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第29話
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座面のゴブラン織りもほつれた古いチェアを移動させて前後逆に腰掛けたシドは、ベッドで眠るハイファの白い顔を眺めていた。寝かせてからもう三時間が経とうとしていたがハイファはまだ目を覚まさない。
これもかなり古い室内の建材は木を模したファイバで一見、鄙びたログハウスのようだ。シドがざっと検分したところ三階がロフトになっていて、上下にそれぞれ一人ずつの客が泊まれるタイプのツインだった。
ロフトのベッドに横になり天窓からホロの星空を眺めるのも、それはそれで心地良さそうだったが、今はハイファ優先で二階に大人しく落ち着いている。
元々宿屋らしい室内にはちゃんとバス・トイレ・ダートレスに洗面所が付属し、どれも古かったが清潔だった。ソファセットにデスク端末もあり、入ったときには既にブートされていた端末のホロディスプレイだけが可聴音域外の唸りを発して、一定時間ごとにそよぐ草原や熱帯魚の泳ぐ様を映し出している。
と、ドア脇に付属の音声素子が震えた。
《――シド、私ですが宜しいですか?》
動かずにシドはリモータでロックを解く。隣の部屋からやってきたジョンは向けられた銃口を前にして、手にした鞄を盾にした。盗んだボートに積みっ放しにしていた鞄は、ハイファのショルダーバッグと一緒に、あとからジェレミーが持ってきてくれたものだ。
他に誰もいないのを見取ってシドはするりとレールガンを仕舞った。
「ンなもんで、銃弾は防げねぇぞ」
「分かってますよ、単なる反射的行動です」
「で、あんた、ジョン、どうやって帰るんだ?」
「帰るとは、どういうことですか?」
「いや、てっきり一抜けするもんだと思っただけだが」
「私は私の理由で追う、そう申し上げた筈です。シド、そういう貴方こそ酷い顔色ですが、休まなくて宜しいんですか?」
喋り声がハイファの邪魔になるかとシドは腰を上げ、ソファに移った。向かいに座ったジョンが湯沸かしポットの中を検めて溜息をつき、洗面所に立って水を入れてくる。沸くまでにシドはハイファのショルダーバッグから新しい煙草を出して封切り、一本咥えてこれは無事だったオイルライターで火を点けると、深々と吸い込んで紫煙を吐いた。
ジョンが備え付けのカップふたつにインスタントコーヒーを淹れる。
コーヒーをひとくち飲んでシドは思い出したように立ち、バスルームの前からこれも備え付けのタオルを持ってくる。ジョンの訝しげなアンバーの瞳が注視する中、シドは右腰のヒップホルスタからレールガンを抜き、鮮やかな手つきでフィールドストリッピングなる簡易分解をした。
運河に飛び込んで濡れてしまった内部を拭き取り、次にはバッグから小箱を出すと、針のようなフレシェット弾をレールガンに装填する。ジョンはこわばった顔で目を逸らした。
「顔色が悪いぜ、ジョン。休まなくてもいいのかよ?」
「貴方がそんな陰険なタイプだとは思ってもみませんでした」
「何度も『冷めにくい土鍋』とは言われてきたが、陰険か。確かにそうだな、攻撃は効果的にやらねぇと」
「矛先が違うでしょう。何故、分離主義派議員と夕月総研とハイド=ラ=アルトではなくて、私を攻撃対象にするんですか。厳重に抗議させて頂きます!」
丸みを帯びた眼鏡の底でアンバーの瞳が煌めき、吊り気味の目尻がもっと吊り上がるのを見て、珍しくシドは他人の前でポーカーフェイスに薄く笑いを浮かべた。
「何がおかしいんですか!」
「いや、何処にでも抗議して貰っていいけどさ、鋭いものが苦手なクセに、その目が何より鋭いんじゃねぇかって思っただけだ」
「今度は人の顔にケチをつける気ですか?」
「だからそう、とんがるなって。しかし何で尖ったモノが怖いんだろうな」
何気ないシドの呟きに、ジョンは僅かに俯いた。
「……子供の頃、刺されたんです」
「誰に?」
「母親に」
「へえ、そいつはまた……」
「精神を病み、新興宗教に次々に嵌るような人でした。私を娘だと信じていました」
