあ一旦会議はやめて、早めにご飯にする?」

 訊いた途端に恭介の腹が豪快な音を立て、薫は笑いながらキッチンに向かう。ネットスーパーで買った黒いエプロンをして、醤油だれに漬け込んであった鶏肉に小麦粉と片栗粉を混ぜたものをまぶし油で揚げ始めた。
 香ばしい匂いが部屋中に広がって、呼ぶまでもなく恭介もウィスキーのグラスを手にキッチンにやってくると、薫の背後からIHヒータを覗き込む。

「おい、その旨そうな物体は何だ?」
「薫ちゃん特製の唐揚げだよ。こっちのお鍋は豆腐となめこのお味噌汁。あとはインゲンのゴマ和えにコールスローサラダとご飯。ほら、飲んでもいいから座ってて」

 僅かなりとも手伝う気配を見せ、恭介は箸だけ出してから着席した。まもなく大皿のコールスローに大量の唐揚げが載せられる。茶碗と味噌汁の椀も並べると薫はエプロンを外して椅子に腰掛けた。二人揃って手を合わせて頂く。

「ん、あ、旨いが……熱っ!」
「いい大人なんだから、落ち着いて食べてよね」

 笑いつつも薫は着々と餌付け作戦が実を結んでいる気がして満足を得ていた。
 綺麗に食してしまうとブルーベリープディングケーキを切って小皿に載せ、ティーバッグのセイロンティーを淹れる。華奢なフォークで二人はケーキをつついた。

「ちょっとスポンジが固かったかも。誰かさんのお蔭で混ぜ過ぎちゃったんだよね」
「けど甘さも控えめで旨い」
「それなら良かった。嫌いなものとかリクエストとか、あったら教えて」

「あんまり形がグチャグチャしていると苦手かも知れん。他は大概食う」
「分かった。明日のお昼はちらし寿司、夜はハンバーグだからね」
「そいつは期待できそうだな」

 極上の微笑みを作って薫は頷く。食べ終えて食器も洗浄機に掛けてしまうと恭介はリビングで食後の一服だ。薫はTVを点けてローカルニュースを流し視る。
 そこで十九時半のニュースが始まり、目を見開いた。


《――本日夕方、高城市内のベンソンホテル前で若い男が中年男性に対し、刃物で斬りつける事件がありました。斬られたのは滝本組系暴力団・梅谷組若頭の西山康美やすよし氏で、病院に運ばれ入院しましたが命に別状はないようです。犯人はホテルのガードマンに取り押さえられましたが、言っている内容は要領を得ず、何らかの薬を摂取しているものと思われ――》


 呆然としているうちにニュースは終わり、けたたましい菓子のCMが始まった。

若頭カシラまで、そんな……もしかして、今里の牽制?」

 弾かれたように薫は振り向いて恭介を見上げた。恭介は頷く。

「決めつけるのは早いが可能性はある。牽制でなく本気の可能性もな」
「上位団体の樫原組組長が、風前の灯火になった梅谷のナンバー2をるかな?」

「分からん。だが今里は潰れた五色会の元若頭補佐だった。そこから樫原組に乗り換えた挙げ句、たった三年で樫原組のトップに登り詰めた男だ。並大抵のことではそこまで成し得ない」
「邪魔になりそうな相手に対して手段は選ばないってこと?」

「ああ。今日県警で聞いてきたが、潰れかけた五色会から樫原に乗り換えたときも、樫原のトップに収まった今回もキナ臭さがぷんぷんしているらしい」
「ふうん、そうなんだ。今里が五色会の会長をサツに刺した?」

「そうだ。密告しておいて会長の逮捕を契機に樫原へ移籍。樫原組の先代組長は肝臓癌だったが余命半年が一ヶ月で急死だ」
「へえ、盃固めた親父さんを手に掛けるなんて、こっち側の片隅にも置けないよ」

「それは俺には関係ない。だが、梅谷の若頭はどうする?」

 訊かれて薫は迷った。ここ何年も世話になった若頭までが入院する大怪我を負ったのだ。すぐにでも駆けつけて様子だけでも見たい、見舞いたい気持ちがあった。だが事実はどうあれ表面上は直下組織のナンバー2が殺されかけたのだ。今里も病院に詰めているかも知れない。

