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第42話
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湖岸に出ると足元は草地で、草は例の針葉樹林の鱗の如く半透明の光沢を帯びている。踏みしだくとパリパリ音を立て折れた。霧島が振り向くと二人分の足跡がくっきり残っていて、いよいよニセモノに嵌められた気がした。湖を覗き込む。
「うわ、何なんだ、この水は」
「水っていうよりゼリーみたいですね。それに嫌な臭い、生ゴミ臭いかも」
京哉の表現はかなり的確だと霧島は思う。近づき覗き込んだ湖面は遠くから見たときの美しさなど何処にもなかった。僅かにさざ波が表面を揺らしている液体は金色の月明かりの下、どろりと比重の高い固まりかけのゼリーのようだ。おまけに生臭い。
「ゼリーのようだが、血か、生き物の臭いがしないか?」
「原始の混沌の海って訳ですね。確かに生魚を捌いた時のワタとか血の臭いっぽい」
「おっ、あの小屋、明かりがついているぞ。行ってみよう」
「ここが何処か教えて貰えたらいいんですけれどもね、地球語で」
「スワヒリ語辺りなら宇宙人語と同じく分からんがな」
「ですよね。それに僕、自分の精確な住所って説明できませんし」
「何を言っている、お前、住所くらいは分かるだろうが」
「宇宙人に銀河系から説明できますか、忍さんは?」
「……拙いな」
どうでもいいことを喋りつつなるべく不安を誤魔化しながら、二人は小屋に辿り着く。小屋だと思った建物は二階建てで、それなりに大きな石造りの屋敷だった。
周囲には柵ひとつなく湖の傍の草地に唐突に屋敷は建っている。一枚板のドア脇に門灯があり六枚見える窓全てから明かりが洩れ出していた。ドアの前で様子を窺う。
「誰かはいるみたいですね。良かった」
チャイムもノッカーもない木製のドアを霧島はノックし、英語で声を張り上げた。
「夜分すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
三度、四度とノックをし、声を掛けても誰も出てはこない。ノブを握って引くとあっさり開いた。開いて中に頭を突っ込み、更に呼び掛ける。
「すみませーん……おーい、誰かいないのか!」
「もしもーし、すみませーん……おかしいですね」
玄関ホールは天井から下がった小ぶりのシャンデリアで煌々と照らされていた。屋敷の奥からは明らかに人の気配がし耳をすませば談笑まで聞こえてくるのに、誰も二人の呼び掛けに応えない。そこでするりとドアの内側に霧島は身を滑り込ませた。
「ちょっと忍さん、住居不法侵入ですよ」
「訴えて出る相手にだって出会いたいと思うのは私だけか?」
なるほどと納得して京哉も不法侵入の片棒を担ぐことにした。
玄関ホールに靴も段差もないので、きっと西洋風でいいのだと決めつけ、土足のまま上がり込む。上がってすぐに石の廊下と階段があった。二階は後回しにして廊下へと進む。最初の扉の隙間からも細く明かりが洩れている。霧島はノックした。
「すみません、お邪魔します」
そっと開けた部屋はサロンのようだった。繻子張りのソファセットにロウテーブルがある。窓の傍にはラグが敷かれ猫足のテーブルに椅子が二脚。グランドピアノまで据えられていた。
それでも広さに比して案外あっさりした部屋ではあったが、それなりにカネはかかっていそうだった。
「誰もいないようだな」
さっさと霧島は室内に踏み入った。やや遠慮がちに京哉が続く。ロウテーブルに目をやると紅茶のカップがソーサーに載って置かれていた。ベルガモット香がする。
「アールグレイか。湯気が立っているぞ」
「『まだ温かい、遠くには行っていない筈だ』ってとこですね。でも何処に?」
仕方なく紅茶の主を捜して廊下に出た。幾つか部屋を覗いたが人影は無かった。
一階の最後の部屋は食堂だった。ここまで来ると足音を忍ばせることもない。
「食事中だったみたいですね」
「料理も冷めてはいない。それもまさに食っている途中だぞ」
大きな六人掛けテーブルに載ったプレート類はサロンの紅茶と同じ、どれも湯気が立っていた。ちぎられたパン、スプーンの差し込まれたスープ、切り分けられた肉料理……たった今、家族がここで食事を愉しんでいたのだ。まだ濃厚に人の気配が残っている。