「確かに綺麗な女顔だが、それは災難だったな」
「それでも私は男です。ドレスを着せられ化粧までされて飾られているのが嫌で堪りませんでした。ある日、鏡の前で男の格好をしているのを見咎められ、いきなり逆上した母親に何かを刺されて……そのときは手術をしましたが、視力は悪いままで。未だに何を刺されたのか思い出せません」
「ふうん、超弩級のPTSDだな」
「そうかも知れないですね。でも世の中、色んな人がいますから」
「だよなあ。で、明日なんだが、FC名でR&Gの所長にアポ取れるか?」
既に本星でも日付が変わろうという時刻、さすがにジョンは首を捻る。
「明日はどうでしょうか……ダメ元で武藤千里秘書官にダイレクトワープ通信を入れますが」
「頼む。その辺りから突くか、俺たちが囮になるか、今回はふたつにひとつしかねぇからな」
そういってシドはベッドで眠るハイファの方に視線を投げる。
囮にした訳ではないが図らずも演じることになり、一人つらい思いをさせてしまった。状況から最悪の事態は免れたと分かっていたが、これ以上危ないことはさせられない。
だがこのまま逼塞していても事態は変わらないのだ。こちらから仕掛けるしかなかった。
「でも惑星警察に追われる身の我々が、昼日中にここから出て行くのは危険でしょう?」
「だったらジョン、あんたはここに骨を埋めるってのか?」
「それは……」
「動かなきゃ始まらねぇし、つまりは終われもしねぇんだよ」
暫し考えていたジョンは微かに頷くと顔を上げ、中指で眼鏡を押し上げながら言った。
「ところでシド、貴方は本当に大丈夫なんですか? 食事は?」
「あー、メシはハイファが起きたら一緒に食う」
「子供じゃあるまいし。それにその服、運河に飛び込んだときのままじゃないですか。専務は私が責任持ってお護りしますから、リフレッシャだけでも浴びてきて下さい」
暫しシドは迷ったが、ジョンに言い募られて諸手を挙げる。
「じゃあ悪いが十分間だけ任せていいか?」
アンバーの瞳が頷くのを待って、シドはショルダーバッグから着替えを一揃い出すとバスルームに向かった。ダートレスに何もかも放り込んでスイッチを入れる。
冷え切った躰を熱いリフレッシャで融かすと、急いでバスルームを出て衣服を身に着けた。ドライモードで生乾きになったくしゃくしゃの髪を押さえ付けながら部屋に出て行くと、何やら旨そうな匂いが充満していて途端に腹が鳴る。ジョンが気を利かせてルームサーヴィスを頼んだらしい。
「丁度良かった、今、届いたところですよ」
「こんな時間だ、マンマに悪いことしたんじゃねぇか?」
「他人の心配をしている場合じゃないでしょう。ただ温かいうちに頂くのが礼儀に適うかと」
「なるほど。おっ、メチャメチャ旨そうじゃねぇか」
「ほら、ごらんなさい。いつまでも空腹では風邪を引きますよ」
ロウテーブルに置いた湯気の立つトレイを前にして、まるで勝ち誇るかの如く胸を張った眼鏡男に、シドはポーカーフェイスの口元に苦笑を浮かべた。
「何か、嫁さんが二人に増えたみたいだな」
「私は二号になるつもりはありません」
「俺だって男は願い下げだ」
「今更何を仰ってるんですか」
「俺は完全ヘテロ属性、ストレートだ」
理解不能だというようにジョンは頭を振った。
「では、私は部屋に戻りますので」
あっさりと出て行くホワイトのドレスシャツの背を見送り、ドア口から隣室のロックが掛かるのを確認して、シドはトレイを手にゴブラン織りのチェアに腰掛けた。覗き込むとハイファが身動きし、薄く若草色の瞳を覗かせる。
ジョンと話し始めてすぐ、ハイファが目を覚ましたことにシドは気付いていた。
「ハイファお前、頭痛はどうだ?」
「ん、もう平気……って、日付変わっちゃってるし。それより貴方、今頃晩ご飯なんて!」
「ああ、待ってなくてすまん」
「そうじゃなくて、ちゃんと食べなきゃだめじゃない!」
「いきなりお前、元気だな」
「元気にならざるを得ないんです! あああ、もうその髪、ちゃんと乾かしてないから――」
シドは上体を起こしたハイファの口に切った肉を突っ込んで黙らせる。
