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第2話

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 長年の公務員生活で人に使われてきた組長はカタギの常識から抜けられず、だがたった六人となってしまった組員に義理立てし、本当に組を解散することもできない。再就職も厳しい時代である。しゃもじ片手に皆を見ては憂い顔で溜息ばかりついていた。

 男たちが品数も少ない晩飯を食い尽くすまであっという間だった。夜は夜でシノギに精を出さねばならないため、それぞれ自分の食器を手にして立ち上がる。
 そこで食も進まなかった組長が声を発した。

「あのう、皆さん、お話がありますので待って貰えませんか?」

 またかという表情で皆が畳に座りなおす。若頭が組長の硬い横顔を見て笑った。

「組を畳む話なら聞かないぞ、おやっさん」
「はあ……でも今度こそ、組はこれまでと思って下さい」
「何だ、どうしたってんだい?」

 優しげに若頭から訊かれて組長は上位団体から上納金の値上げ通告があったことを白状する。

「もう無理です。皆さんにこれ以上の負担を課すことはできません」
「幾ら要求されたんだ?」
「いつもの二百万から三百五十万に吊り上げられました」

 これには皆がざわめいた。暴対法と暴排条例で何処のヤクザも汲々としているのは同じである。その上に梅谷組の窮状も上は承知している筈だ。今まででさえギリギリでやってきたのに、いきなり百五十万もの値上げをされては、組長でなくとも暗澹たる表情にならざるを得ない。

 だが次には三百五十万をふっかけてきた理由に思い当たり薫は若頭の方を見た。若頭も同じく思い至ったらしかった。先日、上位団体の樫原かしはら組で新組長の襲名式があったのだ。

「樫原の組長になったインテリ野郎の今里いまさと、あの若造から話があったってぇことなのかい?」
「ええ、まあ、そういうことでして……」

 自らもヤクザの組長を張りながら、やはりヤクザ怖さに交渉もできず、唯々諾々と通告を呑んでしまった組長は身を縮めている。黒いセル眼鏡の奥の瞳はもう涙目だった。それに気付いて薫の左隣に座っていたタツとアサが勢い良く立ち上がる。いきりたったその目は三角になっていた。

「舐めやがって! 何が経済学部、国立の院卒だ! こうなりゃカチコミっスよ!」
「俺たちだって国立特別少年院卒だぞ! 行くぞ、相棒!」

 駆け出そうとしたタツに薫はサッと足を出す。引っ掛かってタツはすっ転び、タツに上着の裾を掴まれたアサもばったり倒れた。
 ある意味この世界に於けるエリート二人だが、組への忠誠心は深くとも、いかんせんオツムの方が追いついていない。樫原組の事務所に殴り込んでも、逆にタコ殴りにされるのがオチである。
 それに相手は敵対組織ではなく上位団体なのだ。

「とにかくだ。新たなシノギを見つけて稼ぐしかねぇな」

 若頭は前向きに言ったが、これまでだってカツカツだったのである。僅かなシマのミカジメ料や店のアガリに賭け麻雀、競輪競馬に競艇、パチンコに女。皆がフル稼働してきた。腰が痛んでも耐え忍び、滋養強壮剤をがぶ飲みして、それで月に二百万をようやく捻り出してきたのだ。この上に百五十万など、おかずを毎日たくあんのみにしたって浮いてはこないだろう。

 けれど一旦承知したことを反故にして泣きつくのはヤクザの沽券に関わる。どうあっても月末までに三百五十万、耳を揃えなければならない。

 皆が黙り込んでしまった中、俯いた組長の異変に気付いたのは薫だった。

「おやっさん、顔色が悪いみたいですが――」

 最後まで言うヒマもなく、しゃもじを握ったまま組長がエボーッと血を吐いた。赤いチェックのエプロンをどす黒く染めただけでなく、抱えるようにしていた業務用炊飯器にまで鮮血が飛ぶ。驚いて皆が組長を囲んだ。組長は幾度も咳き込んで血を撒き散らす。