「うーん、でも今里と鉢合わせしたら目も当てられないし」
「心配じゃないのか、組が」

 薫は思わず目を瞬かせる。言われてみれば梅谷組で今現在動けるのは薫も含めてたった三人しかいないのだ。既に組として成立するかも怪しい状況である。このまま離散して梅谷組は消えてなくなることも有り得た。まさに存亡の危機を迎えていると云っても過言ではない。

 そんな薫の様子を眺めて恭介は呆れる。

「暢気な若中もいたもんだな。元々お前にヤクザはまるで似合わんが」
「ヤクザらしくないのは承知してるよ。先代にも言われたし、『お前は博徒だがヤクザじゃない』ってね。その分、旧いばくち打ちだった先代には可愛がって貰ったけど」
「その割には決断が遅いぞ。どうするんだ?」

「ん、僕が若頭のところに駆けつけても何にも変わらない。だから今すぐは行かないよ。今夜のイヴェントを確かめて、それから考えても遅くない。若頭は生きてるし」

 薫がそう決めたので恭介と二人して時間が経つのを待った。

 ノートパソコンはブートさせっ放しで相変わらず黒い画面にデジタル表示の黄緑色の数字がカウントダウンを続けている。そうしてあっさり『00:00』を刻んだが恭介も薫もじっと見つめたまま動かなかった。

 表示が変わる。素っ気ないまでに白い画面が相対的に眩しい。載っていたのは地図と住所だった。住所は樫原組の本拠地とも云える佐波市内の繁華街だ。地図も同じ場所を示している。
 次に表示が変わると明らかに日時を示す数字が並んでいた。明後日の十九時。
 そしてまた表示が変わったかと思うと、これも素っ気ないながら煽り文句だ。


【特別なお客様方へ。当オークションへのご参加をお待ちしております】


 それで最初と同じ真っ黒な画面と黄緑のデジタル表示でカウントダウンが始まる。今度はどうやら『オークション』とやらの開催日時までのカウントダウンらしい。

「なあんだ、これも入り口かあ」

 このサイトで劇的展開を予想していた薫は気の抜けた声を出し二人掛けソファの背凭れにドサリと上体を預けた。
 隣で煙草を吸いつつまたウィスキーグラスを口に運ぶ恭介は何ら表情を変えていない。そんなところだろうとこちらは予測していたからである。問題はここからで、極秘開催されるらしいこのオークションにどう介入するかだ。

 おそらく上客にのみ流れる誘いである。どうにかして潜り込みたいところだが、それが可能だろうか。上客として樫原組に声を掛けられるのは限られた人間であり人数だろう。すると潜入した異分子はすぐにバレて摘まみ出されるだけでは済むまい。

 いや……そんな身内の少人数なら直接声を掛ければ済むことだ。直接的に声を掛けられない相手も誘いたかったからこその表向き『薫のお愉しみ動画』である。するとヤクザとしての対立組織のみならずカネのダブついた好事家辺りにもオークションへの誘いはなされているのかも知れない。

 もしこの予想が当たっていれば完璧に面の割れた薫はともかく、恭介独りでならオークション会場への潜入を為せる可能性がある。

「――ねえ、黙ってないでさ、恭介」
「ん、ああ、何だ?」
「だから謎オークション本番まで時間ができたから僕、若頭のお見舞いに行ってくるってさっきから何度も言ってるんだけど?」
「そうか。なら俺も行こう」

 本当は恭介がそう言ってくれるのを期待していた薫だった。何故なら直下団体の若頭が負傷したのだ、今里が病院にいる可能性の否定できない。とてもじゃないが一度恭介に寄り掛かってしまった薫は一人で今里と対峙する恐怖に勝てなかった。

 今里が恭介の相棒殺しの真犯人と知れた以上は、二人を合わせない方が得策じゃないのかと薫は自問しながらも、その問いには目を瞑って恭介に頷いて見せた。
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