「ん……美味しいけど、寝起きにハードだよ」
笑い合いながらマンマにリモータ発振し一人分を追加注文する。二人はソファに移動し、マンマの心づくしを仲良く堪能した。
これもかなり古い室内の建材は木を模したファイバで一見、鄙びたログハウスのようだ。シドがざっと検分したところ三階がロフトになっていて、上下にそれぞれ一人ずつの客が泊まれるタイプのツインだった。
ロフトのベッドに横になり天窓からホロの星空を眺めるのも、それはそれで心地良さそうだったが、今はハイファ優先で二階に大人しく落ち着いている。
元々宿屋らしい室内にはちゃんとバス・トイレ・ダートレスに洗面所が付属し、どれも古かったが清潔だった。ソファセットにデスク端末もあり、入ったときには既にブートされていた端末のホロディスプレイだけが可聴音域外の唸りを発して、一定時間ごとにそよぐ草原や熱帯魚の泳ぐ様を映し出している。
と、ドア脇に付属の音声素子が震えた。
《――シド、私ですが宜しいですか?》
動かずにシドはリモータでロックを解く。隣の部屋からやってきたジョンは向けられた銃口を前にして、手にした鞄を盾にした。盗んだボートに積みっ放しにしていた鞄は、ハイファのショルダーバッグと一緒に、あとからジェレミーが持ってきてくれたものだ。
他に誰もいないのを見取ってシドはするりとレールガンを仕舞った。
「ンなもんで、銃弾は防げねぇぞ」
「分かってますよ、単なる反射的行動です」
「で、あんた、ジョン、どうやって帰るんだ?」
「帰るとは、どういうことですか?」
「いや、てっきり一抜けするもんだと思っただけだが」
「私は私の理由で追う、そう申し上げた筈です。シド、そういう貴方こそ酷い顔色ですが、休まなくて宜しいんですか?」
喋り声がハイファの邪魔になるかとシドは腰を上げ、ソファに移った。向かいに座ったジョンが湯沸かしポットの中を検めて溜息をつき、洗面所に立って水を入れてくる。沸くまでにシドはハイファのショルダーバッグから新しい煙草を出して封切り、一本咥えてこれは無事だったオイルライターで火を点けると、深々と吸い込んで紫煙を吐いた。
ジョンが備え付けのカップふたつにインスタントコーヒーを淹れる。
コーヒーをひとくち飲んでシドは思い出したように立ち、バスルームの前からこれも備え付けのタオルを持ってくる。ジョンの訝しげなアンバーの瞳が注視する中、シドは右腰のヒップホルスタからレールガンを抜き、鮮やかな手つきでフィールドストリッピングなる簡易分解をした。
運河に飛び込んで濡れてしまった内部を拭き取り、次にはバッグから小箱を出すと、針のようなフレシェット弾をレールガンに装填する。ジョンはこわばった顔で目を逸らした。
「顔色が悪いぜ、ジョン。休まなくてもいいのかよ?」
「貴方がそんな陰険なタイプだとは思ってもみませんでした」
「何度も『冷めにくい土鍋』とは言われてきたが、陰険か。確かにそうだな、攻撃は効果的にやらねぇと」
「矛先が違うでしょう。何故、分離主義派議員と夕月総研とハイド=ラ=アルトではなくて、私を攻撃対象にするんですか。厳重に抗議させて頂きます!」
丸みを帯びた眼鏡の底でアンバーの瞳が煌めき、吊り気味の目尻がもっと吊り上がるのを見て、珍しくシドは他人の前でポーカーフェイスに薄く笑いを浮かべた。
「何がおかしいんですか!」
「いや、何処にでも抗議して貰っていいけどさ、鋭いものが苦手なクセに、その目が何より鋭いんじゃねぇかって思っただけだ」
「今度は人の顔にケチをつける気ですか?」
「だからそう、とんがるなって。しかし何で尖ったモノが怖いんだろうな」
何気ないシドの呟きに、ジョンは僅かに俯いた。
「……子供の頃、刺されたんです」
「誰に?」
「母親に」
「へえ、そいつはまた……」
「精神を病み、新興宗教に次々に嵌るような人でした。私を娘だと信じていました」
「確かに綺麗な女顔だが、それは災難だったな」
「それでも私は男です。ドレスを着せられ化粧までされて飾られているのが嫌で堪りませんでした。ある日、鏡の前で男の格好をしているのを見咎められ、いきなり逆上した母親に何かを刺されて……そのときは手術をしましたが、視力は悪いままで。未だに何を刺されたのか思い出せません」