 痩せこけた身を支えながら若頭が叫んだ。

「だめだ、誰か救急に連絡しろ!」

 怒号を聞くまでもなく薫は携帯で119番に救急要請している。通話を切るなり部屋を飛び出して階段を駆け下りた。事務所を抜けて外に出る。足踏みしつつ、じりじりとして救急車の到着を待った。
 十分近くも経ってから、やっと緊急音が響いてくる。本来関係者以外の車両乗り入れ禁止であるアーケード街の中にまで救急車は進入してきて事務所の真ん前に駐まった。その頃には近所の商店街の人々が何事かと出てきて野次馬の輪を作り、ざわめいていた。

「またひでちゃんが倒れたのね」
「昔から躰が弱かったから」
「そうそう、去年も胃潰瘍で血を吐いて」
「可哀相に、今度こそ手術かも知れないねえ」

 ざわめきに去年の暮れの騒ぎを思い出しながら、薫は救急隊員を本家二階に先導する。連れ出された組長はすぐさまストレッチャに固定され救急車に乗せられた。その間も血を吐く組長は、手にしたしゃもじを振り翳して組の皆に訴える。

「ゲホゴホ……組を、組を畳む……解散する、ゲホッ!」

 救急車には若頭と舎弟頭が同乗し組長に付き添った。緊急音を鳴らして去る救急車を残りの四人で見送ったのち、騒がせた詫びを周囲に述べてから薫たちは本家二階に戻る。
 血を拭き取り食器を四人で片付けた。その間も新たなシノギについて話し合ったが明るい展望は何処にも見いだせない。更に若頭補佐の携帯に連絡があり、組長は重度の胃潰瘍で入院・手術が必要だという凶報がもたらされる。治療代もタダではない。

「月末まで二週間か……」

 若頭補佐の呟きにタツとアサが身を乗り出して応えた。

「やっぱり俺たちがカチコミ、いや、交渉に行くっスよ」
「何も梅谷の看板は背負って行きやせん、個人交渉っスから」
「勘弁しろよな。それよりお前らはシマの店の集金があるだろ」

 諫めたのは薫だ。ボコられた身柄ガラを引き取りに行くのも難儀である。薫はタツとアサをせっつき夜の盛り場へと送り出した。ミカジメ料集めは昔ながらのシノギの手法で当局に見つかっても簡単に捕まらないよう、店のお絞りや観葉植物を交換するという名目を掲げるのが一般的である。

 そうして薫自身は常連となっている雀荘に出勤するべく若頭補佐に頭を下げた。賭け麻雀は無論違法だが、博打方面にしか才能がないと自分でも分かっている。

 元々中学生時代に近所の大学生から賭け麻雀に誘われたのが、この世界に身を投じるきっかけだった。離婚した両親の間をフットボールのように行き来させられ、学校が変わるたびに女顔と体格の悪さでいじめの対象にされた。
 だが誘われた麻雀は運を引き寄せる腕だけがものをいう。愉しくて堪らず嵌り込んだ。挙げ句に何度も補導され、検挙されたが止められなかった。

 薫に目を付けたのは警察だけではなかった。博打をやる雀荘は大概、何処かの組が仕切っている。通った雀荘のひとつをシマにしていたのが元・博徒系ヤクザの梅谷組だった。親から押し込まれた私大の経済学部も一年足らずでドロップアウトした薫に先代が声を掛けてくれたのである。

 あれから約四年が経過し先代も一昨年亡くなった。未だ二十二歳の薫に組長は『再就職してくれ』と繰り返すが、本当に途方に暮れていたときに手を差し伸べてくれた先代への恩を忘れられない薫は、任侠の道を説いてくれた先代への仁義に意固地なまでにこだわっているのである。

「じゃあ、僕も出勤してきますんで」

 膝を抱えていてもカネは降ってこない。若頭補佐に挨拶して事務所を出た。アーケードの商店街を歩き出す。駐めたままの黄色い軽自動車の他に、ガレージには組長が上部組織回りするための旧いセダンもあったが、これは使えない。公共交通機関で行けるのに一人でガソリン代を使うのは勿体ないからだ。
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