いまにも笑い声が聞こえてきそうで、京哉は顔をしかめた。
「忍さん、こういうのって何か思い出しませんか?」
「マリーセレスト号か。あれは都市伝説だぞ。チッ、ふざけている。二階、行くぞ」
ずかずかと階段を上って遠慮なく二階の部屋を片端から覗いてみたが、殆どが寝室となったどの部屋にも明かりが灯り、あまつさえシーツと毛布が体温で温まったベッドまであったにも関わらず、何処にも住人の姿は見当たらなかった。
「すんごい、やな感じかも。どうなってるんでしょう?」
「ますます嵌められたという気分が抜けないのだがな」
リアリスト二人は幽霊屋敷などとは思わなかったが、気分がいい訳などなく、玄関ドアからしぶしぶ外に出た。
出るなり人影とぶつかりそうになり、霧島と京哉は靴から飛び出しそうなくらい驚く。反射的に二人は銃を抜いていた。
「誰だ!」
人影は大小含めて六人分もある。先頭の中年男が応えた。
「そちらこそ、わたしの屋敷で何をしていたんだね?」
抑揚のない喋り方をする男は半端でなく顔色が悪かった。おまけに頭からつま先まで緑色っぽい液体で濡れている。身に着けたタキシードやドレスシャツからもべたついた液体を滴らせていて、それはおそらくあの生臭い湖水だと思われた。
男の後ろに茫洋と立っている身なりのよい老夫婦も、男の妻らしい青いドレスの女も、小生意気にジャケットと半ズボンを着た男の子二人も、全員が草の葉のような顔色をして頭から固まりかけの腐ったゼリーを浴びている。
「すみません、警察の者です。ロックもされずに外出は不用心ですよ」
強引に誤魔化そうとしながらも、霧島はここにきて肌が粟立つような気分を味わっていた。これは本当じゃない、現実ではないのだという思いが消しがたく湧いている。
目前の家族連れからは血臭にも似た生臭さが漂い、生きた人間特有の気配というものが一切感じられなかったのだ。生者でこれは有り得なかった。
「深夜にお勤め、ご苦労様でした」
タキシードの男が棒読み口調で言ったのを契機に、霧島はその場から立ち去るべくシグ・ザウエルP226を懐にしまって僅かに頭を下げた。
目を離すのは非常に怖かったが、彼らから離れたい一心で振り切るように背を向ける。
そして京哉と肩を並べ足早に草を踏んだとき、独特の風圧を感じて細い躰を突き飛ばしていた。
「うわ、何なんだ、この水は」
「水っていうよりゼリーみたいですね。それに嫌な臭い、生ゴミ臭いかも」
京哉の表現はかなり的確だと霧島は思う。近づき覗き込んだ湖面は遠くから見たときの美しさなど何処にもなかった。僅かにさざ波が表面を揺らしている液体は金色の月明かりの下、どろりと比重の高い固まりかけのゼリーのようだ。おまけに生臭い。
「ゼリーのようだが、血か、生き物の臭いがしないか?」
「原始の混沌の海って訳ですね。確かに生魚を捌いた時のワタとか血の臭いっぽい」
「おっ、あの小屋、明かりがついているぞ。行ってみよう」
「ここが何処か教えて貰えたらいいんですけれどもね、地球語で」
「スワヒリ語辺りなら宇宙人語と同じく分からんがな」
「ですよね。それに僕、自分の精確な住所って説明できませんし」
「何を言っている、お前、住所くらいは分かるだろうが」
「宇宙人に銀河系から説明できますか、忍さんは?」
「……拙いな」
どうでもいいことを喋りつつなるべく不安を誤魔化しながら、二人は小屋に辿り着く。小屋だと思った建物は二階建てで、それなりに大きな石造りの屋敷だった。
周囲には柵ひとつなく湖の傍の草地に唐突に屋敷は建っている。一枚板のドア脇に門灯があり六枚見える窓全てから明かりが洩れ出していた。ドアの前で様子を窺う。
「誰かはいるみたいですね。良かった」
チャイムもノッカーもない木製のドアを霧島はノックし、英語で声を張り上げた。
「夜分すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
三度、四度とノックをし、声を掛けても誰も出てはこない。ノブを握って引くとあっさり開いた。開いて中に頭を突っ込み、更に呼び掛ける。
「すみませーん……おーい、誰かいないのか!」
「もしもーし、すみませーん……おかしいですね」