「ふうん、超弩級のPTSDだな」
「そうかも知れないですね。でも世の中、色んな人がいますから」
「だよなあ。で、明日なんだが、FC名でR&Gの所長にアポ取れるか?」
既に本星でも日付が変わろうという時刻、さすがにジョンは首を捻る。
「明日はどうでしょうか……ダメ元で武藤千里秘書官にダイレクトワープ通信を入れますが」
「頼む。その辺りから突くか、俺たちが囮になるか、今回はふたつにひとつしかねぇからな」
そういってシドはベッドで眠るハイファの方に視線を投げる。
囮にした訳ではないが図らずも演じることになり、一人つらい思いをさせてしまった。状況から最悪の事態は免れたと分かっていたが、これ以上危ないことはさせられない。
だがこのまま逼塞していても事態は変わらないのだ。こちらから仕掛けるしかなかった。
「でも惑星警察に追われる身の我々が、昼日中にここから出て行くのは危険でしょう?」
「だったらジョン、あんたはここに骨を埋めるってのか?」
「それは……」
「動かなきゃ始まらねぇし、つまりは終われもしねぇんだよ」
暫し考えていたジョンは微かに頷くと顔を上げ、中指で眼鏡を押し上げながら言った。
「ところでシド、貴方は本当に大丈夫なんですか? 食事は?」
「あー、メシはハイファが起きたら一緒に食う」
「子供じゃあるまいし。それにその服、運河に飛び込んだときのままじゃないですか。専務は私が責任持ってお護りしますから、リフレッシャだけでも浴びてきて下さい」
暫しシドは迷ったが、ジョンに言い募られて諸手を挙げる。
「じゃあ悪いが十分間だけ任せていいか?」
アンバーの瞳が頷くのを待って、シドはショルダーバッグから着替えを一揃い出すとバスルームに向かった。ダートレスに何もかも放り込んでスイッチを入れる。
冷え切った躰を熱いリフレッシャで融かすと、急いでバスルームを出て衣服を身に着けた。ドライモードで生乾きになったくしゃくしゃの髪を押さえ付けながら部屋に出て行くと、何やら旨そうな匂いが充満していて途端に腹が鳴る。ジョンが気を利かせてルームサーヴィスを頼んだらしい。
「丁度良かった、今、届いたところですよ」
「こんな時間だ、マンマに悪いことしたんじゃねぇか?」
「他人の心配をしている場合じゃないでしょう。ただ温かいうちに頂くのが礼儀に適うかと」
「なるほど。おっ、メチャメチャ旨そうじゃねぇか」
「ほら、ごらんなさい。いつまでも空腹では風邪を引きますよ」
ロウテーブルに置いた湯気の立つトレイを前にして、まるで勝ち誇るかの如く胸を張った眼鏡男に、シドはポーカーフェイスの口元に苦笑を浮かべた。
「何か、嫁さんが二人に増えたみたいだな」
「私は二号になるつもりはありません」
「俺だって男は願い下げだ」
「今更何を仰ってるんですか」
「俺は完全ヘテロ属性、ストレートだ」
理解不能だというようにジョンは頭を振った。
「では、私は部屋に戻りますので」
あっさりと出て行くホワイトのドレスシャツの背を見送り、ドア口から隣室のロックが掛かるのを確認して、シドはトレイを手にゴブラン織りのチェアに腰掛けた。覗き込むとハイファが身動きし、薄く若草色の瞳を覗かせる。
ジョンと話し始めてすぐ、ハイファが目を覚ましたことにシドは気付いていた。
「ハイファお前、頭痛はどうだ?」
「ん、もう平気……って、日付変わっちゃってるし。それより貴方、今頃晩ご飯なんて!」
「ああ、待ってなくてすまん」
「そうじゃなくて、ちゃんと食べなきゃだめじゃない!」
「いきなりお前、元気だな」
「元気にならざるを得ないんです! あああ、もうその髪、ちゃんと乾かしてないから――」
シドは上体を起こしたハイファの口に切った肉を突っ込んで黙らせる。
「ん……美味しいけど、寝起きにハードだよ」
笑い合いながらマンマにリモータ発振し一人分を追加注文する。二人はソファに移動し、マンマの心づくしを仲良く堪能した。
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