玄関ホールは天井から下がった小ぶりのシャンデリアで煌々と照らされていた。屋敷の奥からは明らかに人の気配がし耳をすませば談笑まで聞こえてくるのに、誰も二人の呼び掛けに応えない。そこでするりとドアの内側に霧島は身を滑り込ませた。
「ちょっと忍さん、住居不法侵入ですよ」
「訴えて出る相手にだって出会いたいと思うのは私だけか?」
なるほどと納得して京哉も不法侵入の片棒を担ぐことにした。
玄関ホールに靴も段差もないので、きっと西洋風でいいのだと決めつけ、土足のまま上がり込む。上がってすぐに石の廊下と階段があった。二階は後回しにして廊下へと進む。最初の扉の隙間からも細く明かりが洩れている。霧島はノックした。
「すみません、お邪魔します」
そっと開けた部屋はサロンのようだった。繻子張りのソファセットにロウテーブルがある。窓の傍にはラグが敷かれ猫足のテーブルに椅子が二脚。グランドピアノまで据えられていた。
それでも広さに比して案外あっさりした部屋ではあったが、それなりにカネはかかっていそうだった。
「誰もいないようだな」
さっさと霧島は室内に踏み入った。やや遠慮がちに京哉が続く。ロウテーブルに目をやると紅茶のカップがソーサーに載って置かれていた。ベルガモット香がする。
「アールグレイか。湯気が立っているぞ」
「『まだ温かい、遠くには行っていない筈だ』ってとこですね。でも何処に?」
仕方なく紅茶の主を捜して廊下に出た。幾つか部屋を覗いたが人影は無かった。
一階の最後の部屋は食堂だった。ここまで来ると足音を忍ばせることもない。
「食事中だったみたいですね」
「料理も冷めてはいない。それもまさに食っている途中だぞ」
大きな六人掛けテーブルに載ったプレート類はサロンの紅茶と同じ、どれも湯気が立っていた。ちぎられたパン、スプーンの差し込まれたスープ、切り分けられた肉料理……たった今、家族がここで食事を愉しんでいたのだ。まだ濃厚に人の気配が残っている。
いまにも笑い声が聞こえてきそうで、京哉は顔をしかめた。
「忍さん、こういうのって何か思い出しませんか?」
「マリーセレスト号か。あれは都市伝説だぞ。チッ、ふざけている。二階、行くぞ」
ずかずかと階段を上って遠慮なく二階の部屋を片端から覗いてみたが、殆どが寝室となったどの部屋にも明かりが灯り、あまつさえシーツと毛布が体温で温まったベッドまであったにも関わらず、何処にも住人の姿は見当たらなかった。
「すんごい、やな感じかも。どうなってるんでしょう?」
「ますます嵌められたという気分が抜けないのだがな」
リアリスト二人は幽霊屋敷などとは思わなかったが、気分がいい訳などなく、玄関ドアからしぶしぶ外に出た。
出るなり人影とぶつかりそうになり、霧島と京哉は靴から飛び出しそうなくらい驚く。反射的に二人は銃を抜いていた。
「誰だ!」
人影は大小含めて六人分もある。先頭の中年男が応えた。
「そちらこそ、わたしの屋敷で何をしていたんだね?」
抑揚のない喋り方をする男は半端でなく顔色が悪かった。おまけに頭からつま先まで緑色っぽい液体で濡れている。身に着けたタキシードやドレスシャツからもべたついた液体を滴らせていて、それはおそらくあの生臭い湖水だと思われた。
男の後ろに茫洋と立っている身なりのよい老夫婦も、男の妻らしい青いドレスの女も、小生意気にジャケットと半ズボンを着た男の子二人も、全員が草の葉のような顔色をして頭から固まりかけの腐ったゼリーを浴びている。
「すみません、警察の者です。ロックもされずに外出は不用心ですよ」
強引に誤魔化そうとしながらも、霧島はここにきて肌が粟立つような気分を味わっていた。これは本当じゃない、現実ではないのだという思いが消しがたく湧いている。
目前の家族連れからは血臭にも似た生臭さが漂い、生きた人間特有の気配というものが一切感じられなかったのだ。生者でこれは有り得なかった。
「深夜にお勤め、ご苦労様でした」
タキシードの男が棒読み口調で言ったのを契機に、霧島はその場から立ち去るべくシグ・ザウエルP226を懐にしまって僅かに頭を下げた。
目を離すのは非常に怖かったが、彼らから離れたい一心で振り切るように背を向ける。
そして京哉と肩を並べ足早に草を踏んだとき、独特の風圧を感じて細い躰を突き飛ばしていた。
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